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ナマケモノとタカ 第一章 第五話

ナマケモノとタカ編  第一章 第五話「鷹は穂を掴まない」  荒い息遣い。生温い体温。膣に性器を打ち付けられる痛みと、粘ついた水音。  自分の人生がここで終わる。マヒロはゆっくりと息をする。くだらない人生だった。けれど、決して、虚しいばかりの人生では、なかった。マヒロは、逃げるように思考した。 「マヒロ」  父親の声に、はい、と返事をして目の前に正座する。小さな手のひらを膝に添え、幼いマヒロは父親に向かい合った。 「お前の嫁ぎ先が決まった」 「……え?」 「セントラルシティの有名な政治家一族の方がお前を大層気に入ってくださったんだ」  マヒロはポカンと口を開いてしばらく呆然としていた。まだ九歳になったばかりのマヒロには、少しばかり難しい話であった。 「あの、父上、俺」 「まずは感謝だろう」 「は、はい。ありがとうございます。…………ですが、あの、なんで、俺なんかを」  兄弟の中でも落ちこぼれ、賢さも愛嬌も愛想もない。  父親はタバコをふかしながら無表情のままでマヒロの頭を撫でた。 「お前の顔が綺麗だからだ」 「……俺の……?」 「あの低脳な母親に感謝することだな」  父は暗い目をして呟いた。 「18になるまで返事は待つと仰っているが、お前に選択肢はない。お前の結婚さえうまくいけば、シラトリはセントラルシティでも通用する一族になる。絶対に結婚を受け入れろ」  相手のほうも、父親は絶対にこう言うと分かって言っているのだろう。幼いマヒロにも、それはなんとなくわかった。 「できるだろう、マヒロ」  ここではいと言わねば殺される。シラトリ家はタカの一族。価値のない子どもなど、肉塊に等しいのだから。  13歳を迎えた年、マヒロは初めて自分の婚約者と出会った。その男の気味の悪さと言ったら、今でも鮮明に思い出せるほどだ。 「……はじめまして、マヒロ・シラトリです」 「はい、はじめまして」  男は、ゾッとするような笑顔でマヒロに笑いかけた。男はセントラルシティで名の知れた一族の三男で、今はイーストシティの事業を任されているのだといった。ついでとしてやっているという、イーストシティの学校の陸上部に誘われ、マヒロは素直に入部した。特段走ることは得意ではなかった。 「アイツ監督のお気に入りだよな。大した成績でもねぇくせに、なんでメンバー入りしてんだか」 「え、お前知らねぇの? ご機嫌とりしてんだよ」 「ご機嫌とりって?」 「ほら、口でよ」 「あはは、汚えよバカ。やめろよ」 「いやいや、マジなんだって。ここだけの話さ……」  同級生や先輩には目をつけられ、馬鹿にされ続けた。不器用で無口で無愛想。そんなマヒロが、“ご機嫌取り”で監督に贔屓されているとなれば、周囲から孤立していくのは当然だった。  しかし、マヒロは努力家だった。様々な競技に挑戦し、どの競技にも全力を上げて取り組んだ。そのかいあって、マヒロは、同級生や先輩よりも良い成績をおさめるようになった。誰も表立ってマヒロを認めようとはしなかったが、心の内ではその努力を密かに尊敬していた。  十六の夏、マヒロが見つけたナマケモノは、そんな周りとはどこか違っていた。 「あっ! マヒロ先輩!」 「……ああ、マキか」 「やっと見つけた! この前の高跳び、いいとこまで行ったってききましたよ!」  いつでもどこでもついて回り、自分を褒め称えてくれる。こんな自分に敬意を持って接してくれ、好意や尊敬を全面に押し出してくる。周りの目など気にもとめず、自分の気持ちに正直で、どこまでも素直で優しいナマケモノ。 「ホントすごいっすよね! 俺、もっと頑張って、マヒロ先輩みたいになりたいんですよ」  そうやってからっとした笑顔で笑うその男に、マヒロは自然と惹かれていった。  自分の醜い部分を、見せずにいたいと初めて思った。 「最近マヒロ先輩とっつきやすくなったよね」 「そーかな?」  ある日の昼休み、マヒロは、マキがもぐもぐとパンをほおばりながら、同じ陸上部のリクと話しているのを見つけた。 「うん。前はもう、無って感じだったじゃん」 「うーん、ま、出会いたての頃よりはよく笑うようになった気はするな」 「えっ、笑ってるとこはさすがに見たことないけど」 「うそ、あの人結構笑うけど」 「そんなのマキの前だけだろ。俺は見たことねぇよ」  自分はそんなにマキの前で笑っていただろうかと首を傾げる。小さい頃からどう頑張っても愛想がないと言われ続けてきたマヒロには、思い当たる節がない。 「……マヒロ先輩、笑うと可愛いんだぜ」  マキの声は、甘く軽やかで、いたずらっぽい雰囲気を孕んでいた。  足の先から頭の先へ、ぶわっと血が登っていくような感覚がした。心臓がドッと音を立て、体温が急速に上がる。マヒロは脳内いっぱいにクエスチョンマークを浮かべながら、地面にへたり込んだ。 「馬鹿を、いうな……」  初めてだ。生まれて初めてそんなことを言われた。顔が熱い。 「……お前さ、素直なとこはいいとこだけど、なんか阿呆だよな、全く」 「なんだよ、思ったこと言っちゃうだけだろ」 「まあそうなんだけど」  マヒロは立ち上がってその場を去った。ここにいたら、おかしくなってしまいそうだったのだ。  「うぉおお! すげぇ! 海ですよマヒロ先輩!」 「そうだな」  合宿で訪れたとある海。高い崖の上にある旅館と、近くにある陸上競技場が、今回の合宿所だ。崖の上から下を見れば、黒い岩が目立つ白い浜辺で、海水浴客が遊んでいる。 「……海が好きなのか?」 「テンション上がるでしょう?」 「海でか?」  海に面しているイーストシティでは、大して珍しくもない。しかし、そんな中でも、マキは海ではしゃげるようだ。 「あー、泳ぎてー! リクいねぇかなぁ」 「遊びに来たんじゃないんだぞ」 「分かってますよ。ちょっと足入れるだけ、ちょっと!」 「駄目だ、海は危ない」 「あとで行きましょうよ、ねぇ! 自由時間に!」 「マキ」  マヒロはマキの腕を掴んだ。 「海は危ないんだ。よしてくれ」  マヒロがあまりに真剣な顔をするので、マキはなんだか悪いことをしたような気持ちで目を伏せた。 「……はぁい」  マキが反省した様子を見せていたので、マヒロは手を放して息を吐いた。  しかし、マキという少年は、そんなことで何秒も反省するほどおとなしい子どもではない。 「危ない危ないって、マヒロ先輩って海怖いんですか?」  数秒後、マキは頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出した。マヒロが眉をひそめる。 「そうはいってない」 「泳げない?」 「そうはいってない」  マヒロはマキから目を逸らす。マヒロは幼い頃から、何故だかどうしても泳げなかった。 「……あははは! でも先輩はたかーく飛べるからプラマイゼロですね」  マキがにかっと、楽しそうに笑う。青い海が輝いて、白い砂浜にマキの黒髪がよく映えた。  いつか、マキと海に行きたい。マヒロは、そんな淡い夢を抱いた。 「……どうかしました?」 「え?」 「何か考えてましたよね?」  少しだけ背の低い彼は、マヒロを見上げ首を傾げる。マヒロは、ゆっくり口を開いた。 「……マキと…………」 「あ、マキー! マヒロ先輩知らな……マヒロ先輩!」  リクは少し怯えたような顔をした。マヒロはバスの影になっていて、彼からはマキしか見えず、まさかマヒロが隣にいるとは思わなかったようだ。 「……どうした?」  マヒロが向かい合うと、彼は怯えた表情で目をウロウロさせた。 「あ、えと、監督が、話があるから連れてこいって言ってました」 「すぐ向かう」  マヒロは歩き出す。マキといると、自分で自分が分からなくなるようだ。 「……今話してたのに」 「はいはい、ごめんね」  後ろで、マキの残念そうな声が聞こえた。  「何を考えてる?」  マヒロはゆっくりとした動きで振り返る。監督が、マヒロを疑うようにじっと見つめていた。 「……貴方のことを」  マヒロは淡々とした口調で嘘を吐いた。シャワーを浴びてもまだ身体がベタベタしている気がしたが、構わずにシャツを羽織った。 「……シラトリの奴らはだめだな。美人の価値をちっとも分かっていない。あいつらは力が全て。だから一生弱者のまま終わるんだ」  煙草をふかしながら、彼はニタニタ笑う。そんなことを言う彼も、大した実力もなく、向上も見込めないから、こんな下層の男を嫁にしたりするのだろう。 「…………お前、マキが陸上部辞めるそうじゃないか。アイツはいい選手になると思っていたのにな」  突然、マキの話を振られ、一瞬ぴくりと肩が跳ねる。しかし、マヒロはいつもと変わらぬ無表情を貫いた。 「申し訳ございません……」 「アイツが選手になれば目立っただろうなぁ。ナマケモノの短距離走選手! ……きっといいビジネスになったのに」  制服のボタンを留めようとしていた手が止まる。ギリ、と拳を握りこんだ。 「……まあいい。今日はマキのことは水に流そう。……なにせ、やっとお前が手に入ったんだからな」  監督の手はマヒロの頬を撫でる。マヒロはそっと彼の口に口づけた。 「…………大学部まで通うと言われたときは、俺から逃げたいのかと思っていたよ」 「とんでもない。……貴方に見合う男になるためです」 「ハッハッハ、半年かけて、自分は何者にもなれないとやっと悟ったか?」  監督が大口を開けて笑った。不思議と、悔しさも怒りも沸かなかった。 「……はい。十分に理解しました」  マヒロは起伏のない声音で言った。

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