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コアラとモグラ 第二章 第五話
コアラとモグラ編
第二章 第五話「見えないもの」
盲目で貧弱、頭も悪い。穴掘りの仕事もろくにこなせず、毎日血液と泥まみれ。疎まれ貶されながら、必死でただ生きている。そんな自分に声をかけてきたのは、気まぐれで工事場に通りかかったアンダーシティの市長、オズだった。
「……綺麗だなァ、お前」
彼はそう言って、少年の頬を撫でた。少年はビクリとして、半歩身体を引いた。彼はニヤニヤと微笑んで、少年の身体を舐めるように見る。
「お前、名前は?」
「………クロト」
少年はか細い声でそう答えた。
クロトは、アンダーシティの生まれである。乳飲み子の頃には両親がいたが、盲目であることが分かった途端、彼らはクロトを捨てた。目も見えない使えぬ子供は必要ない。アンダーシティとはそういう場所だ。なんら不思議なことではない。幼いクロトも、寂しさは覚えど、捨てられたことを辛く思うことはなかった。
“女性”というものが消失したこの世界では、中性的な魅力を持つ美しい少年は、誰にとっても魅力的に映った。仕事を終えた彼の身体には、いつも泥の手形がついていた。
そして、その魅力は、死神とも勇者とも呼ばれる男を引き寄せた。アンダーシティのオズ。地上人だってその名を知っているような極悪人である。クロトのその容姿に惚れ込んだオズは、ある日突然、幼い彼を工事場から引き抜いた。
オズがクロトを連れてきた日、彼はクロトに部屋と食べ物を与え、新しい服や布団を与えた。アンダーシティに住んでいる10歳にも満たない少年には身に余るほどの豪華な暮らしに、まだ幼かったクロトは、無邪気に心を躍らせた。
「今日からお前は俺のものだ、クロト」
オズがそう言い、クロトの頭を撫でた。クロトは、自我を持ってから初めて与えられた人からの愛情に、強い喜びを覚えた。モスグリーンの髪の隙間で、オズの橙の瞳は不気味に細まる。
初めて食べる、美味しくて温かいご飯。初めて触る食器。風呂にベッド。柔らかい寝間着。彼から与えられたものは、すべてが夢のように素晴らしかった。
少年だったクロトは、こんな場所に居られることが、ただ素直に幸せでたまらなかった。もう、怒鳴られることも、泥を食べさせられることも、腕を折られることも、きっとない。
クロトはこのとき、自分にも生きる道があるのだと、生きる価値があるのだと、そう感じた。
「クロト」
甘い声でオズが呼ぶ。クロトが声の方を向くと、側に寄ってきたオズに、そっと腹を撫でられた。ビクリと固まったクロトの身体を見て、オズは優しく頭を撫でる。
「な、なにを、するんですか……?」
「お前は黙ってされるがままでいたらいい」
オズはクロトを裸にすると、するりと内股を撫でて不気味に笑った。白く柔らかい肌を指が辿る。くすぐったくて身をよじると、オズはクロトの肩を掴み、強い力でベッドに押さえつけた。
「っ!」
「動くなよ、痛くなるからなァ」
オズがそう言ったとき、クロトは自分の股に何かがあてがわれたのを感じた。その次の瞬間、裂けるような痛みが、クロトの身体を貫いた。
「ッ!? ……あ゙、あ゙ッ!?」
「……あ? ハハ、流石にまだガキだったか? まァ、なんとかなるだろ」
天地がひっくり返ったように感じ、続けて吐き気が襲った。突然の痛みと苦しみに、何がどうなっているのか分からない。ただ、動きに合わせて、おもちゃのように鳴き声をあげ続けていた。
「ゔぅ……! いたい、あ゙ぅ……っ!」
彼がどうしてこんな酷いことをするのか、幼いクロトには分からなかった。ただ、痛くて怖くて仕方がなかった。
数日後、再びオズが部屋にやってきた途端、クロトは怯えて、縋るように壁側へ寄った。強い拒絶に、彼は不機嫌そうな顔をする。
「ハァ……。まァいいが……、お前、立場が分かってねェな? なんのためにお前なんかを拾ったと思ってるんだァ?」
オズは小さなクロトをつまみあげると、魔法でベッドに拘束してしまった。四肢が固定され、身動きが取れない分、恐怖が更に増す。嫌だと泣き喚くクロトの狭い膣を、オズは無造作に突いた。内臓を殴られるような痛みに、クロトはボロボロと泣いて、過呼吸を起こしていた。
「お前は頭も悪いし力も無ェ。おまけに目も見えねえ。なァんにも持ってねェ。本来ならすぐ死んでんだ。……だが、お前にはその綺麗な身体があんだろうがよォ。皆それ欲しさにお前を生かしてんだ、わかってるか? だったら、どうすればいいか分かるよなァ、クロト」
「嫌……ッ、嫌です……、やめて、っ」
「大人しくしてろって言ってんだろうが。生意気な口を利くんじゃァねェ」
ズッ、と、頭の中が真っ白になった。両親に捨てられ、誰の役にも立てなかった自分にも、なにか価値があるように感じたのは、すべて勘違いだったのだ。結局、自分は何にもなれないのだと悟った。
苦しくて堪らない。苦しいのは、呼吸だけの問題ではないような気もする。分からない。耳が遠くなる。ふらりと意識が飛んでも、すぐに戻されてしまう。
小さな身体をいたぶって、彼は楽しそうに笑っていた。クロトが抵抗すればするほど、オズは嬉しそうに目を輝かせる。オズは、絶対に抵抗を諦めない、頑丈な玩具を見つけたことが嬉しくて堪らなかったのだろう。
思春期を迎えた頃、クロトの身体は少しずつ変わっていった。ヒトがかけた呪いが、この身体を少しずつ欲に溶かしていく。クロトは何度も、死を考えた。けれど、どうやっても彼に見つかって、より一層苦しめられるだけだった。痛みにも快感を拾うようになったこの醜い身体が、心底嫌いだった。
けれども、それでもクロトは、誰かに愛されていたかった。この人生を、どうでもいいと捨て去ることができなかった。自分の価値を求め続けていた。必死でオズとのセックスに縋り、これは愛情であると思い込んでいた。そう思っていないと、自分を保つこともできなかった。
子供ながらに分かっていた。自分は悪い方向へ進んでいると。
「お前は本当にかわいいな、クロト」
その一言、この醜い男の愛情に縋るしか、自分が救われる道はない。寂しくて、辛くて、痛い。それを快楽に塗り替えるのに必死になる。自分はもう駄目になっていると分かっていた。
15を越えた辺りで、クロトは自分の価値を理解した。
「……かわいいなァ、クロト」
その一言のために、自分の価値を得るために、クロトは必死で男に媚びて縋った。彼に、セックスに、依存し溺れていく。底のない暗い海に落ちていくような感覚が、どこか心地よかった。
年を重ねるに連れ、だんだんと成熟していく身体は、美しくも醜く変わっていく。
「お前は綺麗だなァ」
自分の血で濡れた手のひらで頬を撫でられながら言われたその一言は、呪いのようにクロトを掴んで離さない。
あの工事場から自分を救ってくれたのは、自分を選んでくれたのは、この人だけだ。
残酷で可哀想な、この人だけだ。
ゆらり、と脳に思考が返ってくる。クロトは少し身じろいだ。
「……ぅ……」
「あ……、おはようございます」
「おはようございます……」
「大丈夫ですか? 顔色、すごい悪いですよ」
心配そうに、スピカが尋ねる。
「…………大丈夫ですよ」
クロトはぼんやりと言った。
それにしても、気分が悪い。夢見のせいもあるが、単純に、身体が酷く怠かった。
だから、こんな嫌な夢を見たのかもしれない。
「……まだ熱がありそうですね……。あまりちゃんと眠れなかったんじゃないですか。珍しく寝起きなのに受け答えがはっきりしてるし……」
「……本当に大丈夫ですよ。貴方がそんなに心配するほどのことではありません」
「……あんなことがあったんですから、無理もありませんよ」
貴方は犯された後でもなんでもない顔をしていたのに?
そんなことは言えなかった。知っているから。この子がどれほど苦しんで、感情を忘れてしまったか。どれほど傷ついて、全てをどうでも良いと捨て去ってしまったか。
自分のほうが、本当はこの地獄に慣れて然るべきなのに。いつまでくだらないプライドを持っているんだろうか。
スピカがベッド脇に椅子を置いて、座ったまま彼の手のひらを握りこんだ。
「……クロトさんは、俺と違って、とても強い人ですね」
クロトは心が乱れるのを感じた。彼が自分を褒めるたび、認めるたび、どんどん惨めな感情が溢れてくる。
「……何を……。貴方のほうがよほど強いじゃありませんか」
「俺は強いんじゃないです。弱いから、全部捨ててしまった。とても大事なものだったのに。自分を守りながら生きている貴方のほうが、よほど強くて立派です」
心が揺れる。身体が弱ると、自分はろくなことをしない。スピカの声も言葉も、何も真っ直ぐに受け取れない。受け取れる余裕がない。
「…………無理をしないでください」
クロトは静かになった。彼は見たのだ、今の自分を。惨めだと自分を蔑み、スピカの言葉をまっすぐ受け取れないくだらない自分を。
「立派? 貴方は私の何を見たのです? ……私には、セックスしか価値がないんです。他にはなんの価値もない」
「…………あの人に、そう言われたんですか……?」
スピカが尋ねても、クロトは否定も肯定もしなかった。
「…………例え誰かにとって貴方の価値がそれしかなかったとしても、……貴方が、自分のことをそう思っていたとしても、…………俺にとっては、クロトさんはとても価値のある人です」
スピカは、いつもよりゆっくりと話す。まるで、何かを探しているようだった。
「……貴方が好きなんです。俺には、貴方が必要なんです」
スピカはそう言って、クロトの手を強く握りこんだ。
クロトは唇を噛む。
言ってはいけない。彼は自分を認めてくれているのだから。彼を傷つけてはいけない。声に出してはならない。わかっていても、言葉は止まらなかった。
「……私を好きだと言うのなら、貴方は私を抱いてくれますか?」
クロトは荒い語調でそう言った。泣いてもいないのにここまで感情的になっているクロトを、スピカは初めて見た。
「そ、そういう、話じゃ……」
しどろもどろに言葉を探しているスピカに、クロトは悲しそうに微笑んだ。
「…………分かっていますよ。貴方の言う好きの中に、セックスをしたいという感情は入っていないことは。…………でも、スピカくん。それなら、愛情って、どうやったら見えるものなんでしょう」
スピカはピタリと固まって、少し苦しそうな顔をした。
「…………分かりません」
愛情とは何か、好きとは何か、つまりそこからスピカには分からない。
クロトは俯いた。
「……申し訳ない。貴方に酷な質問をしてしまったと思います。……私は、本当にロクな大人じゃない」
スピカの感情は不安定で不確定だった。自分は、結局まるで彼に誠実でなかった。スピカはそう感じた。
「……でも、セックスのない“愛”なんて、一体、私に何を信じろと言うんです……」
クロトは小さな声で呟く。かつて信じていたものが、崩されそうだ。怖くて、もう何も分からない。
「申し訳ない。少し休ませてください。……今は、何も……、何もまともに考えられないんです」
スピカは、はいと頷いて、クロトの手を離した。
「……何かあったら、呼んでくださいね。俺はずっといますから」
スピカの声は、いつもより頼りなく聞こえた。
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