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コアラとモグラ 第二章 第二話

コアラとモグラ編  第二章 第二話「変化の予感」  「クロトさん、いつもこうなのかい」  ジンは朝食の米を口の中いっぱいにかきこみながら言った。クロトが、箸を止めて首を傾げる。 「こう、と言いますと……」 「倒れたり吐いたり。昨日のは熱中症だろうが……、だとして身体が弱すぎる。何か病気してるのかい」 「いえ。病気では……」  クロトは言いにくそうに言葉を詰まらせた。 「……私は地下の出身ですから」  ジンがあー、と曖昧な声を発して、居心地悪そうに目をそらす。 「やっぱりそういうことか。……いや、すまないね、野暮なことをきいてしまった。その……大丈夫なのかい、身体は」 「医者にかかったことがないので、なんとも言えませんが……。ただでさえ不健康な生活をしていますし、相当弱っているでしょうね」  クロトが苦笑をこぼす。ジンは何か言おうと口を開いたが、何も言えず、ただ、そうかいと返した。 「おはようございます」  ふと、店の方から声がして、ジンがおもむろに立ち上がった。確認せずとも分かる。スピカの声だ。 「おはよう、坊や」 「おはよう、ジンさん。昨日は、ありがとうございました。えと、クロトさんは……」 「クロトさん、スピカが会いたがってるよ」  ジンの後ろから、クロトがちらりと顔を出した。 「わざわざ来てくださったんですか?」 「クロトさん……! おはようございます……!」 「はい。おはようございます」  スピカが、見るからに嬉しそうに目を輝かせた。安堵の表情を浮かべたスピカは、すぐにクロトの近くに駆け寄った。 「大丈夫ですか? どこか痛むとか、気分が悪いとかありませんか」 「大丈夫ですよ。ご迷惑をおかけしました」 「よかった……。俺、心配で心配で…………。無理させてすみませんでした」  ジンが、苦笑にも似た小さな笑みを溢す。スピカがここまで人に執着し、人に心を揺さぶられるようになったことが、ジンには嬉しかった。 「すぴかぁ……? なんでおいていくんだよ………」  ふと、マキが店にふらふらと入ってきた。右手で目を擦りながら、左手でバッグを引き摺っている。 「ナマケモノの坊やはまだ寝ぼけてるのか」 「…………んー、スピカのばか……」 「だって、マキに合わせてたら、ここに寄れなくなっちゃう」 「俺だって頑張ってあるいてんだよ……ぉ………」  マキは立ったままうとうとと微睡んでいる。そのまま床に倒れ込みそうになり、慌ててスピカがマキの手を引いた。 「お邪魔しました。クロトさんが元気そうで良かったです。ジンさん、ありがとう。……いくよ、マキ」 「………おー……」 「はいはい。またな坊やたち」  二人は、横に並んでのそのそと歩き去っていった。マキはいつも引きずられているのかと思うと、クロトは少し面白くなって、思わず笑みがこぼれた。 「うん、笑うと確かにかわいいね」  ジンがそう言い、店の奥の部屋へと戻った。クロトはゆっくりと壁を伝って元の席へと足を進める。 「スピカが、よく、クロトさんの笑った顔は、スミレのように可憐なんだと言っているよ」 「……それは、知りませんでした」 「スピカは必要なことしか口に出さないからな。スピカが思ったことを全部口に出す奴だったら、クロトさんはきっと恥ずかしくて倒れてしまう」 「もう既に、彼にはお腹いっぱい頂いています」  クロトは小さく笑った。彼に貰った言葉を愛おしむような、そんな声音だった。ジンは畳の上に座ったまま、仏壇を見やった。  マキやスピカたちを見ていると、彼在りし日の自分を思い出す。きっと、こんなふうに、あんなふうに、自分も笑っていた。 「ま、長く生きてくれ。スピカのためにもな」  ジンはそれだけ言うと、テレビを点け、さほど興味もない番組をぼうっと眺めていた。    「どこに行ってたんだァ、クロト?」  一瞬でだと分かった。鍵の付いた人の家に、音も立てずに入れる知り合いなど、クロトには一人しかいない。 「昨日はこの家に帰ってこなかったなァ? せっかくこの市長様がいい家をくれてやったってのに……」  クロトは、彼の声が聞こえていないかのように、何食わぬ顔で服を脱ぎ、寝間着に袖を通していた。アンダーシティの市長――オズは、返事の一つも返さないクロトに対し、少し不機嫌そうにそばまで寄ってきた。 「なあ……、お前、あのコアラはお前の新しい男か? どんな具合だ? 教えろよ、なァ」  ぴくりとクロトの眉が跳ねる。 「馬鹿言わないでください。子ども相手にそんな気が起きるものですか」 「そりゃ悪かったな。お前はゲテモノ食いだから……てっきり」  オズはくつくつ笑って、クロトの腕をするりと撫ぜた。 「……それなら、まだお前は俺の玩具だな」 「ふふ、誰が」  クロトはベッドに入り、薄い掛け布団を被って、彼から逃げるように背を向けた。  オズに命令されれば逆らえない。こんな抵抗、彼の加虐心を煽るくらいで、きっと意味はない。しかし、それでも、抵抗をやめたくない。 「お前は本当にかわいいなぁ、クロト」 「……帰ってください。私、今日は気分が良かったんです。貴方の声など聞きたくもない」 「ふっふっふ、かわいいなぁ……。お前は本当に気が強くて良い」  オズはクロトの腹を撫で、その白い肌に爪を立てた。 「……っ!」 「でもなぁクロト。偽って繕って良い人のフリをするなんて良くないなァ。お前のこの内臓は腐りきってるってのになぁ」 「……ぅ゙、い……ッ」 「お前は死ぬまで、変わらず価値のないガラクタだよ」  彼との会話でも聞いていたのだろうか? だとすれば本当に気味が悪い。クロトはまるで睨むように彼と対峙した。 「私の価値は、貴方が決めるものではありません……!」 「クロト。繕わなくていい。俺は汚いお前が大好きだよ」  オズは指先を、クロトの下腹部に滑らせた。その瞬間、クロトの身体はふっと熱を持つ。オズはクロトをベッドから引きずり降ろすと、腕を縛り上げ、床に叩きつけた。 「何故貴方はそこまで私に執着するのです」  クロトは尋ねる。身体は少しも動かない。ここまで自由自在に魔法を操れる獣人はほとんどいないというのに、何故よりによってこの男がこの力を持ち得てしまったのか。クロトは嘲笑をこぼした。 「お前の容姿が気に入っているんだ」 「入れ物だけを見ているようでは、貴方のそんな揺さぶりなど、到底彼に及ばない」  オズはゆっくりとクロトの胸ぐらをつかみ、そのままその軽い身体を持ち上げる。腹に拳をぶつけられ、クロトはよろよろと壁にもたれかかった。  オズはニヤニヤと笑いながら、クロトの頬を撫で、身体のラインを指でなぞる。オズの身体がクロトの細い身体を覆ったとき、クロトが、あろうことか思いっきりオズを蹴り飛ばした。突然のことに、彼はふらついて、シンクの縁に寄りかかった。 「私は決めたのです。あの子の好意に恥じぬ男になると」  スピカは、いつも自分をこの世界に留めてくれる。地獄に堕ちるのは、もっと後でもいいと思えてしまう。 「ハッ……。おいおい…………、いい度胸だなぁ、クロト……?」  彼は、クロトを簡単にねじ伏せると、激昂の表情で見下した。しかしクロトはクスクスと笑うばかりで、いつものように反論の言葉を吐かなかった。 「可哀想な人ですね」  クロトは呟いた。オズが、オレンジ色の瞳を見開いて固まった。 「誰からも見てもらえないからって、癇癪起こして。子どもですか」 「黙れクロト」 「黙りませんよ。どんなに抱いても叩いても、誰も自分を見てくれなかった。悪事を働いて気を引こうとした。貴方の言葉に従わず、貴方に歯向かう人間を探した。……貴方が私を気に入る理由は、ただ、それだけでしょう?」 「うるさい!」  可哀想な人。クロトはもう一度言った。 「もう誰も貴方を見てはくれないでしょうね、市長様」  オズはクロトの腹を強く一発殴ると、ゆらりと立ち上がった。 「もういい。興がさめた」  オズは、まるで煙のようにするりと空気に溶けてどこかへ消えた。手足から拘束具が消え、クロトはほっと床に寝転んだ。  どっと疲れた。  クロトはベッドに戻ると、小さく丸まって眠ろうとした。けれども、先程の出来事に目が冴えて、なんだか酷く寒かった。 「…………スピカくん」  呟けば、彼ならすぐに側に来てくれるような気がして、クロトは彼の名前を呟いた。  その声は、あまりにも。 「……ク、ふふ……。……なんて愚かしい」  自分が彼をどう思っているか。それはあまりに明白で、クロトは考えるのをやめた。自分の単純さが、酷く醜く感じられた。  季節は秋になった。紅葉や銀杏が美しく、普段であれば、スピカが楽しみにしている、植物が主役の季節である。しかし、学生でいられるのが今年で最後になったスピカは、現在、とてもわくわくなどしていられなかった。 「うぅぅぅ……」 「なーに唸ってんの、スピカ」 「マキぃ…………」  スピカは、不採用通知を前に、珍しくしょげた顔をしていた。 「あれ、また落ちたのか」 「……俺は一体何社受ければいいんだろう……」 「お前緊張しいだもんな」 「だって、だって…………」  項垂れてしまったスピカを見て、マキが頭をかく。このまま大学部へ進級予定のマキが何を言っても、スピカにはうまく届かないだろう。 「あれ、お前またイーストシティの会社受けたのか?」 「うん」 「なんでだよ。サウスシティのほうがコアラは働きやすいだろ? あそこ差別も緩いし、いいじゃんサウスシティ。何が嫌なんだ?」 「だって、クロトさんに会えなくなっちゃう」  それを聞いたマキが、驚いて目をぱちぱちと瞬かせた。 「あれ、クロトさんって、お前の友だちだろ?」 「うん、そうだよ」 「……俺と同じ、お前の友だち?」 「うん。マキと一緒」  真面目な顔で言い放つスピカを見て、マキは苦笑をこぼした。 「……お前、ほんとに鈍感だな」 「何が?」 「…………いや、なんでも」  スピカはキョトンとして首を傾げた。  保守的な性格のスピカが、自ら不利に飛び込むほど好いているクロトが、自分と同じ"友人"なわけがあるものか。彼はあまりに疎い。いっそわざとやってるとしか思えず、マキは苦笑した。 「あっ、それなら、一緒にサウスシティに住んだらどうだ」  マキが、頭に今浮かんだ案を、そのまま口に出す。すぐに、自分が少しズレたことを言ったと気がついた。 「……あ、いや」  笑われると思ったマキは、弁解しようと再び口を開く。しかし、スピカは笑うでも真面目に考えろと怒るでもなく、驚いたような顔でこちらを見ていた。 「クロトさんと?」 「……いや、まあ、そう。離れたくないんだろ? 一緒に住めば、その心配しなくていいし、すげー名案だと思ったんだ……けど……」  スピカは、それは確かに名案だと思った。クロトはアンダーシティから出るべきだと、前々から思っていたのだ。彼はきっと、あそこにいるべきではない。 「サウスシティって街並みも綺麗だし、海も山もあるし、住みやすい街だよなぁ。きっと住んだら楽しいぜ。俺も将来はサウスシティで就職するつもりなんだ」  マキはにかっと笑う。 「俺もサウスシティは好きだけど……、クロトさんが来てくれるか……」 「その前にお前が内定貰わなきゃな」 「わ、分かってるよ……」  クロトと一緒に、サウスシティに住む。そう考えるだけで、なんだかスピカはワクワクした。  本当にそうなれば、それ以上に素晴らしいことなどない。 「企業探し直さなきゃだろ? 大変だなー」 「クロトさんを、あそこから遠ざけられるんだ。なんだってできる。…………コレが正解じゃないかもしれないけどね」 「……できることはできるうちにやっといたほうがいいって。正解かもしれないんだから」  マキは目を細めて笑う。その顔が、なんだか大人びて見えた。 「今度話してみる。ありがとうマキ!」 「おー」  スピカはバタバタと教室を出ていった。おそらく、パソコン室に向かったのだろう。マキはスピカに手を振りながら、大きなあくびをした。 「……まぁ、一緒に住もうなんて、ほとんどプロポーズだけどなぁ…………」  マキは、眠くてだんだん瞼が落ちてきた。  大学部に入るには、新年明けてすぐにある学力試験を突破しなくてはならない。しかし、本来勉強嫌いのマキはいつも眠気に負けてしまい、ちっとも受験勉強が進まない。ふあ、と大きくあくびをし、そのまま机に突っ伏して眠ってしまった。

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