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コアラとモグラ 第二章 第一話
コアラとモグラ編
第二章 第一話「休日」
イーストシティ孤児院の一日は、暇がない。新聞売りの未就学児たちが早朝から街へ出かけていき、学生組は朝食も食べずに洗濯物や孤児院の掃除を行う。持ち場が終われば学校へ行き、帰ってからは当番制で回ってくる家事をこなす。そして夜は、新聞売りの子どもたちに代わって、学生組が仕事に出る。深夜遅くに仕事が終わって、皆眠りにつく。
街役場が取り決めた、週に一度だけある、孤児院の休日。この日は、家事も仕事もやる必要がない。そのため、孤児院の子どもたちは週に一度、この日だけは休むことができる。
スピカは、その休日のほとんどすべてを、クロトに会うことに使っていた。
「おはようございます、クロトさん、ジンさん」
ジンの経営する花屋「Rion」の店先で、クロトが、ジンと立ち話をしていた。そこへ、スピカが少し慌てた様子で駆け寄っていく。
「おお、コアラの坊や。おはよう」
「おはようございます、スピカくん」
「遅くなってすみません」
「いいえ。でも、貴方が遅れるなんて珍しかったので、少し心配していました。何事もなくて良かったです」
クロトは、灰色の髪をキラキラひからせて、ゆっくり微笑んだ。
「……じゃ、クロトさん、また。今度は花買いに来てくれ」
「ありがとうございます。是非」
普段の休日は、クロトの家にスピカが遊びに行くことが多い。というか、今まではずっとそうだった。
しかし、先日、クロトが「植物園に行きたい」と言った。植物好きなスピカはすぐに快諾し、孤児院に帰り着いてから今日この日まで、大好きな花とクロトのことで頭がいっぱいだった。
「暑い中待たせてしまってすみません。まさかこんなに暑くなるなんて思わなくて」
「いいえ。お気になさらず。ジンさんとお話をするのは楽しいですから。……でも、ふふ、確かに暑かったです。地上はこんなに暑いのですね」
本日のイーストシティの気温は35度。地上暮らしのスピカでさえも暑いと感じるこの気温では、気温差が少なく比較的涼しい地下暮らしのクロトには耐えられなかったらしい。彼は薄い生地の長袖のシャツを着て、首元は大きく開けていた。
「クロトさんがそんな服の着方をしてるの、なんだか新鮮ですね」
「本当は、汚い肌を晒すのは嫌なのですが、なにせ暑いので。見苦しくて申し訳ないです」
「クロトさんは綺麗です」
スピカは曇りなき声でハッキリとそう言いきった。クロトの後ろで、ジンがふっと吹き出す。
「……ありがとうございます」
クロトは照れ笑いを浮かべた。この若者の真っ直ぐな好意には参ってしまう。誘導のためにスピカが腕を差し出すと、クロトはその腕をそっと握った。
「じゃあまたね、ジンさん」
「はいはい。楽しんでこいよ」
「失礼します」
スピカとクロトはゆっくりと歩き出した。スピカがクロトを誘導し、雑談を交わしながら歩く。欠けたレンガ、コンクリートを突き破って生える草花、道の落書き。スピカは何でも、見えたものをひとつひとつ言葉にする。まるで、自分にもモノが見えているかのように、クロトは感じた。
植物園まであと少しと言うところで、二人はイーストシティの大通りに差し掛かった。人通りが多く、スピカはクロトを少し自分側へ引き寄せた。
「そういえば、俺、昔この辺りで新聞売ってたんです」
「ええ。知っていますよ。貴方と出会ったのはあの大通りでしたから」
クロトは懐かしそうに目を細め、少し笑った。
「今日は新聞売りの子供の声がしませんね」
「今日は孤児院の休日なんです。今日は一日、誰も仕事がないんですよ」
「ああ、だから貴方は今日……。しかし、それは素敵ですね。子どもは楽しく遊ばなくては。けれど、そんな大切な日に、私と植物園なんて、本当にいいんですか?」
「今すごく楽しいですよ、俺。だって、花もクロトさんも大好きですから」
スピカは、クロトが思っていたより更に、嘘偽りのない、自分の気持ちに真っ直ぐな青年だった。マイペースで変わり者だが、人を素直に褒め、好意は素直に口に出す。
嘘偽りで自分の外側を固めたクロトには、そんなスピカが羨ましくもあった。
「クロトさん、大丈夫ですか?」
「え?」
「腕が痛いんですか?」
いつの間にか、スピカから手を離し、自分の腕を強く掴んでいた。慌てて、大丈夫ですとクロトは手を振る。
「着きましたよ、植物園」
この植物園は、花の種類も数も豊富で、スピカのお気に入りの場所だ。併設されているカフェのほうが人気で、来園数はそれなりらしい。
建物に入ると、人は一人もいなかった。受付の獣人 が物珍しそうにこちらを見た。
「大人二人、いいですか」
「はい。首輪をお見せください」
二人が料金表に書いてある通りのお金を差し出すと、受付の男性はすぐにそう言った。首輪は身分を証明するのに必須の物なので、そう聞かれることは大して珍しくない。
「……首輪は持っていません。住所はイーストシティ ハルカゼタウン五丁目 イーストシティ孤児院です」
スピカは慣れた口調でそう言った。住所を答えたのは、首輪を持たないものは、毎回どこでも必ず住所を確認されるようになっているためだ。男性はそれをパソコンに打ち込むと、気だるげにエンターキーを押した。
「はい。それでは追加料金の500ルチをお支払ください。そちらのお客様は」
「えっ、と……」
クロトが言い淀んだ。自分はアンダーシティの出身だなどと、地上で言えるわけがなかった。スピカもそれに気が付き、クロトの顔を凝視した。
受付の人間は顔をしかめ、ため息をついた。
「はぁ……。お客様、私も暇ではないのですが」
「イーストシティ ハルカゼタウン一丁目十五番地です」
スピカがそう言って、受付に1000ルチを突き出した。
「分かりました。それではごゆっくりどうぞ」
相手はにこりともせずそう言った。
「ありがとうございました。助かりました」
「いえ。大したことでは。テキトウ言っても意外とごまかせるものですね」
スピカが、珍しく、いたずらっ子のような声音でクスッと笑った。クロトはスピカに500ルチを返しつつ、植物園内に向かった。
「でも、架空の住所だと法律か何かに違反してしまうのではありませんか?」
「大丈夫です。さっきの、『Rion』の住所ですから」
「なるほど。ジンさんなら、何かあってその住所に訪ねて来られても、どうにか誤魔化してくれそうですね。……しかし、お詫びをしなくては」
「それは俺がやります。勝手に使ったの俺ですし……」
スピカが案内図をちらりと見る。この植物園は、建物は先程の案内所だけで、花が咲いているのはほとんど屋外であった。
短い廊下を渡ると、扉の上に「ようこそ」という看板が吊るされていた。二人は、その下をくぐって外へ出た。
「うわぁ……」
溢れんばかりの生命力が目に飛び込んできて、思わず声が漏れる。スピカは、ゆっくりとあたりを見回した。
レンガの道と茶色い花壇。一面に植えられている色とりどりの花々。明るい日差し。美しい蝶の姿が見え、蝉の忙しない鳴き声がする。
「ウエストシティみたいだ………」
ぼうっとその景色に見惚れていたスピカが、突然、今までの倍以上に目を輝かせて足を踏み出した。
「クロトさん、ダリアですよ! すごい、こんなに綺麗な形のダリア初めて見た……。昨日までは涼しかったから、それかな……」
スピカはクロトの手を引っ張った。クロトが、少しかがんでスピカの横に並ぶ。
「これがダリアですか?」
「はい。初夏から秋にかけて咲く花で、花びらの枚数がすごく多いんです。だから、一本でも豪華に見えて……。花言葉も『華麗』とか『優美』とか、そういう……」
スピカがはっとして口を止めた。
「す、すみません。ついテンションがあがってしまって……」
「ふふ、いえ。お話、続けてください。私にも花が見えるように」
スピカはゆっくりと花に顔を向け、
「……ダリア、俺好きなんです。綺麗だけど、花びらも茎も力強くて、かっこいいですよね」
「華麗な花なのですね。見えなくても分かります」
「学校でも育てているので、今度ジンさんに花束にしてもらいますね」
「いいのですか? 大事に育てているお花なのに……」
「ダリアは球根なので、冬の対策を怠らなければまた咲きます」
スピカはそう言った。クロトがスピカに微笑みかける。
「いつも綺麗な花をありがとうございます。本当に、すごく嬉しいです」
「そんな。俺が好きで持っていってるだけですから。俺はどうしても、貴方に会いたいんです」
クロトさんが好きなんです。
言われて、思わずクロトは、少し照れたように笑った。彼が自分を恋愛的な特別として見ているわけではないと分かっていても、こうも真っ直ぐに伝えられると恥ずかしくなってしまう。
「貴方には本当に参りましたね…………」
クロトはスピカの手を取って、何かを祈るように額に当てた。
「私は貴方が私に会いに来てくれることが、なにより嬉しい。貴方に会えたこと。私も、心から嬉しく思います」
この青年との時間がいつまでも続くように、今ここにある幸せが逃げてしまわぬように、そう願っているようだった。
「俺も。俺もうれしいです」
スピカは、はにかむように、口の端をへにゃっと持ち上げて、下手くそに笑った。
「クロトさんの笑った顔を見るのが、俺は何より好きです」
風が吹き、木々や草花が揺れる。蝉の声が一秒も途切れず聞こえる。蝉がうるさくてよかった。クロトはそう思った。
「ふふ、ありがとうございます。さあ、歩きましょうか」
「はい」
白い肌を汗が伝う。クロトには、自分が今、みっともない顔をしているのが分かった。なにせ、顔が熱くてたまらない。感情に疎いスピカは気付かないかもしれない。いや、気付いてほしくない。
この優しい若者の未来を奪うような真似をするくらいなら、この鈍感さにつけ込んで、いつまでも、友人のフリをしていたい。
「お水どうぞ」
「ありがとうございます。すみません、体力が無くて」
スピカから水を受け取ったクロトは、ほんの少し水を飲んだ。
「もう少し涼しい場所にすればよかったですね。ごめんなさい、気が回らなくて」
「気になさらないでください。私が行きたいと無理を言ったのですから」
クロトは、一時間ほど歩いたところで、もう歩けないと言い出した。スピカが彼の顔を見ると、顔色が悪く、息が上がっていた。スピカは、大慌てでベンチに座って休憩を取るよう促し、水を購入して戻ってきたのである。
クロトはまた少し水を口に含むと、苦しそうに飲み下した。
熱中症のように見えたが、そうではないらしい。
「気分良くないですよね。今日は帰りましょう。送りますから」
スピカはそう言ったが、クロトは首を振った。
「いえ。せっかく来たのですから、スピカくんだけでも思う存分見て行ってください。私は一人でも帰れます」
クロトは少し微笑んだが、スピカには、どうにも元気があるようには見えなかった。
「何を言われても、俺は送ります。歩けますか」
「貴方はいつもそういうところだけは強引ですね。分かりました。少し待ってくださいね」
クロトはもう一口水を飲んだが、どうにも体調が優れない。胃に水を入れたせいか、吐き気が酷くなり、彼は口を抑えてうずくまった。
「……っ、ぅ」
「大丈夫ですか」
「………っ、は、っ」
スピカは辺りを見回したが、近くにトイレらしいものは見当たらない。慌ててバッグからビニール袋を取り出すと、クロトに差し出した。
「気持ち悪いんですよね」
「……っ、ぅ」
「ゆっくり息してください。吐けそうなら吐いてしまってくださいね」
クロトの背をさすると、小さく震えているのが分かった。細い体。背骨の浮く背中を撫で続けていたら、クロトが小さく、キューと鳴いた。
「……クロトさん?」
「……っ、は……っぅ、ごめん、なさい……」
「大丈夫ですよ。俺がいますから」
クロトは微かに、しかし確かにキュウキュウと鳴いている。獣人が動物のように鳴いたり唸ったりするのは、何か抑えきれない感情があるときである。苦しみ、怒り、悲しみ、恐怖。そういった感情が溢れ出るとき、彼らは動物のような鳴き声を発することがある。
「苦しいですよね。大丈夫ですよ。大丈夫。大丈夫」
「……は、……っ、ぅ……」
「一緒に帰りましょうね。大丈夫ですから」
スピカはクロトの背を撫でながら、何度も声をかけた。クロトはその後も何度も嘔吐いたが、その口からはただ胃液と水が出てくるだけであった。
「クロトさん、俺の背中乗れますか」
スピカは、半分無理やりクロトの身体を背負う。クロトが、荒く息をしながら首を振った。
「……駄目です、汚れますよ……」
「構いません。大丈夫ですよ」
クロトの身体は軽かった。自分とほんの10センチほどしか変わらないはずなのに、まるで身体に何も入っていないかのように、本当に軽かった。
クロトは、スピカの背でいつの間にか眠ってしまった。スピカは立ち止まり、一度クロトを背負い直す。その身体から垂れてくるように見える、黒い感情を振り払った。
「……久しぶりに見たな」
クロトに触れたからなのか、スピカはクロトの中身を見てしまった。それはまるで腐敗したヘドロのようで、スピカの心がずんと重くなる。幼い頃の自分がよく見ていた、人の命の膿だった。
スピカは首を振って、またゆっくりと歩き出した。
クロトを背負ったまま、ふらふらと、大通りに一番近いジンの家に寄ると、ジンが驚いた顔で奥から出てきた。事情を説明すると、ジンはすぐに店の奥に通してくれた。いつもは絶対に通してくれない場所だというのに。
店の奥は、1Kの部屋になっていた。一人で暮らすには狭くはないが、とにかく物が少なく、まず目についたのは、小ぢんまりとした仏壇だった。手入れされていて美しい花が供えてあるが、写真などは見当たらない。
「おい、早く寝かせてやれ」
ジンはどこかスピカの気を引くような声色で言った。
スピカは、ジンの敷いた布団の上にクロトを横にした。目覚める様子はなく、顔色も悪いままだ。
「クロトさん……」
「……全く。お前ははしゃぎ過ぎなんだ」
「ごめんなさい……」
「お前たち高校生と俺らはもう何もかもが違うんだから無理をさせるな。………ほら、あとは見ててやるから、孤児院に帰りなさい。もうすぐ門限だろう」
スピカはふらふらと立ち上がった。クロトのことが気になって仕方なかった。
「坊や、大丈夫だ」
ジンははっきりとした声で言った。スピカを安心させようとしているのだ。スピカはしばらくクロトを見つめていたが、ゆっくりとジンに頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
「おう」
ジンはスピカにひらひらと手を振った。スピカは、やっと大人しく店を出て行った。
ジンは、クロトの身体に手を触れた。熱中症にも見えるが、それだけではないような気もする。とりあえず、と、氷を袋に詰めてからタオルで巻き、それをクロトの首筋に当てた。太い血管の通る場所にいくつか同じ処置をして、ジンは息をついた。
「…………よし、まぁ大丈夫だろ。飯でも食うかね……」
そう言ったジンは、先に仏壇に手を合わせてから、昨日の夕食の残りを冷蔵庫から取り出してレンジで加熱し始めた。クロトは、それから何度か苦しそうに呻いていたが、明け方には落ち着いたようで、すやすやと寝息を立てていた。
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