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ナマケモノとタカ 第一章 最終話
ナマケモノとタカ編
第一章 最終話「好きだと言えない」
マキは陸上部をやめ、それから二日学校を休んだ。今までは、風邪をひいても学校に飛び込んでくるような子どもだったのに、その二日間は、どうしても、学校に行く気にはなれなかった。
友人であるスピカがひどく心配し、家を訪れ、顔が見たいと言っても、決して部屋に入れはしなかった。ただ、来てくれてありがとなと、いつもの調子で言うだけだった。スピカは、無理をしないでとだけ言った。
「にいちゃん……?」
「トキ? どうした」
弟のトキが部屋の前から話しかけてきた。時計は午後七時を指している。あまりにいつも通りの兄の声に、トキは狼狽えた。
「ご飯だよ、食べよう?」
「……ごめんな、トキ。俺、外出たくない」
「どうして? 俺、兄ちゃんとご飯食べたいよ」
「うん。分かってる。ごめんな」
誰が何を言っても引き篭もったまま出てこないマキを、誰もが心配した。
二日前、家に帰り着いたマキは、どうしようもなく腹が立っていた。物にも人にも当たり散らした。弟に手を上げそうになったとき、父が本気でマキを叱りつけた。あんなに激昂する父を、マキは生まれて初めて見た。正気に戻ったマキは、そのまま部屋にひきこもった。
腹の底が煮えたぎるように熱い。今すぐにでもあの人を…………。
「……あの人を、どうしたいんだろう…………」
やはり、マヒロのことが嫌いだから、自分は彼を殴りたいのだろうか。あの人が惨めに命乞いする姿を見て、それで満足だろうか。
「……違う」
違う。自分は、本当はマヒロが嫌いなのではない。あの人は、憧れで、尊敬する人で、本当は、本当は…………。
マキは、自分がその先の気持ちに気づくことを恐れ、縮こまって目を閉じた。
「…………クソ」
マヒロは小さくうずくまった。この卑劣な感情が、ひどく恐ろしかった。
「わざわ………う」
「すま……、………って」
何か聞こえる。父と母の声だろうか。酷く眠くて、頭が回らない。
「……ぃちゃ……!」
トキが呼んでいる気がする。けれど今は、とても喋る気にはなれない。マキはまたうとうとと微睡んでいた。
「兄ちゃん!」
トキの叫ぶような大声に、やっと目が覚めた。トキが部屋の前で自分の名前を呼んでいる。マキはドアの近くへ寄った。
眠くて眠くてたまらない。マキは寝ぼけた声で言った。
「んー、どうしたぁ、トキ?」
「お客さんだよ、お兄ちゃんに」
こんな時間に。またスピカだろうか。けれどマキは、今はスピカとも話せる気がしなかった。
「……悪いけど帰してくれるか?」
「駄目! 緊急だって、言ってたから」
トキが勝手に下へ降りていき、客を部屋の前へ連れてくる。ドアの前に客を残したまま、トキはさっさと下へ帰ってしまった。マキは静かに部屋の隅で丸くなった。スピカだろうと先生や他の友達だろうと、誰が来たって、今は話したくない。
「……マキ」
無機質な低い声がした。マキは思わず顔を上げる。聞き違えるはずがない。
トキが勝手に通してしまった客は、よりにもよってマヒロだった。
「…………お前が学校にも来ていないとスピカくんに聞いた。……体調が悪いのか」
マキは黙ったままだった。
「いや、違うな。俺と会うのが嫌だったか」
「……帰れ」
マヒロはドアの前に立ったまま、動かなかった。
「お前が言っていたことは、あらかた正しい」
「当たり前だろうが。見てたんだから」
「そうか、そうだな」
マヒロはいつになく穏やかだった。
「お前は、監督がどんな人間か知っているか」
「…………」
「彼は、この世界の中心……セントラルシティの位の高い一族の息子だ。いずれ、このイーストシティの上位に立つことが決まっている」
そういう噂は昔からあった。けれど、マキはそんなものただの噂だと思って、気にもとめていなかった。自分に少しでも関わりがあるとも思っていなかった。
「少し俺の話をさせてくれ」
マヒロはそう、静かな声で言った。
「……俺の一族、シラトリ家は、イーストシティではそれなりに名の知れた……、普通に比べたらもちろん権力を握っている一族だ。だが、セントラルシティの王族や、政治家たちに比べたら、俺たちは大した家ではない」
「…………」
「……だから俺の父は、シラトリ家を大きくするために、俺を使った。幼い頃の話であまり覚えていないが、監督が、俺を嫁にと言ったそうだ。……俺は、兄弟の中でも落ちこぼれ。だから、成果を出さないと、すぐに殺される」
マキは、目を見開いて、扉を凝視した。自分を恥じ、愚かしく思った。彼の家のことなど、マキはまるで知らなかった。勝手に彼に期待し、勝手に失望した。彼が変わってしまったと、悲しみ嘆いた。
彼が自分を見てくれなかったのではない。自分も、彼をまっすぐに見られなくなっていたのだ。
マキはもう続きを聞きたくなかった。逃げ出してしまいたいと思った。
「お前言ったな。『監督のモノになれ』と。……犬のように従い、この人の横について俺が子供を授かれば、シラトリ家は恩恵を受けられる。そして、俺は絶対に生き延びられる。……俺も、ずっとそう考えていた。いずれ俺は、あの男に愛を誓って種を貰い、シラトリ家に貢献すると、幼い頃から決めていた」
「……」
「……だが、お前と出会って変わった。……ずっと、俺の気持ちの整理がつかなかった。俺はお前を、一番大切に思っていたから」
「…………でも、あんたは監督を選んだんだな」
匂いがする、とマキは言った。嗅ぐのも嫌になるような、生臭い臭いと、他人の臭いがする。
「……俺の気持ちが、監督の元に無いのではと勘づかれた。馬鹿らしいが、あの時はお前のことで頭がいっぱいだったんだ。怒り狂ったあの人に床に叩きつけられて犯されて、もう誤魔化すことはできないと思った。……だから俺は、俺の全てを捨てることを決意した」
マキは胸がざわついた。勢いのままにドアノブに手が伸びそうになる。今すぐにマヒロを押さえつけて、首に噛み付いて、殺してやりたかった。
「正式な婚約を申し出た。大学部を退学することも伝えた。彼は満足そうに受け入れた」
「……っ、やめろ。……あんた、それを俺に言ってどうしたいんだ」
「頼む、黙ってきいてくれ。話すことを考えてからここへきたんだ。……俺の膣に種が注がれる前だ。俺は、柄にもなく、怖くなった。自分の人生がここで終わるという恐怖。あんなに人生で恐ろしかったことはない。そんな中で、俺が思い出したのは……」
「もうやめろ!」
マキの大声に、マヒロはピタリと喋るのをやめた。マキは立ち上がり、ドアノブに手をかけていた。
「……なんですか。それは俺への嫌がらせですか」
「何故怒るんだ」
「しらばっくれやがって。あんたどういうつもりでここへ来たんですか、マヒロ先輩」
「マキ?」
「あんた、それだけ経験があって、よく俺のところに来ましたね。もう見当付いてるんでしょう、俺の、あんたにしてきた行動とその心理。それわかった上で、俺にその話してんの、あんた本当にたち悪いよ。嫌いだ、あんたのそういうところ。そこまで分かってる人間が来るとこじゃないんですよ、ここは」
「…………」
「俺は監督と何ら変わらない。俺はあんたを俺だけのものにしたい。あんたを殴り殺してでも、俺だけのものにしたい……!」
手が震える。心臓が痛い。息が上がる。
ずっと気づかないふりをしていたのに。気付いてはいけないと知っていたから。けれど、マヒロは、それに気付かせようとしている。タチが悪い。嫌いだ。嫌いだ。
「…………なあマキ、俺が監督に抱かれながら、最後に何を願ったと思う」
マキは獣のように低く唸った。喉が渇く。耐え難い飢餓感。腹から湧き上がる、嫉妬、情欲、独占欲。
「『これがマキだったら、よかったな』と、そう思ったんだ」
ガタンと大きな音を立て、部屋がマヒロを飲み込んだ。マキがマヒロを床に組み敷き、腕を押さえつけて唸った。
「あんた最低だ。最低だよ」
「……俺のワガママをきいてくれるだろう、マキ」
「クソ野郎。なんであんたは俺のモノにならねえんだ。なんで俺はあんたを手に入れることができないんだ。なんで、なんであんたは富裕層のお坊ちゃんなんだ」
「よかったな、マキ。俺の心はお前のものだ」
「俺はあんたの全部が欲しいんだよッ!」
腕に体重をかけられ、マヒロが痛そうに顔を歪めた。マキはぎりぎりとマヒロの手首を締め付ける。
「マキ、俺を抱いてくれ。あの男に狂わされる前に、お前に抱かれたい」
「うるさい」
「俺のワガママを聞いてくれ」
「うるせぇ……っ! なんなんだ、なんなんだよ、アンタはどうしてそう……っ!」
「……マキ」
「クソ野郎。嫌いだよ、本当に……!」
マキがマヒロの硬い肌を噛む。首から赤い血が流れた。そのまま、マキはマヒロのベルトに手をかける。布をおろして現れる、その滑らかな肌に噛み付いた。
「なあ、マキ。好きだと言ってくれないか」
「黙れ。あんたみたいなやつ、大嫌いだよ」
「俺は、俺はお前が一番大切で、お前に抱かれることに、後悔も恐怖もない」
「黙ってろクソ野郎」
マキはマヒロの衣服を取り払い、その硬い腹に噛み付いた。まるで狩りをするように、残酷に、強く、憐れに。
「泣くな、マキ」
「…………泣いてねえ、帰れよ、もう。アンタなら俺くらい、はねのけられるだろ」
「俺は帰らない。今は、俺が俺自身のモノでいられる最後の時間だ」
今はただの二人だけの口約束に過ぎないが、明日になれば、結婚は両家に伝わって正式なものになり、マヒロは監督のものになるだろう。今のこの不安定な時間だけが、マヒロの最後の自由な時間。
マキがマヒロを手に入れられる、最後のチャンスだった。
「俺をお前のものにしてくれ、マキ」
「黙れよ……! ……俺には、あんたを殺すしか、あんたを手に入れる方法がないんだよ……ッ!」
「お前が俺を好きだと言ってくれるのなら、俺は喜んで命をくれてやる」
「っ……!」
ふざけるな、俺が好きだと言えば死んでくれるのか? この男は、どこまで意地が悪いんだろう。マキは唇を噛み締めて、吐くように言葉を紡いだ。
「あんたなんか嫌いだよ! …………っ、大嫌いだ、クソ野郎……!」
「俺は、お前のそういう優しいところが……」
マキの手は止まらなかった。獣人が獣人である以上、ヒトではなく獣である以上、欲に抗うのは不可能だ。
身体を止めることはできない。感情だけが追いつかない。マキはマヒロの中に欲を打ち込み、強く揺さぶった。
マキは決して自分のモノにならない男を抱き続けた。欲を吐き出し、肌に牙を立て、何度も何度も犯した。
やがて日を跨ぎ、これが何度目かも分からなくなって、いつの間にか眠りについた。
目が覚めると、部屋には一人だった。誰かがいた形跡も、マヒロの確かな温もりも、そこにはなかった。
「……ホントに、アンタ勝手なヤツだよ……」
滲む視界で時計を見ると、もう既に朝だった。腕で目を強く擦る。
決して手に入らないものに手を出すことを恐れて、ずっと認めることができなかった。最初から薄々分かっていた。彼が嫌いだから、彼から裏切られたことが悔しかったから、暴力を振るったのではないと。
マヒロは監督のいいなりで、憧れの彼が消されていくのが耐えられなかった。変えようとした。しかし、どうあがいても、それは変えられないのだと、分かってしまった。
自分の憧れの形に、マヒロを変えようとした。あの気高い彼を、いいようにしようとしたのだ。自分がやってきた行動は、全て、自分の忌み嫌ってきた獣人たちと、何ら変わりない。
彼への気持ちを認めてしまえば、自分はクズだと認めてしまっていれば、マヒロは本当に自分の命をマキに与え、マヒロは永遠にマキのものになっていただろう。けれど、マキの良心はそれを決して許さなかった。
マキは立ち上がり、カーテンを開く。窓の鍵が開いていた。マキはしばらくじっと鍵を見ていたが、一つ息を吐いて鍵を締めた。
制服のシャツに袖を通す。上着を片手に、部屋を出た。いつもの笑みを浮かべると、スッと気持ちが落ち着いたような気がした。
「おはよう、母さん」
「お、おはよう。大丈夫? マキ」
「うん。心配かけてごめん」
母は、何事もなかったかのように、優しく微笑んだ。
「そう。マヒロくんは?」
「……夜帰ったよ」
「夜? お礼も言ってないのに……。夜道危なくなかったかな」
母は弁当の準備をしながら、そう言った。
「昨日はマヒロくんが来たとき、もう遅かったから、母さんたち先に寝ちゃったよ。朝までいないって教えてくれたら良かったのに……。何かおもてなしできた?」
「……大丈夫」
「おはよぉかぁさん……」
「トキ、おはよう」
寝ぼけ眼のトキが、マキの姿を見た途端、ぱっと明るい顔になって飛びついた。
「おはよう兄ちゃん! 学校行こ!」
「うん、行こうな、トキ」
あの人の温もりも、あの人のこれからも、俺には何も手に入らなかった。マキはぼんやり思考する。あるのは、いつもの日常だけ。あの人に出会う前の、自分に汚い感情が芽生える前の、穏やかな日常。
「ほら、早くご飯食べて! スピくん来ちゃうから!」
母が二人を急かした。
朝食を食べ終わった頃、インターホンがなった。トキがカバンを抱えて家を飛び出す。マキも静かに立ち上がると、カバンを持って家を出た。
「おはよう、スピカ」
「ま、マキ! 大丈夫? 元気?」
「元気元気! 早く行こうぜ」
いってきます、と家を出る。スピカは変な顔をしたが、特に何も聞かなかった。
途中でトキが二人を離れ、友達の元に駆け寄っていったとき、マキはポツリと零した。
「俺、失恋した」
スピカは少し驚いた顔をした。
「…………そっか。そうだったんだ」
スピカは静かにそれだけ言って、それからは黙り込んでしまった。マキは、悲しそうなのに泣いていなかった。いつものにやけ顔で、ぼんやりと道の先を見つめている。きっと、泣きたくないのだ。だったら、自分は不用意に彼を慰めてはいけない。スピカはそう思った。
しばらく歩いていたら、ふとマキが立ち止まり、大きく息を吸って大声を上げた。
「クソ野郎ーー! ばぁーか!」
マキの声は酷く震えていた。スピカは、一度目を見開いて、それから、ふっと目を細めて笑った。
「……っ、ふ、うるさいよマキ」
「……っは、駄目なんだよなぁ、ホントにさ……」
スピカが笑ってくれたおかげで、マキも無理やり笑えた。マキは涙を目に湛えていた。
「……俺な、あの人のこと、ほんとに、大事だったんだ」
「……うん」
「…………ほんとはさ、好きだったんだ。言えなかったけど。好きだって言ってしまえば、あの人は俺になんでも差し出してしまいそうだったから、言えなかった」
マキだけのモノにするために、四肢をもがれて殺されても、あの時のマヒロは笑ってくれただろう。ありがとう、と笑ってくれただろう。
スピカは普段からは想像もつかないようなマキの弱った姿をじっと見つめた。
「…………マキ、泣いてもいいと思うよ」
「泣く? 俺がぁ? 俺大声出せるくらい元気なんだけど」
マキは少し早口でそう笑う。いつものように。スピカは目を伏せた。
「……あのね、マキ。俺ね、マキがどんな思いでいたのかとか、どんなことをしていたのかとか、全然知らないんだけどね」
「………」
「きっと、マキの他人想いで優しいところが、皆好きなんだと思うんだ。きっとその人も、マキのそういうところが好きだったんだよ。マキが自分を想って、思いを最後まで打ち明けないでくれたことが、『好きだ』って言われるよりよっぽど嬉しかったんじゃないかな」
マキが俯いた。雨雲のようにポタポタと地面を濡らして歩いていた。
「マ、マキはちょっとお調子者だけどね、誰より素直でまっすぐなにんげんなんだよ。優しくて、裏表がなくて、人のことをよく考えてる。皆マキが大好きだよ」
「……っ」
「俺はそんなマキが俺の友達で誇らしいよ。だから元気出して、ね?」
スピカは普段は何も知らぬくせに、時折なんでも知っているかのような話し方をする。まるで、心が見えているかのようだ。
マキは、欲に溺れて悪に染まりながらも、悪になりきれない。この世界で生きるのに、マキはあまりに優しすぎた。
「俺、マキみたいな人を知ってるよ。優しくて、正義感の強い人。いっぱい苦しんでた。それなのに平気なフリばっかりしちゃうんだよね」
「それ、お前の“新しい友達”って人?」
「そう。マキは、もっと人を頼っていいんだよ。押し込めてたら潰れちゃう」
マキはしばらく黙り込んでしまったが、すぐに顔をあげて、いつものように笑ってみせた。
「俺、お前がいてくれてよかったよ」
マキは前を向いた。
セミが大声で鳴き、首筋を汗が伝う。あの人と出会ったあの日も、暑くてたまらない八月の終わりだった。
あの人は、この学校のどこを探しても、もういないだろう。あの木漏れ日のように穏やかな声は、もう二度と聞けないだろう。
いずれ皆の記憶から薄れていって、誰もあの人のことを覚えていなくなるのだろう。
けれど、自分だけはきっと、あの人を忘れることはない。あの気高く勇敢なあの人を、不器用で脆いあの人を、忘れることなど、できるはずがない。
マキは、大好きだったあの人が、いつか幸せになればいいと、心から願った。
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