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コアラとモグラ 第二章 第四話
コアラとモグラ編
第二章 第四話「断つ」
「それじゃ、スピカくん、あとはコイツ……ジェカに聞いといて。おいジェカ、よろしく」
「うぃうぃ。了解です、先輩」
「あ、ありがとうございました」
サウスシティに引っ越してきてから約一週間後。スピカは、初めて会社に出社した。
サウスシティにある、小さな建築会社。建物の外装や内装はもちろん、庭やベランダ、家具に至るまで、家をまるごと一つ仕上げて提供する会社だ。スピカはこの会社の庭担当として入社した。
明るい茶髪を揺らして、声をかけられた男はスピカを見た。
「あー、名前なんだっけ、スー……」
「スピカです」
「そうそう、スピカだったね。俺ジェカって言うんだ。ジェカ・ベイカー。よろしくね」
「よろしくお願いします」
ジェカはふわとあくびをして、それからおもむろに方眼紙を取り出した。少しガサツそうな人だ。それに、不思議な雰囲気があって、なんだか深く触れたくないような気がする。
「この会社に入って、いまどきアナログなんてびっくりしちゃったよ。1000年前みたいだよね。あ、これ、図面の紙ね」
柔らかい表情と雰囲気の奥に、微かに見えるのは何だろうか。スピカは少し怖くなって、彼から目をそらした。
ジェカは紙をぴっと伸ばすと、鉛筆で線を描きだした。
「庭師の仕事は、ずばり、庭を作ること! 言わなくてもわかるか。……でも、まあ、俺はそんな芸術的な才能ないんだけどさ。あ、この庭師部の皆が皆、いつでも図面をかいてるわけじゃないよ。大抵は、力仕事がメインなの。スピカにもやってもらうからね」
「おいジェカ、話の脱線はやめろ。いつまでも説明終わんねぇぞ」
同僚の声に、ジェカがえへへと笑った。
「ごめんごめん。……あいつ真面目だろ? 両親がイーストシティ出身なんだって。名前はジャックっていうんだけど。あ、スピカもイーストシティだったね。気が合うんじゃない? ……えっとなんだっけ……。……ああ、そうそう。庭を作るとき、当てずっぽうはだめだろ? だから、お客様のご要望とか聞いてさ、最初に図面に起こすんだよ。こうやって」
ジェカは鉛筆を走らせ、方眼紙の真ん中に円を描いた。
「一応木のマークとか池のマークとか会社で決まってるからさ、後で一覧渡すね。それ覚えんの結構大変なんだけど、スピカは覚えるの得意? 俺は実は得意なんだよね。まぁ、とにかく庭を沢山提案して、お客様と最高の庭を作るのが、俺たちのお仕事。……あれ、この話はあの人からもう聞いたかな?」
「……はい」
ジェカは手を動かしながら、ニコニコと笑った。
「あはは、そっかそっか! じゃあ話すこともないや! 最初は俺のお手伝いだからさ。まあ、気楽に行こうね」
ジェカの手が止まる。彼はにやりと笑って、スピカに紙を突き出した。
「……こんな感じの案をいくつか作ってお客様にお出しするんだ。割とすぐスピカにも穴埋めで出してもらうかも。よろしくね」
スピカはそれを受け取って、表情を変えることなく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
ジェカは気さくな獣人 だった。ぺらぺらと喋って皆の気を引こうとする姿は、まるで無垢な子どものようにも見えた。
スピカは、一日中ジェカに張り付いて仕事を学んだ。その間に、沢山の同僚の名前を教わったり、部屋や物位置を覚えたりしているうちに、いつの間にか退社時間になっていた。スピカが会社を出ようとしたとき、ジェカが後ろから追ってきた。
「スピカ! 飯食べよう!」
よほどスピカが気になるようだ。しかし、家ではクロトが夕飯を作って待っている。どうしていいか分からず、スピカは固まってしまった。
「えっと……」
「おい、嫌がってんだろ。やめろよジェカせんぱい」
朝もジェカのいらぬ話を遮ってくれた男が、また現れた。たしか、ジャックという名だ。
「えー、だめ? まあいいけどさぁ」
「お前嫁のとこ帰りたくないだけだろ。初出勤の子を付き合わすな」
「ぅ、違うもん……。……いいの。あいつと俺はこの距離感で。あんまり近いと、だめなんだ」
「はあ。そんなこと言ってたら、すぐ誰かに取られるぞ」
「ありえない。あいつが俺のことを捨てるわけないもん」
ジェカのその態度に、ジャックは大きなため息をついた。
「えっと、お前……、スピカだっけ。いいよ帰って。コイツの世話は俺が引き取るから」
「ねえ、なーにそれ。今回は本当に俺が悪いんじゃないんだけど」
「はいはい」
スピカはちらりと時計を確認し、再びジェカたちの方へ向き直った。
「……スピカ、誰か待たせてんの?」
ジェカが尋ねる。スピカは驚いて、小さく頷いた。彼は、人の一瞬の動きでさえ注意して見ているようだ。
「同居人が、ご飯を作ってくれているんです」
その返答に、ジェカもジャックも目を丸くした。
「恋人?」
「え!?」
自分で思っていたより大きな声が出てしまい、スピカは口を抑えた。ジェカが、面白いものを見た、と言わんばかりににまっと笑う。
「おいおい、スピカ。お前恋人いたのかよ」
「こ、恋人では……」
「へえ、意外。やるなぁ、お前。18で街出て、恋人と同棲ね……」
「あの、恋人ではないんです……」
スピカの否定など耳に入らないのか、二人は何やらケタケタと笑いながら互いを小突き合っていた。
「……まあ、いつでもいいからさ。いつか一緒にご飯食べようね。じゃ、また。明日からも頑張ろうね」
「は、はい。ありがとうございました……!」
スピカが頭を深く下げる。ジェカとジャックは、仲良さげに繁華街の方へ歩いていった。
日は沈みきり、空には月が薄く光っている。スピカは一度伸びをして、それから大きく深呼吸した。
「………がんばらなきゃ」
彼に見合う獣人になりたいから。
スピカは家に向かって足を踏み出す。今日は、彼に話したいことが沢山あった。心が踊る。自然と笑みがこぼれた。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい、スピカくん。どうでしたか、初めてのお仕事は」
クロトにそう言われて、スピカはぴたりと固まった。
そうか。自分は今日仕事に行ったのか。
なんだか慣れない言葉に、スピカは照れ笑いを浮かべた。
「思っていたより力仕事が多くてびっくりしました」
「そうでしたか。疲れたでしょう。荷物持ちましょうか?」
「い、いえ、そんな! 自分でやりますよ」
スピカは靴を脱ぐと、自分の部屋に入り、バッグを床に置いた。スピカの自室は狭い。彼はそもそも寝る以外では部屋を使わないため、彼の部屋は、ベッドとタンスが置いてあるだけの、つまらない空間になってしまっている。
スピカは硬いスーツを脱ぎ、さっさと部屋着に着替えてスーツをハンガーにかけた。シャツは、脱衣所にある洗濯機の側のカゴに入れる。このシャツは、ジンが就職祝いに買ってくれたもので、どこかのブランド物らしい。
スピカには聞きなれないブランド名だったが、マキが驚いて、俺のときもほしいと強請っていた辺り、そうとう有名どころらしかった。
「スピカくん、ご飯できていますよ」
「ありがとうございます」
クロトがストンと椅子に座った。食卓に並べられた白い食器。そこに盛られている、色とりどりの鮮やかな食事。細く切られた玉ねぎの上に乗るサケの身の色の美しさに、思わず腹が鳴った。
「ふふふ。食べましょうか」
「は、はい。いただきます」
スピカは料理を口へ運んだ。口の中に料理が収まった瞬間、スピカの耳がびび、と揺れた。
「おいしいです……! 本当に……!」
スピカは嬉しそうに声を張った。クロトは少し照れたように笑った。
「ふふ、それはよかったです。私の料理は、レシピの時間と匂いだけが頼りですから、心配していました。……ときどき失敗してしまうので」
「本当に美味しいです。……おいしい……」
「そんなに私を褒めても、これ以上のものは出ませんよ。……まあ、食べ盛りなんですから、たくさん食べて下さいね」
クロトは静かにサラダを口に運ぶ。その所作ひとつひとつの美しさに、スピカは目を奪われる。
「そうだ、今度の日曜日ですけれど…………、あの、どうかしました?」
先程からスピカが全く動いていないことに気が付き、クロトは首を傾げた。
「い、いえ。日曜日ですか?」
「はい。少し日用品と、家具を買いに行こうかと思いまして。一緒に来ていただけますか?」
「よ、喜んで……! ……でも、俺まだ給料貰ってないけど、大丈夫ですか?」
もちろん後から返しますけど、とスピカは言った。
「いえ、生活費はまだ結構です。私が払います。家具のほうも、私のほしいものですから、スピカくんは気にしないでください」
「クロトさんのほしいものなんて珍しいですね。なんですか?」
「ソファーです。リビングにひとつ置いておきたくて」
「それなら、やっぱり俺も出します。……俺も欲しかったので」
スピカはそんなことを思っていない。クロトにはそれが分かった。普段スピカがものを買うとき、彼は必要性だけで購入を決めている。極端な言い方をすれば、生命の維持に必要かどうかでしかものを見ていない。彼が必要性を無視して買い物をするのは、そこにクロトが関わっているときだけだ。
そういうとき、スピカの堅い意志が崩れないのを知っているクロトは、仕方なくその申し出を承諾した。
「……貴方の大切なお金なのに……」
「俺はクロトさんと対等でありたいんです」
「対等だなんて……。私なんて貴方に比べれば……」
浅はかで狡くて汚い大人だと、そう続けようとしたクロトの口が止まる。
「……申し訳ない。ここで卑屈なことを言うと、貴方は怒りますよね」
「お、俺は怒ってるわけじゃ……。ただ、あまり自分を卑下するのは……、その……」
スピカは一度目を伏せる。それからゆっくり顔を上げて、クロトをまっすぐ見つめた。
「……クロトさんは俺の憧れです。あんまり、自分を悪く言わないで」
「……ふふ、善処します」
二人は夕飯を食べ終わると、椅子に座って各々別のことをした。少し眠そうにしているクロトと、仕事で疲れてしまっていたスピカの間に、会話は少なかった。しかし、この、ただ同じ空間にいるという事実が、二人にとってとても心地よかった。
カチカチという時計の音が、やけに近くに感じられる。何があったわけでもないのに、どうしてかうまく寝付けず、クロトは今夜何度目になるかも分からない寝返りを打った。
「…………」
昼寝をした訳でもなし、昼ほどまで寝ていたわけでもなし。あえて言うなら、今日は一日、頭も体も使っていない。……のんびりとした良い一日だった。彼と二人、ソファーに座って、庭に植える花を決めた。彼が楽しそうに話をするのを、幸せな気持ちで聞いていた。昼からは、彼が海風に晒されている家の壁を水で洗浄し、自分はお菓子を作った。楽しかった。この上なく、幸せだった。クロトはぼんやり一日を振り返り、それから起き上がった。
仕方なく、クロトは部屋を出た。靴を履いて、同居人を起こさないよう、静かに家を出る。街は静まり返っていて、海の音だけが遠く響いていた。
「…………いいところですね、本当に」
クロトは白状をついて夜の砂浜に降りた。砂はさらさらと足に絡まり沈む。
今日は月が綺麗だろうか。真っ暗な視界の中、クロトは上を見上げた。星は今も煌々と輝いているのだろう。
砂浜に座り込むと、黙って目を閉じて、顔を上に向けた。身体の力を抜き、僅かな光もない真っ暗な世界に浸る。波が寄せて返す。水は青く澄んでいた。
クロトは、こうして星を見る。遠く輝く星々のエネルギーを、こうして感じる。
「クロト」
聞き慣れた、身の毛がよだつような声。思わず声の方を振り返った。
「随分遠くまで来たもんだなァ、クロト。お迎えの時間だぜ。……旅行は楽しかったか?」
「…………貴方も、暇ですね」
「暇じゃなくても、逃げ出した自分の犬の躾くらいすんだろ?」
オズはクロトに手を伸ばし、その細い腕を捻り上げる。それから、彼を砂浜に押し倒した。
「戻ってこい。今なら片腕引き千切るぐらいで許してやる」
「おや、それは困りましたね。仕事ができない」
オズはクロトの服を剥ぎ、腕に噛み付いた。鋭い痛みに、クロトは顔を歪めた。
「い゙……あ゙……っ!」
「次は本当に喰いちぎる」
「商売道具に噛み付くなんて、どういう了見ですか」
「ッハハ、娼婦の商売道具か? 確かになァ」
クロトが身体をよじり、逃げようとするのを、オズは力づくで押さえ込む。砂浜に血が垂れた。
「本当に、どこまでもしつこい人ですね……ッ!」
「せいぜいほざけ」
クロトは唇を噛んだ。この食物連鎖の王の前に、今の自分は無力だった。
獣性の強い獣人に孕まされることは、弱い獣人にとって、何にも代えがたい喜びである。弱い獣人は、強い獣人に逆らえない。ヒトのエゴで、ヒトが彼らに植え付けた本能が、彼らをそうさせている。
「諦めろ。お前は醜く汚い人間だ。そうだろ? 俺と同じ、なァ」
オズはクロトをうつ伏せにし、押さえ付けるように覆い被さった。その瞬間、クロトの身体はぞくりと震え、簡単に発情した。
「……っは、っ……」
ヒトが獣人に取り付けた、もう一つの呪い。それは“発情”だ。理性を持つ獣人を、効率的に性交させるには、理性をなくさせることが必要だったらしい。それは他のどの動物よりも酷く、快楽を得られるものだと言われている。
「……っ、ゔ……」
クロトはオズから逃げようと、必死で砂を掴む。
「なにも心配しなくていい。怖がるな。孕むわけじゃあるまいし」
彼の言うことは事実だった。
クロトの女性器は、どうやらうまく機能していないようだった。幼い頃から、何度オズが跡継ぎを産ませようと種を注いでも、彼が妊娠することはなかった。彼は、生殖能力が限りなく低いのである。
クロトは、自分の身体のなかで、それだけはよかったと感じていた。美しい銀の髪より、陶器のような白い肌より、それをよかったと感じていた。この男に孕まされることがあれば、今度こそ自分は生きることをやめるだろう。
オズはクロトの柔らかい肌に噛みつき、その熱をクロトの膣に突き立てた。クロトが、小さく悲鳴のような声を上げた。
「なァ、毎日犯せば、流石のお前でも孕むんじゃねぇか?」
「馬鹿言わないでください……っ、……私は、そういう体じゃないんです……!」
「ッハハ、お前は気持ち良ければいいんだもんな」
「あ゙……ぅ……っ」
身体を、快楽が侵していく。オズの性器が膣に刺さるたび、クロトの思考は溶けていった。
「お前、随分ヤってないからしんどかったんじゃないのかァ? あの子どもに手を出すわけにもいかないからなァ」
「っ、は、……っあ、ぁ」
「こんなに淫らで汚い“クロトさん”なんて、キラキラした目のあの子には見せられないよなァ。あの子が見れば何と言うか。……あの子どもは、性欲なんか持ってないぞ?」
「……っ、彼の話を、しないでください……ッ」
「ッハハ、そうだよなァ。あの子どものこと少しでも考えるだけで、気持ちよすぎてイッちゃいそうだもんな」
「ば、か言わないで、ください……!」
襲い来る暴力的な快楽を逃がそうと、クロトは必死で砂をつかむ。けれどさらさらと手からこぼれ落ちていく砂では、気が紛れることはなかった。
「……ぁっ、ア……ッ!」
「気分乗ってきたか、“クロトさん”は?」
「……は、ッあ、ン、あぁ……ッ」
汚い大人だ。あの子の純情を弄ぶような真似をして。
結局自分が本当に欲しかったものが何なのか、思い知らされるようだ。彼のくれた安寧に、満足していない自分がいる。
「は、……っぁ、あ゙……、やめ……ッ」
クロトはただ身をよじり、快楽を求めて腰を振った。男がにやりと笑い、クロトの首に手をかけた。
「……っ!」
「苦しいなァ、クロトォ」
息ができなくなり、たちまちクロトは喉をガリガリ引っ掻いた。黒い爪に血が垂れる。やがて虚ろな瞳になり、カクンと力が抜けた。
「寝るな」
ギリギリのところで空気が肺に入り、クロトは酷くむせこんだ。頭がぼやっとして、うまく力が入らない。何も考えられない。羞恥も嫌悪も、砂の冷たさも、波の音も感じない。ただ、ただきもちがいい。
膣に注がれるあまい味が、ここちよい。
「…………お前……ッ!!!」
怒りに染まった低い声が、クロトの耳に届いた。言葉が終わるとほぼ同時に、低く重たい唸り声が響いた。
「お前、お前だな、クロトさんをいつも……!」
「おいおい、心外だなァ。俺はコイツが望むことをやってるだけだぜ? お前にはコイツの行動が見えないのか?」
「お前にはクロトさんの声が聞こえないのか!?」
スピカだった。唸り声をあげて、今にも飛びかからんとしている。いつも穏やかな彼からは想像もつかないような形相で、オズを睨んでいた。
「帰れ。俺はお前が目障りだ」
「ハハハ! おもしろい、コアラの分際で、俺に命令か?」
「帰れッ!」
スピカの声と迫力に、一瞬オズがビクリとしたのが分かった。けれど、すぐにオズはいつものように薄く笑い、クロトの頭を掴んだ。
「……嫌だ。コレは俺のモノだ」
オズが言い終わるより先に、スピカが彼に牙をむいた。突然の行動に、オズは慌ててクロトから飛んで離れ、一歩引き下がった。
「消えろッ!!」
スピカの声に、オズは身体がビリビリと痺れるのを感じた。それは、今まで感じたことのないほどの、骨の髄まで染み渡るような、深い恐怖だった。
「おいおい……これでコアラだって……? 笑わせんじゃねェ、こんなコアラがいてたまるか……」
「帰れ」
スピカの瞳が、一瞬赤く揺らめいた気がした。その瞳を見て、オズは、一つ瞬いて、表情を失った。
「……お前、そうか、スピカ……。その血は……あの人の……」
ぼんやりと呟いて、オズは渋々といった顔で腕を振るった。すると、男の姿はシュルシュルと闇の中へ消えていく。初めて見た魔法にも、スピカは怯まずオズをにらみ続けた。
「……アンタはいつまで俺を縛んだ、この邪神がよ……」
オズの言葉は、スピカやクロトに向けられたものではなかった。彼は、まるで誰かに語りかけるようにそう言い残し、ふっと姿を消した。
しばらく海の方を睨みつづけていたスピカが、突然、ぱたんと砂浜に座り込んだ。
「ス、スピカくん、大丈夫ですか……?」
クロトが話しかけても、スピカは何も言わず、ただじっと砂浜を見つめていた。
自分の中に突如現れた、とても大きな感情。身体が震え、息が乱れる。心臓がバクバク音を立てていた。
あんなに声を荒げたことはない。もちろん唸ったこともない。自分にはそんな大きな感情など、存在しないと思っていた。
「……クロトさん……」
スピカが小さく呟いた。クロトが重たい身体を無理やり動かして少し這い寄ると、スピカは腕を伸ばし、クロトの背に回した。
「スピカくん……?」
スピカは強くクロトを抱きしめた。クロトの細い身体がスピカの腕の中で震えていた。
「……どうして一人で歩きに出たんですか……」
スピカはそう呟いて、クロトの身体をさらに強く抱き締めた。深く柔らかい匂いがした。
「も、申し訳ない……。眠れ、なくて……」
「眠れないのなら、俺がなんにでもいくらでも付き合います。夜中だろうが明け方だろうが、いつだって構わないんです。俺は、クロトさんが傷つくことのほうが、何倍も……」
「……貴方が怖い思いをするくらいなら、私はどうなろうと構わなかったのに」
「クロトさんがいなくなること以上に怖いことが、この世の中にあるもんか!」
スピカは目に涙を浮かべていた。透明な雫が、ストンと頬を滑り落ちる。新聞売りだった頃、人に蹴飛ばされても貶されても、泣いていいと言われるまで決して泣かなかった少年が、今、自分のせいで泣いている。
スピカはクロトの肩に顔を埋めた。
「……クロトさんがいなくならなくてよかった……」
間に合わなくてごめんなさいと続け、スピカはクロトに服を着せた。クロトに手を差し出すと、遠慮がちに細い指で握られた。
「立てますか?」
「ええ、おそらく……」
クロトはゆらりと立ち上がる。
「傷……家で診ます。病院も、行きましょう」
「……結構ですよ。病院なんて、もったいないですから」
クロトは細い指を口元に当てて、柔らかく微笑んだ。この状況で、いろいろな気持ちを抑え込んで笑える彼は、本当に強い。そして悔しいことに、この異常に慣れてしまっていた。
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