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コアラとモグラ 第二章 第三話

コアラとモグラ編  第二章 第三話「いつかあなたを」  「スピカー! この荷物どこー?」 「えっと、それはそっちの部屋に」 「はいはい、奥の方な」  潮風が頬を撫でる正午ごろ。木造の建築物の温かい匂いに包まれる。 「坊や、こっちを手伝ってくれ」 「うん」 「よし。そっち持ち上げて」  空っぽの家の中に、慌ただしく荷物が運び込まれていく。まるで、白いキャンバスに色がついていくように。 「皆さん、ありがとうございます。お腹が空きませんか。お昼にしましょう」  クロトの柔らかい声と共に、簡易的なコンビニ料理が、空になったダンボールの上に並べられる。遠くで、マキのくせ毛がはねた。 「やった! 俺すごいお腹空いてたんすよ!」 「お手伝いありがとうございます、マキくん。本当は作ったものをお出ししたかったのですが……」 「俺もクロトさんのご飯食べてみたかったけど、ガスも来てないんじゃ仕方ないっすよ。コンビニのご飯も美味いし」  人見知りをしないマキは、数ヶ月前に行われた、スピカの内定祝いのパーティで一度会っただけだというのに、もうクロトに懐いてしまった。本当に人付き合いのうまい獣人(にんげん)だと、勝手にスピカは感心した。 「クロトさん、ダンボールでいいのかい? 机出そうか」 「いいえ、大丈夫です。……気になられますか?」 「俺が? ハハ、まさか」  ダンボール前にいち早く着席しつつ、ジンはくつくつ笑った。 「だが少し意外だな。クロトさんはそういうのきちんとするタイプかと思ってた」 「……すみません、お行儀が悪かったでしょうか……」 「いや、なんだか安心したよ。俺は礼儀も行儀もまったくだからね」  サウスシティの南に位置する、海沿いの田舎街。その高台の隅にある、少し古びた一軒家。  今日から、スピカとクロトは、ここで共に暮らす。 「今12時か……。粗方搬入は終わったかな」 「本当に、何から何までありがとうございます、ジンさん、マキくん」 「いやいや、俺サウスシティに遊びに来たかったからいいんですよ。ジンさんは暇だし」 「おい、俺は暇じゃぁないぞ。……まぁ、坊やだけじゃ、この量の荷物は心配だったしな」 「うん。本当にすごく助かったよ。ありがとう、マキ、ジンさん」  スピカの言葉に、ジンが小さく微笑んで、マキは嬉しそうに短い尻尾をパタパタと跳ねさせた。 『それなら、一緒にサウスシティに住んだらどうだ』  就職に悩んでいたスピカに、マキは何気なくそう言った。彼は本当に、ただ、その時頭に浮かんだ案を口に出しただけだった。しかし、あの後、スピカは本当に情報を集めて会社を絞り、サウスシティで面接を受けた。  数週間後、スピカの元に届いた書類には「採用内定通知書」の文字があった。マキやジンは自分の事のように大喜びして、クロトまで呼んで、四人でパーティを開くことになった。ケーキを食べて、スピカに内定祝いを渡して、他愛もない話をして、夜遅くまで騒いだ。スピカはその日、心が踊るような感覚を、少しだけ思い出した。  その日の深夜、スピカは、クロトの家にいた。孤児院はとっくに門を閉ざしてしまっていたからだ。仕事以外は基本放任主義のイーストシティ孤児院で、たった一人の子どもをわざわざ探す獣人などいない。  風呂に入り、寝る前に二人でミルクティーを飲んだ。寂しくなりますねと笑ったクロトは、どこか悲しそうだった。 「……ふふ、サウスシティに行っても、貴方ならきっと大丈夫です。…………とても、強い人ですから」  彼の姿が、なんだかいつもより弱々しく、儚くスピカには感じられた。 「……俺と一緒に、サウスシティで暮らしませんか」  気が付いたときには既に言ってしまっていた。クロトは突然のことに、酷く驚いた様子だった。 「私が……、貴方と……?」  クロトの顔を見て、スピカの心臓が突然どくんと跳ねた。まるで、後ろから何かに引っ張られているかのように喉が締まる。感じたことのない感情に揺さぶられながらも、スピカはしっかりとした声を発した。 「……俺は、貴方と一緒に、同じものを食べて、同じ景色を見て、同じ家で暮らしたい。サウスシティに、俺と来てもらえませんか」  スピカの表情は真剣だった。彼の様子に、クロトは椅子に座り直すと、真面目な顔になってまっすぐスピカに向かい合った。 「スピカくん。誰かと一緒に住むというのは、人生の大きな岐路になります。……ちゃんと考えてから決めなくてはいけません。私が、どこの何者か、貴方は考えていますか」 「もちろん考えました」 「……しっかり考えたら、私と暮らすなんて決断には至らないはずです。……スピカくん、貴方はどうして、私と暮らしたいのですか」  スピカはカップを握りしめ、クロトを見つめて、力のある声で言った。 「貴方に、この先、ずっと笑っていてほしいから」  スピカの答えは、あまりに単純だった。 「…………そうですか」  クロトは呟いて、うつむいたまま続けた。 「……貴方が、どんなつもりでそんなことを言っているのか……それが私には分かりません。……庇護欲や正義感でしょうか。……それとも、他の何かですか」  スピカは言葉をつまらせる。それは、スピカにも分からない。ただ、そうしたい。彼を、この腐った街から連れ出したい。 「…………分かりません」 「……そう、でしょうね。私はそれを分かっています」  クロトが薄笑いを浮かべる。 「……貴方が感情に疎いのは、よく分かっています。……私は、悪い大人だから……あなたのそんな純真に、甘えてしまっていました」  自分は、スピカの鈍感さを利用した。認めてくれるものが、欲しくなってしまった。自分の欲を満たすために、彼を利用した。――無垢な友人のフリをして。  そして今尚、それをやめたくない。 「貴方に私はふさわしくありません。……こんな汚れた大人を、側に置かない方がいい」 「…………クロトさん。俺の前で、隠し事をしないでください。……どうか」  クロトは目を瞬かせた。それから、指で自分の手の甲をするりと撫で、俯いた。 「……申し訳ない。いい大人ぶってみましたが、本当は他にも理由があるのです。……いえ、きっとこちらが本心でしょう」 「なんですか。俺の駄目なところなら、なんでも直します」  スピカは前のめりになって彼の話を聞こうとした。クロトは、すこし迷ったように沈黙して、それからゆっくりと口を開いた。 「………………貴方はいずれ、素敵な人に出会うでしょう。そして、いつかその人を心から愛し、一緒になりたいと思う時、きっと、貴方は私のことが邪魔になる」 「そんなこと……!」 「絶対にないと言いきれますか? 貴方は、私と違ってまだ若い。人との出会いはこれから沢山あるのですよ」  この感情を、一体何と呼べばよいか。クロトは知っている。胸を拗じられるようなこの気持ちを、人は、何と呼ぶのか知っている。  けれど、口には出せない。スピカが、それを知らないから。彼には、それを分からないままでいてほしい。良き友人として、そこにいたい。 「……私は臆病だから、いつか貴方に拒絶されるのが怖い」  クロトは腕を組んで静かに言った。全てを直接言葉にはできなかった。しかし、彼に対して自分が抱えている感情を、ほとんどすべて言葉にした。本音を吐露し震えるその声は、あまりに切なかった。  がっと、勢い良く立ち上がったスピカがクロトの手を掴んだ。クロトはびくりと肩を震わせる。 「……俺は感情に疎いから、皆の持つ、人らしい感情を持たず生きてきたから……、今の俺のこの気持ちを、正しく表現する言葉を知りません。クロトさんの抱いている感情のすべてを、正しく理解することもできません。そのせいで、俺は貴方を困らせてしまう。…………でも、今確かなのは、これからも揺るがないのは、クロトさんは俺の一番だってことです」  クロトの手を両手で包み、額に祈るように当てる。いつかクロトが、自分にやったように。  この繋がりが切れぬよう、いつまでも彼との時間が続くよう、切願する。 「いつか誰かを愛するなら、俺は貴方がいい」  柔らかい前髪がクロトの手の甲を撫でる。クロトはしばらくぼうっとして固まっていた。スピカが顔を上げ、そっと手を下ろすと、クロトはやっと口を開いた。 「…………本当に、貴方には敵いません」  困ったように笑うクロトを見て、スピカは期待に頬を上気させた。 「……いいでしょう。貴方がそこまで考えていらっしゃるのなら、断る理由もありません」  スピカはみるみる満開の笑顔になった。頭から本当に花でも飛び出るかのような勢いで、彼は笑った。  それから、クロトとスピカは、すぐに引っ越しの話をし始めた。スピカの仕事場は、サウスシティの南端の街にあった。人口はそれなり、面接でスピカが訪れたときは、自然の多い印象があった。クロトは、住むなら自然が多くて星のきれいな街がいいと言った。  数ヶ月後、二人は海に面した小さな田舎街に、引っ越しを決めたのであった。  「この街はいいな。海が近くて、街並みも綺麗だ」  おにぎりを口いっぱいに頬張りながら、ジンが言う。スピカはダンボールの上の緑茶のペットボトルを手に取った。 「仕事場を、なるべくアンダーシティから遠い場所にしたんです。海の近くなら、地下はないから」 「なるほどな。海きれいだし、いい判断だぞ、坊や」 「海ホント綺麗! 俺も住みてー! ね、ジンさん、あとで泳ぎに行こうよ」 「あーあー、いいぞ、お前だけ泳いでこい」 「ジンさんも泳ぎ駄目なの?」  キラキラした目で見つめるマキに、ジンが苦笑をこぼした。マキの海好きエピソードは、スピカも何度か聞いたことがある。 「……スピカくんの好きなお花が育てにくいのが、この家の欠点ですね」 「大丈夫です。やりようはいくらでもありますから」 「心配ねえっすよ。コイツほら、花に好かれてるでしょ?」  そうですね、とクロトが笑う。彼が持ってきてくれていた花々は、確かに、どれも活き活きと輝いていた。  四人は昼食を食べ終えると、またダンボールを運び始めた。スピカの荷物が少ないのでそんなに数はないが、ジンやマキが組み立てや配線などの細かな作業までやってくれるので、作業は四時過ぎまでかかってしまった。 「じゃ、俺らあと一日観光して帰るから、何かあったら呼べよ、スピカ」 「ありがとう、マキ」  スピカが、マキにまっすぐ手を伸ばすと、彼は少し照れたように頭を掻いた。 「……まぁ、俺も勉強頑張るし、お前も仕事頑張れよ」 「うん。一緒に頑張ろうね」  マキと握手をかわす。マキは、唯一自分と普通に接してくれた友達。八年間を共に過ごした友人との別れが、辛くないといえば嘘になる。けれど、新しい生活にワクワクしているのも、また事実だった。 「じゃあな、スピカ」 「うん。二人とも元気で」 「本当にありがとうございました」  ジンとマキは、空っぽの軽トラックに乗って去っていった。行きは、あの軽トラックに、スピカの衣服が少しと、クロトの仕事道具と家具を乗せていた。ここは、イーストシティから決して近くない。それでも、ジンは、いつも使っている花運搬用の軽トラックを、荷物運びのために走らせてくれた。 「本当に、貴方の友人はいい方ですね」 「多分二人は、もうクロトさんのことを友人だと思っていますよ」  海風が、クロトの銀の髪を揺らす。藤色の瞳が、かすかに揺らめいた。 「それは…………」 「それは?」 「…………本当にそうだとしたら、私は、とても……とても嬉しいです」  スピカはクロトの横顔を見て微笑んだ。丘の上に立つ我が家からは、美しい海がよく見えた。 「…………海が、綺麗ですね」  クロトは呟いて、海風を胸いっぱいに吸い込んだ。 「ふふ、見えてないのに何が分かるって言いたくなるでしょうけれど、本当に綺麗だと感じられるんです」  スピカはその言葉に特に驚いた様子もなく、ただ納得したように微笑んだ。 「…………この海は、澄んだ心を持っています。憎しみや悲しみを含まない、純粋でただ美しい海。俺の目で、そう海を選んだんです。……クロトさんにもそれがいるのなら、よかった」 「貴方のいる世界と、私の見えない世界、案外近いものなのかもしれませんね」  同じようなものが見えている。その事実は、今まで特別な目で世界を見てきた孤独な二人の心を、少し癒やしてくれた。 「……そうだ、私、今から絵を描きます。この海は、きっと、今日しか見られない海ですから」 「見たいです、クロトさんが絵を描くところ」  スピカに詰め寄られて、クロトははにかんだ。二人は顔を見合わせて笑い合う。白い砂浜に寄せては返す波の音が、心地良かった。

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