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ナマケモノとタカ 第一章 第四話

ナマケモノとタカ編  第一章 第四話「本音と嘘」  ガシャンガシャン、と大きな音が何度かして、マキはうっすら目を開いた。  嫌な夢を見てしまった。夢の中の光景や音が、目や耳にこびりついているようで、マキは頭を振った。 「なに……今の音……」  目をしばしばさせていたら、突然、何かに腕を引っ張られた。 「遅刻しちゃうよ兄ちゃん……!」 「んーートキかぁ? いいよ。兄ちゃんはあとちょっと寝る……」 「良くないよ!」  マキの弟のトキが、マキの布団を引っ張った。大きな尻尾を持て余すように、ぶんぶんと不機嫌そうに振っている。  先の大きな音は、トキが枕元でボウルを床に落とした音だったようで、床には大小さまざまなボウルが転がっていた。 「もうスピくん迎えに来ちゃったよ!? 早くしてよ兄ちゃん!」 「嫌だ」 「マキ! 早く来なさい! スピくん待ってる!」 「かぁさん助けてよぉ……!」  これは、タチバナ家の日常だ。ナマケモノ族のマキとマキの父は、いつも叩かれたって、起きる気配すらない。  やっとマキが起き上がって制服のシャツを着たときには、トキが呼びに来てからもう20分近くが経過していた。 「いってきます!」  大きな声でトキが言い、マキも連れられるようにして家を出る。大きくあくびをしていたら、スピカがにこりと微笑んだ。 「おはよう」 「おはようスピくん!」 「今日は暑いねえ」  スピカが手で汗を拭いながら言った。トキは嬉しそうにスピカに飛び寄ると、周りをぴょこぴょこ飛び跳ねた。 「あのねあのね、俺今日ね!」 「うん、なーに、トキくん」  マキは二人に引きずられるようにして通学路を歩く。学校まではそう遠くない。首輪のないスピカは、学校の送迎バスに乗れないため、スピカとマキの二人は、毎日歩いて登校している。今日のように、たまに弟のトキも歩いて登校することがある。 「それでね、俺ねぇ」 「……んぁ? なんでトキが一緒にいるんだ?」  マキがあくびしながら言った。今までニコニコと笑っていたトキが、突然むすっとした顔でマキの短い尻尾を掴んだ。 「んびゃい!」 「俺ずっといたもん!」  突然目が覚める。マキが尻尾を手で隠すようにして、弟を睨んだ。 「もートキ! 尻尾掴むのはセクハラなんだぞ」 「知らなぁい」 「知っとけよ! 常識だろ!」 「マキも三年までやってたじゃん」  スピカが小さな声で言った。トキはにまにまと笑ってマキをのぞき込んだ。 「常識なのに知らなかったんだねぇ」 「う、うるせーよ! ……あれは、……その、俺は知ってたんだ!」 「ふふふ、知ってて尻尾掴んでたの?」 「兄ちゃん、そういうのヘンタイって言うんだよ」 「おい……、もうやめてくれよ……」 「あはは、兄ちゃんヘンタイだぁ!」 「トキ!」  マキは頭を掻いて顔を真っ赤にしていた。  しばらく歩いていくと、学校が見えてきた。三人は校門をくぐる。ふと、運動場から声がした。 「以上だ! 朝練を終了する!」  その時、げ、と声を出し、マキが固まった。 「あ、マキ、あれ、マヒロ先輩だよね。やっぱり迫力があるよね。……………マキ?」 「や、やべえ。殺される」 「えっ、マキ?」  マキは慌てた様子で、部室棟の方へ走り去ってしまった。 「兄ちゃん、朝練あるの忘れてたのかも」 「陸上大好きなマキが? いつもは朝練があるときはちゃんと起きてるのに。どうしちゃったのかな、最近変だよ、マキ……」 「兄ちゃん、最近家でも上の空なの。何かあったのかなぁ」  トキはもちろん、マキの両親でさえ、マキがあのマヒロに暴力を振ったことを知らない。スピカは何も言うことができず、黙り込んだ。 「行こっか、トキくん。遅れちゃう」 「うん」  スピカ達二人が歩き出したとき、マキが練習着が半分脱げたような状態でグラウンドに走っていくのがちらりと見えた。  「どうして朝練に出なかったんだ、マキ」  部活後、暗くなった校庭で、朝練の遅れを取り戻すべく自主練習をしていたマキに、マヒロが声をかけた。 「忘れてました。完全に」 「そうか。……お前、最近部活中も上の空だな」 「……さーせんした」 「…………あのことを気にしているのか。だとしたら気にするな。大した怪我でもない」  血がかっと熱くなった気がした。胃がムカムカして気持ち悪い。  大した怪我でなくとも、明確に危害を加えようとしたというのに、どうしてマヒロは“気にするな”などとふざけたことが言えるのか、マキは理解できなかった。  腹の底から怒りが湧き上がる。何故彼は、自分と真正面から対峙してくれないんだろうか。 「別に気にしてません。俺は何も」 「そうか。それならいい。……だが、タイムも、なかなかベスト更新されないな」 「今、調子よくないだけなんで。大会までには、ちゃんと……」 「…………そうか」  マヒロは静かになった。元々、多く語る人ではない。マキは、マヒロが帰ってしまうまで再び走ることにした。100mをいくらかやっていれば帰るだろう。そう考え、マキは息を吐いて、カッとスタートを切った。  走る。走る。風の隙間を縫うように、滑らかに。遠くへ、もっと、もっと。  ゴールラインを超え、緩やかに減速する。 「っ、はぁ、はぁ……」  違う。自分はもっと速く走れる。はずだ。はずなのに。  頭がごちゃごちゃして追いつかない。マキはもう一度スタートラインに戻った。 「9秒22だ」 「……は?」  マヒロは、帰ろうとする気配すらなく、まだそこにいた。 「俺の目が間違えることはない」  そんなことを不思議に思ったんじゃない。マキは眉をひそめた。 「まだいたんですか?」 「当然だ。お前の自主練も最後まで見てやらなきゃならんだろう」 「…………とか言って、他に用事があるんでしょう」  マキはぎりぎりと歯を噛み締めた。マヒロと話していると、いつも嫌なことしか浮かばない。 「そんなことはない」 「ハッ、また嘘つくんですか。……どうせ今から監督の、だろ」 「……」  マヒロの目が大きく開かれる。右手がぴくりと跳ね、困惑しているのが伝わってきた。 「……知らないと思ってました? 知ってますよ」  マヒロはみるみる青い顔になった。それを見て、マキはアレは自分の幻覚でも、夢でも勘違いでも何でもなく、事実なのだと理解した。  無性に腹立たしい。何故、何故こんなにも。 「俺はあんたらみたいな富裕層が嫌いだ。欲に溺れて、馬鹿みてぇだ」 「………そうだな」  マヒロは俯いてそう言った。  何故言い返さない。何故生意気を言う自分を叱ってくれない。 「そうだよ、あんたのそういうところが……気に入らねぇ……」  マキはマヒロの胸ぐらを掴んだ。 「俺の言葉なんて聞いちゃいねぇ! あんたは、俺を見やしない!」 「……怒っているのか、マキ」 「うるせえんだよッ!」  マキは叫んだ。震えていた。自分が怖かった。 「怒ってんだ、あんた見てると腹が立つ……!」 「……それなら、マキが満足するまで俺のことを自由にすればいい」 「ッ! そういうとこが腹立つんだよ! いい加減にしろ、クソ野郎……!」  俺は何に対して怒っているのだろう。どうしてこんなに腹が立つのだろう。  マキはマヒロを地面にねじ伏せると、上に乗り上げて体を抑えつけた。 「俺が嫌いなんだな、お前は」 「当たり前だろ」 「俺は、お前のような素直な後輩がいてくれて嬉しい」 「…………」  マキは言葉に詰まった。何故今そんなことを言う。 「お前は、俺の汚いところをしっかり見てくれるヤツだ。俺のそういうところが嫌いだと、まっすぐ言ってくれるヤツだ」  マヒロはもう抵抗しなかった。前髪が乱れ、服や腕には泥がつき、マキの下で少しの力も入れずに寝転んでいる。かつて、マキが賞を取るたびに嬉しそうに笑い、自分のプライドにかけて正しく生き、皆をまとめ上げていたそのたくましい憧れの姿は、そこにはなかった。 「……なん、でだよ……っ」  マキは視界がチカッとした。彼のくすんだ金の瞳が、こちらをぼんやりと見ていた。 「デタラメ言うなって、生意気言ってんじゃねぇって言えよ。……少しくらい、俺のこと嫌えよ……っ」  マキはマヒロの髪から手を離すと、立ち上がってバッグを肩にかけた。 「……もういい」 「……マキ?」 「もういい。俺、陸上やめます」 「ま、まて、マキ。陸上部にはお前が必要だ。監督だって……」 「俺は、監督や陸上部のために走ってるんじゃない!」  マキ、と小さな、弱々しい声がする。マキはなんだか悔しかった。苛立ちが抑えきれなかった。  どうしてそんな声で俺を呼ぶ。どうして、俺をそんな悲しい目で見る。 「俺は、あんたが嬉しそうにするから、笑ってくれるから、だから走ってたんだ……っ!」  マヒロの金の瞳が見開かれ、揺らいだ。 「マキ、俺は……」 「……全部監督に指示されてんだろ。知ってんだよ。あんたが監督の言いなりになってること。あんたは自分から望んで監督の犬になってること。監督の名誉のために、俺が退部するのを阻止しろって言われてることも……!」 「お前、どこで、それを……」 「でも、あんたは俺をかわいがってくれてたから、……笑いかけてくれてたから、あんなの、きっと嘘だって信じてたのに」 「…………」  マヒロが口を閉じた。 「あんた、わざと足を怪我しただろ。監督に言われたら、どんなことでもやってのけるんだな」  マキが、マヒロの頭をトンと押した。マヒロは簡単に地面に膝をつく。食物連鎖の王が。ナマケモノの前に、膝を。 「俺は、あんたに陸上に誘われて、すげえ嬉しかったのに」  マヒロが一瞬、いつもの無表情を崩した。マキはバッグを肩にかけると、地面に座りこんだままのマヒロを置いて歩き出した。 「……そんなに好きなら、監督のもんになっちまえよ」  何故か苦しかった。ただ突き放すつもりで言った。それなのに、マヒロが人のモノになることに、マキは強い嫌悪感のようなものを抱いた。  それと同時に、良くない気持ちを感じた。今すぐこの男の頭を地面に押さえつけ、どこにも逃げぬよう四肢を削ぎ、地面に縛り付けて、種を注がねばならないと。  自分が恐ろしかった。どんどん欲に溺れ、獣のようになっていく自分が。 「マキ」 「…………」  呼びかけられて立ち止まる。振り向くことはできなかった。 「お前だけは、俺を見てくれる。汚い俺を汚いと言ってくれる。俺はそれに……、それに心から救われている」  マキは歩き出した。この男の近くにいては、自分がどんどん自分でなくなっていく気がした。 「マキ、俺はお前が何より大切だ。俺の何も、もう信じてくれなくてもいい。でも、これだけは、確かに本当だ」  マヒロは、はっきりとした声で言った。 「俺に、お前が必要だったんだ」  マキは何も言わずにグラウンドを後にした。黒く濁った空がドロドロ溶けてきそうな、満月の夜だった。

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