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コアラとモグラ 第二章 第七話
コアラとモグラ編
第二章 第七話「成長する心」
「好きってどんな気持ちなんだろう」
夕方のレストランで、久しぶりに再会した大学生の親友と食事をしながら、スピカはそう呟いた。
「へー。さあねぇ」
「ちゃんと聞いてよ。俺は困ってるんだよ」
「……ん? お前が困ってんの?」
「そうだって言ってるでしょ」
スピカがため息をつきながら机に突っ伏した。珍しいものを見るような目で、マキはコップから手を離してスピカを見つめた。
「なに? どうしたんだよ、珍しいな」
「……俺、なんでそういう気持ちが分かんないんだろう」
先日のクロトの言葉が、一向に頭を離れない。具体的な行為が伴わない好意など、確かに何を信じたらいいのだろうか。そもそも、ここに在るこれが一般的に言う「好き」という感情なのかどうかも、自分では分からなかった。
「なんだよ、なんかあったのか?」
事情を知らぬマキが、珍しいスピカの恋話に、どこか楽しそうにニヤニヤと尋ねる。スピカはうーんと唸り、真面目な顔で、先日会社で起こった出来事を話し始めた。
数日前、クロトが、スピカの会社へ彼の忘れ物を届けに来たことがあった。
「すみません。ありがとうございました」
「いいえ。……貴方にしては珍しいですね。きっと疲れているんでしょう」
「アルティルの疲れが出てるんでしょうか……」
スピカは苦笑をこぼす。本当は、クロトの言葉が頭から離れなかっただけなのだが、それを彼に言うことは、いくら感情の希薄な彼でも、よくないと分かっていた。あのとき、彼を救う言葉が出てこなかったことが、スピカは悔しくてたまらなかったのだ。
クロトと少しだけ他愛ない会話をし、すぐにオフィスに戻ろうとした。しかし、そこで行われていた会話が耳に入り、スピカは足を止めた。
「遠目でも美人って分かんだなぁ」
「身体付き見たかよ? あんなの獣人になかなかいないよなぁ……」
「あの人、確かこの前アルティルにいた画家だろ? ほら、盲目の、んで地下の」
「……ああ、そうは見えねぇけどなぁ」
違う部署から、庭師部へ来ていた社員たちのようだ。スピカは少し知っている顔だったが、向こうはスピカを知らないようだ。
「地下なら、首輪無しかぁ。……じゃあ、もしかしたら」
「……うわ、お前引くわぁ」
「まだ何も言ってねぇだろ。でも、あんなの、なぁ?」
「まぁ、警察に怒られることは絶対ないだろうな」
ニタニタと笑う男たちの会話を遮るように、スピカは二人の前に立った。すると、二人はピタリと喋るのをやめた。スピカに、強い威圧感があったからだ。遠くから、ジェカは少し驚いた顔でスピカを見た。
「……クロトさんは、そんな下劣な話のネタになるほど、落ちぶれた人じゃありません」
スピカのその雰囲気に、周りは静まり返った。戸惑いの表情。誰も何も言い出せなくなり、スピカもハッとした。
二人とも、きっとほんの冗談のつもりだった。本気でクロトを犯そうとする人などいないのは、スピカにもわかっていた。
けれども、スピカには、それらがどうしても許されない言葉のように感じられた。今更、発した言葉を無かったことにもできないし、かと言ってヘラヘラと謝る気にもなれず、スピカはひきつった表情で固まってしまった。
「……なんだぁ、スピカ。やっぱりただの同居人じゃないんじゃん。隠さなくてよかったのにー。はいはい、解散解散。散った散った」
ジェカがおどけた声で言った。皆の視線がジェカに向く。一瞬の沈黙の後、部屋にはすぐにいつもの空気が満たされた。二人は気まずそうにはにかんで、「すみません」などと小声で呟いて、部屋を出て行った。
張り詰めていた空気が、ジェカのおかげであっという間に元通りになった。この人は、場の空気を操るのが異様に上手い。柔らかい空気が辺りに満たされるのを感じ、スピカはジェカに近づいた。
「……ありがとうございました。あの、俺」
「いいよいいよ。あいつらほら、ちょっと気取ってる建築の奴らだから。俺らの顔色とか伺わないじゃん。いいとこでもあるけど、俺も時々腹立つことあるもん。……俺の嫁もさ、まあまあな美人なんだけど、あいつらすぐそういう話すんのね。俺はまあ、嫌じゃないから良んだけど、ま、スピカにはそういうのが許せなかったんだもんね。別に嫌なことは嫌だって言っていいんだよ。イーストシティの出身だからか知らないけど、スピカ、異様に首輪の有無を気にしてるね? あ、あいつらに謝らせようか?」
「いいえ。……謝罪なら、俺じゃなくてクロトさんにしてほしいですけど、謝ってもらったところで、クロトさんが多分困ってしまうので。こういうの、俺たちにとっては当たり前だから」
スピカはジェカに頭を下げた。
「……あの、すみませんでした。ありがとうございます」
「謝ることじゃないって。……スピカは変だね。当たり前のことだって言いながら、あんなに怒るなんて。好きだねぇ、ホントに」
ケタケタと子供のように笑ったジェカを見て、スピカは真面目な顔で首を振った。
「いえ、好きとか、そんなのでは……」
「え? ……ああ、そうだった」
ジェカは苦笑をこぼしながら、携帯に手を伸ばした。
「……まぁ、君がそう思うなら、それでもいいんじゃない? 全部信じたもん勝ちだもんね」
ジェカは、スピカの背をトンと叩いた。
「それで、俺って変だなって思って」
スピカの話を最後まで真剣に聞いていたマキだったが、なんだかこちらが恥ずかしいような気分になってきた。どうしてこう、この親友は鈍感で大胆なのだろう。
「お前が他と変わってんのは昔からだろ? だいじょぶ、それは気にすんな。独特なだけで変じゃないって」
「だって、でも、マキは『好き』が分かるんでしょ」
「いやぁ、あれを単純に『好き』と呼ぶのはちょっと重すぎる気もするけどな……」
マキは苦笑を浮かべる。
「……分かんないよ。基準はないの? なるべく明確なやつ」
「ははは、そんなんあるかよ。あったら楽しくねーじゃん」
マキがケタケタ笑うので、スピカは少しムッとした。それを見て、マキが慌てて腕を振る。
「怒んなって。……お前そんなに感情持ってたっけ? そういうのは人それぞれだから、俺にも分かんねーよってこと。別にお前の話を適当に流したわけじゃねぇよ」
「どういうこと? 人それぞれ?」
「おう、そりゃな。例えば、『一緒にいたい』ということを『好き』だと言う人もいれば、『守ってあげたい』だとか『抱きたい』だとか、そういうものをそう呼ぶ人もいる」
「でも、それって友情とは、明確にはどう違うの? みんなどうやって区別しているの?」
「うーん、どこが違うかって言われると……。心の踊り様?」
「わけわかんない……」
あははとマキが笑い、スピカはため息をこぼした。今度のは、確実に流された。
自分には、クロトをどうこうしたいだとか自分のものにしたいだとか、そういう感情はない。これを友情とも尊敬とも呼べるかもしれないが、彼に対して抱えるものが友人であるマキや尊敬するジンと同じだとは、とても言えない。
ウンウン唸りだしたスピカを見て、マキはふっと微笑んだ。こんなに感情に振り回されているスピカは今まで見たことがなく、彼の成長はマキにとって微笑ましいものだった。
「…………なんで突然、そういうことが知りたくなったんだよ」
「俺が抱えている感情が明確でないのは、クロトさんも安心できないって思ったから。あの人の為に、明確な関係で俺にできること、見つけたいから」
マキは、スピカらしいなと笑いながら、真面目な顔で話し出した。
「そうだな…………。例えば俺は、『この人を殺したい』と思ったよ」
スピカは、マキの声からも顔からも、何も読み取ることができなかった。ただ、深い闇。濃い黒が見える。
「…………それも、『好き』?」
「……結局はな」
マキがストローでジュースを吸い上げて、おいしいなとにこにこ笑った。いつものマキだ、と少しほっとする。
「スピカは、クロトさんを自分のものにしたいとは思わなかった?」
マキは首を傾げて尋ねる。スピカは少し考えて、それから口を開いた。
「…………俺は、クロトさんを自分のものにしたいとは思わない。あの人は、今までずっと、誰かのモノだったから。もう、クロトさんはクロトさん自身のものであってほしい。……それに、クロトさんを俺のものにしようって、すごくおこがましいでしょ?」
「……ふーん、なるほどな」
マキはぼんやり呟いた。あの頃の自分は、あまりに幼かった。つまり今、スピカは、あの頃の自分のように、自分の羨望を押し付けるような真似はしないと言っているのだ。マキは、全くできたやつだと感心すると同時に、恵まれていると羨ましくも思った。
「……けど、クロトさんは俺にとって誰よりも大切で、あの人は俺の全てだと思う。クロトさんを幸せにするために、俺は生きてるんだと思ってるんだ。だから失うのはもちろん怖いし、クロトさんが望んでくれる限りは、ずっと一緒にいてほしい。同じものを感じて生きていたいんだ」
自分の気持ちを声に出すにつれ、段々と気持ちが明確になっていく気がした。絡まっていた糸が解けて、何か新しい感情を編んでいくような感覚が、確かにあった。
「……そういうの、『好き』って言うんじゃない?」
頬杖を付いたマキがそう言い放つと、スピカは目をぱちぱちさせた。
「でも、俺はクロトさんを抱きたいとか、何かしたいとか思わないよ」
「『抱きたい』だけが『好き』じゃねえって。そう思わない人もいる。言っただろ? そんなの人それぞれなんだよ、スピカ。……なあ、お前は、その気持ちにどう名前を付けたいんだよ」
スピカはしばらく黙り込み、ただ一点を見つめていた。マキは、こうなったときのスピカは、一人で深く考えているということを知っている。マキは静かに彼の返答を待った。
「……そっか。俺……」
「どう? 考えはまとまったか?」
スピカは真面目な顔でマキを見つめて、それから口を開いた。
「俺、クロトさんが好きだ」
意思のあるはっきりとした声に、マキは嬉しそうに笑った。スピカも少し照れ笑いを浮かべて、恥ずかしさから逃れるように自身の髪の毛をいじった。
「俺、俺にこんな気持ちがあるなんて、思ってもみなかった」
「はは。クロトさんのおかげだな」
「うん、本当に」
少し体格が良くなってきたスピカは、どこか大人びて見える。マキは、幼い頃から弟のように思っていた友人が、少し遠くに行ってしまった気がした。
「ありがとう、マキ。気付けたのはマキのおかげだよ」
「スピカは鈍感だからなあ」
マキはにやっと笑って、スピカも微笑んだ。二人は久しぶりの再会を、遅くまで楽しんだ。
帰り際、マキはホテルの前で手を振りながら、ふと、クロトがなぜスピカの気持ちに気付かなかったのかと考えた。スピカの感情なんて、傍から見れば明確で、馬鹿らしくなるほど分かりやすい。それなのに、彼は何もしなかった。
もしや、彼はこれを望んでいないのかもしれない。そんなことを考えて、マキは苦笑した。それが真実なら、クロトも大概鈍感で、それでいて臆病者だ。
臆病者には、正直すぎるくらいがお似合いかもしれない。マキはふと、いつまでも忘れられない、あの合わない男を思い出していた。
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