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ネコとフクロウ 最終話

ネコとフクロウ編  最終話「待っていて」  眩しい太陽に照らされて光る、瑞々しい夏野菜。強い光を求めて葉を伸ばす、一面のひまわり。本日のイーストシティは蒸し暑く、ジンの首筋をだらだらと汗が垂れる。1アールほどの小さな畑で、ジンは赤く熟れたトマトをかじっていた。 「坊や、坊や」 「なんだ、ミオさん」 「面白いものを見せてやる」  ミオはニコニコと笑いながら、ひまわり畑からジンに手招きした。ミオに連れてこられた先は、整備されていない川だった。  ここへ連れて来られるのは一度目ではない。いつもかごに入った野菜が流水で冷やされている場所だから、盗み食いをしに、ジン一人でも来たことがある。目新しいものも見当たらず、ジンはキョロキョロとあたりを見回した。 「なに、ミオさ……、わっ!」 「わっはっはっ。マヌケだな坊や。いい眺めだ」  突然息ができなくなり、ジンは、ミオに川に突き落とされたのだと気づいた。泳ぐことが決して得意でないジンが手足をばたつかせるのを見て、ミオがゲラゲラ子供のように笑った。  ジンは川の水をがばがばと飲みながら、なんとか泳いで戻ってきた。 「ミオさん!」 「あっはっは。坊やは泳ぎが下手だなぁ」 「鳥が泳げるわけないだろ……」 「飛べもせんくせによく言うわ」  ミオはびしゃびしゃになったジンに、石の上から冷えたトマトを差し出した。良いご身分だ。自分も落ちればいいのに。トマトを噛りながら、ジンはミオの隣に腰掛けた。 「トマトうまいか」 「うまい」 「そりゃあよかった。キュウリも食うか」 「食う」  うんうんと嬉しそうに笑うミオを見てしまっては、水に突き落とされても許してしまう。一緒にいればいるほど、彼の子供のようにいたずら好きなところや、能天気で自由奔放なところばかりが浮き彫りになって、とても王族だとは思えなかった。 「それにしても暑そうだな、坊や」  ミオは汗だくのジンの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。ジンは変な顔でミオを見て、それから少し嬉しそうにキュウリにかじりついた。 「うまいだろう」 「うまい」 「明日浅漬けにしてやるからな」 「アサヅケ」 「浅漬けはな、うまいぞ」  ジンは新しく美味しいものを食べるたび、リオンの顔を思い出した。彼でさえ知らない食べ物、彼が食べたがっていたもの、彼の話に出てきた自分が食べたかったもの。  食事をするたび、ジンは新しい味に感動し、リオンを想った。  俺は生きている。リオ、俺は生きているんだ。  何度でもそう繰り返す。 「……リオに食べさせたかった」  ジンはキュウリの最後の一口を口に放り込んだ。川で冷やしてあるトマトに手を伸ばす。リオンは今、美味しいものを食べられているだろうか。彼のことだから、本でも読みながらこちらを見ているかもしれない。 「俺もリオと行けばよかった」  寂しくなって、ジンは呟いた。 「……誰が作ったかわからん向こうのトマトより、うちのトマトが美味しいと思うがな」 「ミオさんのトマトはうまいよ。でも、リオと一緒に食べたかった」 「大丈夫。俺が先に向こうに行っておいて、トマトでもキュウリでも、そのリオにもたくさん作っといてやるから心配するな」  ミオはジンの肩を抱いて、頭を撫でた。 「……どうせ皆向こうへ行くんだ。だったら、飽きるまでゆっくりこっちを楽しんでから会いに行けばいいじゃないか」  ミオは静かに言った。ジンは目に涙を浮かべて、嘲笑うかのように呟いた。 「……俺が行くのは地獄だよ」  ミオは一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、何も言わずジンを抱きしめて、頭を撫でた。 「生きてても死んでももうリオには会えない……。神様ってのは酷い奴だ。あんまりだ。人一人も救っちゃくれない」 「……」 「もう一度、あいつの笑った顔が見たい。一度でいい。一度でいいんだ……」  ジンの焼けた頬に一筋雫が伝った。 「坊や」  ミオが、ゆっくりと口を開く。 「何故お前が生かされて、その子が殺されたと思う」 「わからない。何故なんて、そんなのない」 「いいや。坊やが今こうやって生きているのには、ちゃんと理由がある」  低い声で喋るミオは、ジンに、まるで知らない大人を見ているように感じさせた。 「俺は、本当はもっと早く死ぬ予定だった。王族に殺される前に、自分で命を断つつもりだった」 「……」 「でも、俺はまだこうして生きている。なぜか。あの日坊やを見つけたからだ。…………坊やはきっと、誰かの命を守るためにいる」 「……くだらない。たまたまだろ」 「あはは、そうかもな」  ミオは笑った。 「だが忘れるな。世界を変えられずとも、誰かの世界を変えられるかもしれない。……実際に、お前は俺の世界を変えてくれた」  彼は、前も全く同じ言葉を言っていた。ジンにはうまくわからなかったが、それをきくと、心が安らぐのを感じた。 「きっと、神様って奴にとって、俺達の絶望は暇つぶしなんだろう。お前の言う通り、お前が生きていることに意味なんてないかもしれん」  ミオはぼんやりと遠くを見つめていた。 「……だがきっと、この人生に意味はあるさ」  ミオは難しい人だった。少年のように無垢なところを持ちながら、少年のように世界を愛してはいない。 「うまいか、トマトは」 「うまい」 「そうか。食べ物がうまい内は、生きてた方が得だぞ」  ミオはぽんとジンの肩を叩くと、さっと立ち上がった。川で冷やしていたスイカを持ち上げて、にこにこと満足そうな顔をしている。 「ジン、このスイカ絶対うまいぞ」  ミオは心底嬉しそうに、大きなスイカを抱き上げていた。彼の周囲で、ひまわりが風に吹かれる。リオンの、あの太陽のように明るい笑顔が蘇る。  先帰ってるぞと言って、ミオがジンの横を通り過ぎていく。 「俺、花屋になりたい」  ミオが通り過ぎる直前、ジンはそう言った。 「花屋? 食堂とかじゃなくて?」  ミオがジンを見て怪訝そうな顔をした。当然の反応だと思う。ジンはミオの見る限り、食べ物にしか興味がなかったのだから。 「花屋はリオの夢だったんだ」  納得した顔でミオはそうかと呟いた。スイカを道端に置いて、ミオはジンの横にしゃがみこむ。 「花があると、リオがそこにいるような気がする」 「……なら、花屋になるしかないな。坊やが死んだら困る」  ミオはそう言って、ジンの頭をガシガシ撫でると、にかっと笑った。 「坊やの好きにしたらいい。お前が生きてくれるだけで、俺は嬉しい」 「……リオも、同じようなことを言ってた」  ジンが言うと、ミオはケタケタ笑った。 「そうか、そうか。そしたら、きっとそいつもお前を愛していたんだな」 「そいつも……?」  聞き返すと、ミオはしまった、と少し照れ笑いを浮かべて言った。 「……そうだ。俺はお前を愛している。お前は俺の大切な息子だよ」  ミオは愛おしむようにジンの頭を撫でた。そしてジンを力いっぱい抱きしめた。 「ジン、生きろよ」  ミオの低い声に、ジンは小さく頷いた。それから苦笑に近い笑みを浮かべて、 「リオにもミオさんにも言われたら、生きていくしか俺の先に道はないな」  と言った。 「向こうで、お前のリオと待ってるぞ」  ゆっくり来いよ。そう言ったとき、ミオは泣いていた。泣きながら笑っていた。その涙は、夏の川の縁を跳ねるしぶきのように、儚く美しかった。  夏の終わり。新品のカギと少しの金、そして小さな手書きの地図を置いて、ミオは姿を消した。横には、琵琶の苗木が一本添えられていた。  「……あれ?」  起き上がると、泣いていた。この涙はなんだろう。何か、懐かしい夢を見ていた気がする。 「……ふぁ……」  大きく伸びをすると、肩に痛みが走った。最近は肩こりや腰痛が酷く、歳だな、なんて珍しく思う。  休みの日だというのに、随分早く目が覚めてしまった。 「…………おはよ、リオ」  写真もない仏壇に向かって、少し甘えた声で、ジンは笑みをこぼすように言った。まるで少年時代のジンを彷彿とさせる、柔らかく、脇腹を撫でるような声だ。 「俺、今日も生きてるよ。お前のせい」  俺を愛してくれた人たちのせい。  ジンは洗面台へと向かった。汚れた鏡と向かい合う。大人の顔をした子どもが、鏡の中から眠そうな瞳で見つめ返してきた。 「おはようございます」  顔を洗っていたら、店の方から声がした。  凛とした涼やかな声。スピカだ。今日は孤児院の仕事は休みだったのだろうか。  それにしても、彼は朝が早い。夜仕事を毎日こなしているはずなのだが、一体いつ眠っているのだろう。あのコアラとは思えない睡眠時間だ。 「おお、おはよう坊や。今日は休みかい?」 「うん。遊びに行くんだ」 「……ナマケモノの坊やは、まだ来るの遅いんじゃないか? コーヒー出そうか」 「今日はマキと遊びに行くんじゃなくて……」 「…………ああ、クロトさんね」  ジンはそう言って、なんだか楽しくなってくつくつ笑った。彼がこうやって人に心を動かされるようになったことが、素直に嬉しかったのだ。 「てことは、花かい?」 「休みの日なのにごめんねジンさん。500ルチくらいの値段で……」 「金はいいよ。ほら、好きなの取りな」 「えっ、でも」 「坊やから金を取るなんてできないよ。それに、今ここにあるのは残り物だから」  じゃあ、と言ってスピカは店の隅に置いてあった花を取った。美しいカスミソウだ。彼の選ぶ花は、いつもとびきり性格が良い。 「ジンさん、これメインで作ってくれる?」  そう言ってスピカが外から持ってきたのは、鮮やかなひまわりだった。金色に輝く花弁に、思わず目を奪われる。  ジンの脳裏に、彼の優しい笑顔が浮かんだ。 「ジンさん?」  スピカが不思議そうに首を傾げた。ジンは美しいひまわりを手に取り、それから、何かを懐かしみ、花に語りかけているかのようにふっと微笑んだ。  スピカは、その姿が酷く儚いものに見えて、しばらく彼に声をかけられなかった。 「…………坊や、これ、一本貰っていいかい。この一番小さいのがいい」 「うん。もちろん」 「ありがとう」  ジンは呟いて、ひまわりの束から一本を引き抜いて、奥の部屋に入っていった。パチ、とハサミが音を立てている。 「……時間取らせて悪かったな。すぐ作ってやるから」  しばらくして戻ってきたジンは、カスミソウとひまわりを手早く束にした。一見、元気があって、鮮やかな花束だ。けれどもスピカの、モノの本質を見る特別な目には、それはとても悲しく映った。 「……ジンさん、どうかしたの?」  スピカが問いかけると、ジンは苦笑した。   「…………やっぱり、坊やのその目には、この花束は悪く見えるかい」 「えっ」 「今から遊びに行くっていうのに、こんな花束じゃ、似つかわしくないだろう。そうだ、昨日作ったやつをやろう」 「ううん、悪くなんてないよ。少し寂しそうな花束だったから、びっくりしただけ」  スピカはそう言って、花束を両手で大切そうに抱えた。 「……寂しそう?」 「うん。でも、それだけじゃない。…………なんだろう、強い愛情を感じるよ。ジンさんは……とても大切なものを想いながらこれを作ったんだね」  いい花束だね、とスピカが笑った。それから、少し考える。ジンは、一体何を想っていたのだろう。ここまで強く、深く。  花束を見つめていたら、ジンが小さく笑みを溢した。 「……大切、か」  ジンの声は震えていた。目を抑えてしゃがみこんでしまったジンの姿は、幼い子どものように見えた。  何年経っても変わらぬ夏の匂い。生暖かい風。騒がしい蝉の声。  何年経っても色褪せない、太陽がとろけたような、あの優しい笑顔。  百年戦争の話をきくたびに、忌々しい夏が訪れるたびに、ジンは思い出す。この地獄のような人生で、愛し、愛してくれた獣人(にんげん)を。

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