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ナマケモノとタカ 第一章 第三話
ナマケモノとタカ編
第一章 第三話「かくしごと」
「えっ、マキが!?」
「…………うん」
「な、なんで? マキ、一年生のときから今まで、そんな、誰かと喧嘩なんてしたこともないじゃない」
「俺だってわかんねー……」
いつもの花屋。スピカは、珍しくマキの方から呼び出されてそこにいた。
「何がそんなに嫌だったの?」
「…………分かんねぇ。ただ、カッとなって、気付いたら頭掴んでた」
「わかんないよ。マキ、すごく優しいのに」
「俺だって、なんであんなに腹が立つのかわかんねぇよ」
マキはどこか落ち込んだ様子でうつむいた。こんな友人の姿を見たのは初めてで、スピカは困惑した様子だった。
「マヒロ先輩、俺の親呼ばなかったんだ。先生に口止めしたって。……怪我して、血まで出てんのに。足のことも……、俺、あんなに酷く言ったのに…………」
「……マキ、あんなにシラトリ先輩のこと好きだったじゃない。どうしてそんな……」
「あんな奴嫌いだ! ……嫌いだ、けど………」
「うん」
「…………わかんねぇ」
マキが椅子に足を上げ、膝を抱えた。
「……ふは、若いね、ナマケモノの坊や」
店主のジンが新聞から顔を上げてにやりと笑った。
「なに?」
「いやなに、俺の若い頃を思い出してた。俺にも、友達を酷い目に合わされてカッとなってしまったことがある」
「ジンさんって友達いたんだ」
「はは、いないように見えるかい」
「ちょっとね、変わってるし」
「いい度胸じゃないか、坊や」
「わわ、冗談冗談! ジンさんいい人だもん、友達いっぱいだよな!」
スピカがくすくす笑った。マキは静かになって出されていたコーヒーを飲んだ。
「お前のそれは、思春期の獣人によくある話さ。俺達は半分獣だからな。心が不安定になると、感情のコントロールが極端に難しくなる奴もいる。嫌いだと感じた瞬間殴りかかってたりな。……しかし、お前のは、ただ“嫌い”って感じではなさそうだが」
「……どういう意味?」
マキが尋ねると、ジンは新聞紙で口元を隠してほくそ笑んだ。
「……まあ、大人になれば分かるさ」
「大人っていっつもそうだ。先のばし、いずれ、大人になれば分かるってやつ」
「ははは、大人の特権なのさ。それくらい好きに使わせてくれ」
マキは何かを考え込むように静かになった。スピカはマキをちらりと見て、それからすぐに花の観察に移ってしまった。自分は適任でないと感じたらしい。
「…………ねぇ、ジンさん。コントロールするにはどうすればいいの?」
「……大事なのは、どうしてその男をねじ伏せたいかを知って、それを改善させることだろうな。考えてみな、坊や」
「嫌いだから。腹が立つ」
「はっはっは。単純明快だ、坊やらしい。“嫌い”なら仕方ない。近づくな」
ジンは静かにそう言って、読みかけの新聞を見つめた。
四時前になり、スピカが帰ってしまってから、ジンはマキに言った。
「…………坊や、お前は人を嫌えるような奴じゃない」
「……どういうこと?」
「お前は底抜けに優しい子だから、人を嫌うことはないと言ってるんだ。きっと坊やは、その感情を正しく表す表現を知らないだけだろう」
何に対して腹が立っているのか。何が嫌だったのか。まだ視野の狭い子どもであるマキは、おそらくそれを正しく理解していない。
マキはうつむいた。
「……そしたら、俺は、ジンさんが思うほど優しくなかったのかもしれない」
「……はあ、きかん坊め。どうしても嫌いだと言いはるんだな。……全く若いな、本当に」
ジンは、手に取った花を短く切り、マキの胸ポケットにさした。
「ほら、プレゼントだ。さっさと帰りなさい」
「花よりお菓子がいい」
「はいはい。これ持って帰れ」
飴玉を受け取ったマキは、悩みなどひとつも持っていないかのように笑った。彼のいいところであり、悪いところだ。
「ありがとう! じゃあね、ジンさん」
「……っ、坊や!」
ジンに声をかけられたマキは、少し行ったところで振り返った。ジンは少しだけ間をおいて、ゆっくりと口を開いた。
「…………そう自分のことを嫌うな」
呟いたジンの小さな声は、マキには届かなかった。
「えー、聞こえないよ! ジンさん、何言っ……あっ! 俺カバン忘れてた!」
慌てて駆け戻って来たマキを見て、ジンは苦笑した。
「……ほら、ちゃんと持って帰りなさい」
「ありがとう」
マキの黒い目が緩く細められる。どことなく切ない、大人びた笑みに、ジンは目を奪われた。
その夜、マキは過去のことを夢で見た。マキが15歳、学校へ入学して5年目の8月。その男は突然、マキに声をかけてきた。
「お前が、マキ・タチバナか」
「……誰?」
「俺は六学年のマヒロ・シラトリ。お前は第五学年、ナマケモノのマキ・タチバナか」
「そうですけど」
やけに高圧的な態度の男だと思った。名前をフルネームで呼んだり、単調な口調だったり、一言で表すなら、おっかないといった感じだ。この頃背の小さかったマキは、自分より果てしなく大きなこの男に圧倒された。
「先日、第六学年のガゼルの生徒にイタズラを仕掛けて逃げたというのは本当か」
尋ねられたマキは、分かりやすくびくりと飛び跳ねた。
「は、はあ? し、知らねーよ、そんなの」
「では、他にナマケモノの生徒に心当たりはあるか」
「なんですか。知らねーっすよ俺は」
「本学に在籍するナマケモノの生徒は君だけだった。そして、君はいたずら好きで有名だな」
逃げ場を失い、マキは怖くなった。
上級生にちょっかいをかけると、時折やり返しに来られることがある。マキは一度、肉食の生徒にこてんぱんに懲らしめられてからは、絶対に肉食にはちょっかいを出さなかったが、草食のガゼルに肉食と繋がりがあったとは誤算だった。
「だったらなんですか。俺、金なんか無いですからね」
「やはり君か。いや、俺がほしいのはそんなものではない」
マキは相手を下から睨み上げた。睨んでみたものの、怖いものは怖い。冷たい汗が首筋を伝う。
ほしいものが、金でないなら。
「じゃあ、なんですか」
「君だ。君がほしい」
予想し得るなかでも一番最悪な言葉にマキは身構えた。心の中で、深く反省した。
震える口でなんとか言い返す。こういう時、気持ちで押し負けてはいけないと、自分を鼓舞してなんとか食い下がる。
「悪いですけど、貴方にくれてやる身体なんてないんですが」
「? ああ。もちろん、俺にくれなくていい」
「は?」
マキは心底訳がわからないという表情をした。“君がほしい”ということは、つまりそういうことなんじゃないのか。マヒロは威圧的な表情を崩さずに、まっすぐに右腕を差し出した。
「お前、うちの陸上部に入らないか」
「……はい?」
マヒロは無表情だった。ただ、その金の瞳がギラギラと燃えるようで、少し恐ろしかった。
「ガゼルの生徒は、陸上部の要の選手だ。だが、お前はその生徒を撒いた。素晴らしい脚力だ」
「い、いや、そんなの、どうってことないし」
「これは、どうってことないで済まされる話ではない。お前の力は本物だ」
マキはうろたえる。そりゃ、昔から足は速かった。だからいたずらが散々成功してきたのだ。
「……俺、でも、ナマケモノだし……」
「種族など関係ない」
マヒロはマキの手を無理やり掴むと、強い口調で言った。
「頼む。陸上部に入ってくれ。お前が必要なんだ」
マキはしばらく黙っていたが、やがて恥ずかしそうに微笑んだ。
「いいですよ。そんなに言うなら、入ります」
「本当か!? ありがとう!」
マヒロは今までの無表情から、ぱっと表情を変え、嬉しそうに笑った。心底、嬉しそうに。
その時の眩しい笑顔が、マキは忘れられない。
「マキ、すごいタイムですね」
「マキは絶対にいい選手になると言っただろう」
「アイツが足速いなんて知らなかったです」
記録係をしていたリクが嬉しそうに言う。マヒロはマキのタイム表を見て、ふっと笑みを零した。
「マヒロ先輩!」
マキが駆け寄っていくと、マヒロがマキを見た。マキは側まで寄っていくと、満面の笑みで話し始めた。
「マヒロ先輩、また一位だったと聞きました!」
「ああ。この間の高跳びだな」
「すごいですよ、本当に! 俺、マヒロ先輩みたいな人になりたいんです」
横から、リクが口を出した。
「お前は十分いい成績なのに、まだ上を目指すのか?」
「俺は、誰にも負けない陸上選手になりたいんだよ」
マキが答える。マヒロは表情は変えなかったが、マキの肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だ。お前は誰にも負けない選手になる」
マキは、この単調にしか話さないにんげんが好きだった。淡々としているが、人の話はなんでも聞いてくれる。マヒロの中で何度も練り直されて出てくる言葉は、人を確実に勇気づけてくれる。陸上部の皆が、恐れながらもこの人を慕い、従うのも当然だと思った。
「マヒロ、来なさい」
ふと、監督がマヒロを呼んだ。マキが少し寂しそうな顔をする。マヒロはいつも、監督と長く話し合いをしている。きっと今日もそれだろう。
思った通り、マヒロは副部長に後を任せ、静かに監督についてグラウンドを出ていった。
「大変だよね、マヒロ先輩もさ」
「そうだな」
「てか、お前マヒロ先輩のこと好きすぎるだろ」
「当たり前だろ? マヒロ先輩はすごい人だからな。種族差別はしないし、ちょっと怖いだけですごい優しいし」
「いやいや、だいぶ怖いけどな? マキも最初すごいビビってたじゃん」
「前はな! 今は、あの人を尊敬してるんだ」
あの人は、未来のこの街を守っていくに相応しい人だ。きっと彼に関わった誰もがそう思うだろうと、マキは思った。
「マヒロ先輩なら、きっとこのイーストタウンを、いい街にしてくれる。孤児院の問題も、地下とのいざこざも、首輪とか差別とか、きっと改善されて、この街はセントラルシティよりもいい街になる」
「マキは考えることが大きいなぁ」
リクがケタケタと笑った。けれど、それを思わずにはいられないほどに、マヒロには大きな力があるように感じていた。
「あーあ、まーた監督のご機嫌取りか」
「仕事押しつけやがってよ」
部活中、ヒソヒソと気だるげに話す先輩の声が耳に入った。マキは気になって、そっとその集団に近付いた。
「気持ち悪いんだよな、ああいうのがいると風紀が乱れる」
「お前が風紀語んのめっちゃウケる」
「つかさ、どう考えても、アレはないだろ。監督もシュミ悪ぃよなぁ」
「ゲテモノだよな」
何の話か具体的なことは分からなかったが、喋り方で、なんとなく、下劣な話だというのは分かった。
「……マヒロも、代表になるためなら手段選ばないのな」
今、誰って言った?
マキは驚き、その場に立ち尽くした。突然、息が詰まったように感じた。
「マヒロってご奉仕とか下手そうだけどな」
「あー、分かる」
「はは、分かんのかよ」
逆恨みだと思った。マヒロは実力のある選手で、あれは監督と話し合いをしているだけで。
「でもさ、盗み聞きしたヤツは、意外といい声だったって言ってたぜ」
「冗談だろ」
マキは、気づけば監督とマヒロがいつも話し合いをしている部屋の前にいた。そして、死ぬほど後悔した。
部屋から漏れる小さな声と、嫌な水音。乱れた呼吸音。自分の心臓がバクバクと音を立てている。
マキは壁に寄り掛かり、ずるずると崩れ落ちた。
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