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ネコとフクロウ 第三話

ネコとフクロウ編  第三話「そばに居て」  明朝、リオンは泣き疲れて眠っていたジンの頭を優しく撫でた。ジンは、ふっと目が覚める。何故だか、目を開くことはできなかった。 「……また会える。な、ジン」  彼の声は、やけに落ち着いていた。まだ日も昇りきらないうちに、彼は外へ出ていった。ジンは、リオンのぬくもりが残されたままのボロ布を抱きしめて、小さく縮こまる。  雲一つない空。絶好の飛行日和だ。  もうすぐ、このクソッタレの世界からリオンが消える。  残されたジンは、訓練でボロボロになりながら、僅かな水を求めて地面を舐めていた。やる気などはまるで起きず、抜け殻のようになって、ただぼーっと命令に従っていた。上官の声がぼんやり聞こえるくらいで、あとはもう、なんの音も聞こえない。まるで、暗い夜の中を落ちていくようだった。  リオンはもういない。太陽のような笑顔も、愚痴を吐く愛おしい口も、柔らかくしなやかな身体にも、もう二度と触れることはできない。  昼過ぎ、上官が、突然全員を集めた。  珍しいことだったので、皆、誰がどのような理由で怒られるのかとビクビクしていたが、上官から発された言葉は、ジンたちを驚愕させた。 「先程、ヒトが滅んだ」  驚き、酷く混乱して、ジンはしばらくの間何も言えなかった。それは周りの獣人(にんげん)も同じようで、皆ぽかんとした顔で突っ立っている。上官は続けて口を開いた。 「よって、この戦争は終わった。お前たちを今後どうするかは、こちらで会議して決める」  周りの獣人が、次々と嬉しそうな声を上げた。それはそうだ。戦争が終わったのだから。虐げられる生活から開放され、自由に生きることができるのだから。  けれど、ジンはすぐには喜べなかった。嫌な予感がした。手が、足が、小さく震えだす。たらりと冷や汗をかいた。 「………今朝飛んだ奴らは……?」  気づけばジンは口に出していた。 「今朝飛んだ……、リオ……、リオンは、どうなったんですか」  上官は少し顔をしかめた。 「……今朝? ……ああ、今日飛ぶ予定だった奴らなら、もう帰ってくるだろう」  その時、訓練所の入り口の方から、音が聞こえてきた。皆がそちらを向く。 「リオ……!!」  ジンは、慌てて飛び出した。疲弊した身体をなんとか動かし、走る。  リオンが帰ってくる。リオンが。俺のところへ。 「リオ!」  施設の入り口に辿り着くと、数名の見知った獣人が、移動用の乗り物から降りてきているところだった。ジンは彼らの方へ駆け寄っていく。 「リオ、リオ!」  獣人は、皆ほんの少し生気の感じられる瞳でジンを見つめた。ジンはきょろきょろと、見慣れた斑の髪を探した。 「……リオ?」  しかし、リオンは見当たらない。ジンの心が、ざわついた。 「ジン!」  名前を呼ばれて、ジンは振り返る。  やってきたのは、先程人類の滅亡を宣言したのとは別の上官だった。 「お前、誰を探している?」  上官が、ジンに言った。ニヤついていて、薄汚い、しゃがれ声。 「……リオ……。リオンはどこにいるのですか……?」  ジンの問いかけに、上官はニヤニヤと笑いながら答えた。 「……リオン……?」 「ネコの……リオンです……。きれいな斑の髪の」  彼はまるで、玩具で遊んでいるかのように、こちらの反応を楽しむかのように、ゆっくりと口を開いた。 「……ああ、そういえば、今朝早く、脱走者を一人殺したが……。お前の探しものはそれか?」  上官は、すっと自らの左側を指さした。ジンは、ゆっくりと顔をひねる。  視線の先には、リオンが転がっていた。  ジンは全身の血の気がすっと引いて、それから一気に血液が身体をかけ巡るのを感じた。  血が熱い。頭がぐらぐらする。息が詰まる。 「…………リオ……!?」  ジンはリオンに駆け寄った。恐る恐る、その身体に、指先で触れる。リオンの身体は、冷たかった。 「……り、お」  ジンはリオンの身体を抱きよせた。彼の身体がぴくりと跳ねて、「苦しいよ」と笑ってくれるのを信じて。ジンは、リオンの身体を強く強く抱きしめた。  しかし、彼の首は、力なく、だらりと垂れる。  すっと、ジンの周りの音が、すべて消え去っていった。 「ゔあ゙ぁ゙ぁぁぁぁぁぁぁ!!!」  ジンは、上官に飛びつくと、その太い首に噛み付いた。肉を引きちぎり、上官の太った身体を蹴り飛ばす。  リオンが殺された。人に殺された。死ぬ必要などなかった。脱走者を殺すのは見せしめのためのはずだった。だから、戦争が終わった今、リオンが殺される必要はなかった。殺す必要はなかった。それを、彼は殺した。ニヤニヤと笑って。 「お前、お前……………!!!!!」  身体が、まるで自分のものではないかのように荒ぶっていた。  どくどくと首から血を流す上官を殴りつけると、彼の頭が凹んだ。自分の腕の骨が折れても、ジンは気にならなかった。ただ、この男を殺さねばならないと、それだけ思った。 「やめろ! お前ら何してる、銃を構えろ!」 「うるさい!」  ジンは血だらけで立ち上がると、止めに来た別の上官に向かって叫んだ。 「リオを返せ」  ジンの頬は引き攣り、瞳孔は開かれていた。彼の足元には血の海が広がり、その上で、上官がびくびくと身体を跳ねさせてから静かになった。 「お前、落ち着……」 「リオを返せよ!」  ジンの声は、周りにいた全ての獣人の身体を震え上がらせた。その濃い色の瞳は煌々と輝き、鋭く対峙した相手を貫いた。  ジンは、そのとき初めて、自分の獣性の強さを知った。獣性の弱い草食の獣人は、ジンの迫力と目の前に広がる血の海に震え上がり、誰も近寄れない。肉食の獣人ですら、彼に圧倒されていた。  ジンに向けて弱々しく銃が一本構えられる。それを見て、周りの獣人も銃を構えだす。  ジンはゆらりとそちらを見やり、鋭く睨みつけた。心がざわつく。腹の奥を掻き毟りたくなるような心地がする。もう、どうなってもいい。今、ここで殺されてもいい。殺されてもいいから、こいつらをこの手で殺したい。  ジンは、自分に銃を向ける彼らを見回して、ゆらりと腰を据えた。  逃げろ。  ジンは一度瞬く。心の中が、しんと静かになった。 「リ、オ……」  逃げろ!  ジンは、弾かれるように、訓練所を囲っている森の方へ飛び出した。自分の意志で向かったというよりは、身体が勝手に引き寄せられていったようだった。追いかけてくる獣人を振り切り、弾丸が当たっても立ち上がり、無我夢中で、何かに手を引かれるようにして走った。  ジンの頭は、次から次へと押し寄せる、後悔と動揺でいっぱいだった。  どうしてリオは逃げたりしたんだ。もしかしたら、今頃再会していたかもしれないのに。どうして、戦争が終わってから、リオが死ななきゃならなかったんだ。どうして、それがリオと俺でなくてはいけなかったんだ。  転ぶように走るジンの胸は張り裂けそうだった。いや、むしろ、このまま胸を裂いて死んでしまいたかった。 「りお、りおぉ……ッ!」  ジンは何度も愛する人の名前を叫んだ。叫ぶたび、何故か、この足を止めてはならないと強く感じた。  昨日のうちに、一緒に逃げていれば。自分が泣いてばかりではなくて、戦えたなら。もっと早く、自分のこの力を知っていたなら。上官だってなんだって怖くなかった。 『俺と一緒に……』  昨夜のリオンの言葉を思い出す。彼は、果たして本当に一緒に寝たかっただけだったのか。  本当は、本当は、『一緒に逃げよう』と、言いたかったのではないか。 「りお……」  ジンが力なく呟いた。  何故、それに気付けなかった? いや、気付いていて彼が死ぬのを黙って見送ったのだ。諦めていたのではないか? リオンがそうしたから。リオンはもう、自分自身を諦めていたから。  リオンは、ジンには生きてほしいと願っていた。彼が「一緒に逃げよう」などと、そんな言葉を言うはずがなかった。言うはずが、なかったのだ。  ――それならば、「一緒に逃げよう」と言うべきは、彼ではなく、俺だったのではないか。  山を下りきると、街はすぐに現れた。血まみれのジンを街の人は大層奇妙がり声をかけたが、ジンは気にも止めず、ただぼうっと、死体のような身なりで川に向かい、そのまま川の中に沈んでいった。  目が覚めると、そこは全く知らない場所だった。見たことのない、暗い天井が見える。 「起きたか、お前」  知らない声に、ジンは驚き、起き上がって身構えた。 「痛……っ」 「おうおう。軍人さんか、やっぱり」  白髪混じりの男が、鍋を抱えてジンに近寄ってきた。ジンは痛む腕を抑える。腕には、丁寧な処置が施されていた。 「軍服だったからな。そうだろうと思ってたんだ。いい身のこなしだな」 「誰だ」 「俺は……ミオ。お前、どこから来たんだ」  ミオはジンのそばの椅子に座ると、鍋をテーブルに置いた。  内側から殴られているような鋭い痛みに耐えなから、ジンはベッドの上に座って彼を睨み上げた。 「……孤児が集められてた軍事施設だ。どこにあったのかは……、分からない」 「ほうほう。戦争終わったから、奴隷に戻る前に逃げてきたか。うん、賢い賢い」  ミオは鍋から何かを掬うと、小さな皿に注ぎ入れた。それから、スプーンにそれを掬って、ジンの口に放り込んだ。 「お前痩せてるな。米食え、米」 「……こめ」 「おん。米だぞ。うちの米だ。うまいだろ」 「米なんて、初めて食べた」  ジンは、思わず目を輝かせた。これが米。なんというか、想像していたより少し甘い。ミオから食べ物を奪い取ると、ジンは皿の中に顔を突っ込んだ。 「お前、よほど酷いところにいたんだな。この辺じゃ、もう十年以上も前から、それなりの生活ができてるっていうのに」  ミオは大層驚いた様子で目を大きく見開いて言った。与えられた食べ物があまりにも美味しかったものだから、ジンは少し警戒をといた。奴隷として生きてきて、人に与えられた食べ物が、腐りこそすれ、危険なものであったことなどなかった彼の頭の中に、その食べ物が毒入りかもしれない、などという賢い考えはまるでなかった。 「ここは」 「イーストシティって呼ばれてるところだが、知ってるか。East、City。東の街だ」 「イースト、シティ……」  ジンは知らなかった。むしろ、ジンが知っているのは、奴隷市場とあの施設だけ。生まれてから今まで、ずっと奴隷として生きてきたジンが知らないのは当たり前だった。 「知らないならいい。……お前、なんで川なんかで溺れてたんだ」  ジンは少し戸惑ったが、隠していても仕方がないので、これまでの経緯を話した。自分が人を殺してしまったことも含めて。 「うーん、そうかぁ。大変だったなぁ、それは」  ミオは何度もジンの背を叩きながら、そうこぼした。外の人間にとって、殺人ってそんなものなのか? とジンが思ってしまうくらいには、彼は平然としていた。 「行くアテはあるのか」 「ない」 「じゃ、少しの間うちに居たらいい。形だけでも俺の養子になれば、お前も首輪が貰えるしな。うん。これがいい」  ジンは驚いた表情で男を見つめた。首輪とは、正に人権。自分を売り買いしていた獣人たちしか持ちえない、自分には到底縁がないと思っていた、あの代物。 「本気か?」 「俺は嘘はつかん。お前もこれから生きるつもりなら、首輪くらいあったほうがいい」 「だって俺は、ひとごろしだ」 「人殺しだって、関係ない。俺は坊やが気に入った」 「……俺が、あんたを食い殺すかもしれないのに」 「えっ、坊や、俺を食い殺すつもりなのかい?」  ミオは大袈裟に驚いてみせた。ジンは首を振る。 「まさか、そんなつもりはない。……でも、可能性は否定できないだろ。だって、俺が、何かの勢いが余って、あんたの首を掻っ切るかもしれない」 「はっはっは。そんなことなら大丈夫だ、大丈夫。俺は鳥に狩られるような男じゃない」  ミオは笑った。 「俺はこれでも、ライオンの王族の端くれだ」 「王、族……?」 「そう。ま、今の俺が持ってんのは金だけだがな。地位と名声は失った。実質王族じゃなくて、ただの金持ちだ」  ジンは目をぱちぱち瞬かせた。リオンに聞いたことがある。王族とは、大きな家に住んでいて、たくさんのお金を持っていて、世界の頂点で、多くの奴隷を持っている獣人たちのことだ。ミオは、それだったのか? 「……しかし、そうなるとお前に何が必要か考えなきゃだな……。首輪と、職と、金と……家か?」 「い、家……?」  言われたことを理解するのに、ジンはたいそう時間がかかった。目の前の男は、実はとんでもない男なのではなかろうか。 「つまり、お前は、俺を無償で助けた上に、首輪も家もくれるってことか……?」 「そうだな」  ミオは頷く。 「な、なんで……?」 「いやな? さっきもちらっと言ったが、俺は王族の生まれだ。……が、ちと奴らに喧嘩売った訳だ。だから、実はもう長くは生きられない。コワーイ奴らが、俺の命を狙ってる。もうすぐ殺されると思ったら、最期に何か一つ、いいことがしたくなったんだ。何かないかと街をふらーっと歩いていたら、偶然、川の石に引っかかってる汚い男を見つけた。それだけだ」  ミオは軽くウインクをしてみせた。ジンは訳がわからず、頭がぐるぐるした。 「それで、トリの坊や、名前は?」 「……ジン」 「ジンか。なるほど、“仁の心”だな。いい名前だ。名字はあるのか?」  名字をきかれ、ジンは、幼い頃から好きだった、あの太陽がとろけたような、暖かい笑顔を思い出していた。 「ハチムラ」  リオン・ハチムラ。初めてであったとき、リオンが口にしていた名。いつまでも帰らぬ主人を待ち続けた名犬から取ったのだとリオンが言っていた。  今の自分に、これ以上ぴったりな名前はないと思った。 「ジン・ハチムラか。いい名前だ、本当にな」  声に出して呼ばれると、なんだか、腕がいっそうじくじくと痛んだ。 「……あの、助けてくれて、ありがとう」 「気にすんな。ちょっとの間よろしくな」  ミオはケラケラと笑いながら、ジンの手を優しく握った。彼の手は、大きくて暖かかった。  それからミオと数カ月を過ごして、ジンは少しずつ普通の獣人としての生活に慣れてきた。  朝起きて、炊事、洗濯、掃除をこなし、ミオとケモノ文字の勉強をする。本を読み、街を歩き、今までご主人様だった階級の人間達と同じ目線で会話をした。自分はやっとになれたのだと、嬉しさに心が熱くなる。  美味しい食べ物を、毎日腹いっぱいに食べられた。どれだけでも、自分の好きなようにできた。幸せを感じた。溢れんばかりの幸せを、毎日抱きしめて暖かな布団で眠った。  ――自分だけが。 「俺は王家のやり方が気に入らん。家柄や生まれた土地で境遇の決まる世界なんておかしい。……俺の大事な人は、王家のせいで命を落とした」  ある日、ミオはそう言った。ミオ自身のことを話してくれたのは、その日が初めてだった。 「……大事な人がいたの?」 「おい、坊や。俺だって、大事な人の一人や二人や三人くらいいる」  ミオは笑った。 「…………嘘だな。そいつだけが俺の世界だった」  ジンはうつむいた。ジンの太陽も、ミオの世界も、この理不尽で残酷な世界の薪となってしまった。 「……リオは、人間がいなくなったって、俺たちが腹いっぱい食べられる幸せな未来はないって、そんなこと言ってた」 「そうか。そいつは怜悧だな」 「……俺は嘘だと思った。嘘だって信じてた」 「残念、事実だったな」 「うん」  あの後、もしジンがあの施設に居たならば、やはりろくな人生ではなかっただろう。むしろ、罪を犯したジンは、生きていなかったかもしれない。  ミオはジンの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。ジンは大人に頭を撫でられたのは初めてで、困惑しつつも、頭がぐわぐわ揺らされる感覚を噛み締めた。 「…………この世界は残酷だ」  なんだか悲しい声だった。ジンはミオを見上げた。 「まだ未熟な世界だ。……簡単には変われない。きっとこの先数十年、この世界は変わらないだろう」  ミオはジンの頭を撫でる。ジンは、嬉しい気持ちが湧き上がってきて、恥ずかしさに思わず頭を振った。 「……お前じゃ世界は変えられない。だが、誰かの世界なら、変えられるかもしれない」 「誰かって誰? なんの話?」  話を聞いていなかったな、とミオがまたジンの頭をガシガシ撫で回した。ジンは、ケタケタと笑う。 「お前が世界を変えてやりたいって思ったやつに手を伸ばせばいい。お前みたいに可哀想な奴はいくらでもいる」  ミオの目が、いつになく真剣だった。 「……坊やは人を救える」  ミオはジンの背をぽんと叩いた。

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