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コアラとモグラ 第二章 第八話
コアラとモグラ編
第二章 第八話「必ず」
爽やかな早朝の空気。寄せては返す波の音。鳥のさえずり。まだ薄く白い空。
なんて美しい場所だろう。孤児院で汚れ仕事をしていた自分が、今こうやって穏やかに暮らせていることが、時折どうにも不思議に思えてくる。
スピカは、テラスに立って海を眺めながら、ぼんやり考えた。彼に出会うまで、自分は生きることが何なのかを知らなかった。感情も夢も、何も持ってはいなかった。彼に出会わなければ、きっと今頃、悪い方へ流れのままに流され、思考をやめ、ろくでもない人生を送っていただろう。彼こそが、自分を善く生かしてくれている。
「スピカくん」
突然、すぐそばで声がした。驚いて声のほうを振り向くと、クロトの藤色の瞳と目があった。一瞬どきりとする。実際には“目があった”のはスピカだけだったため、クロトには、もちろんスピカの驚いた様子は見えていなかった。しかし、スピカのぎこちない様子は彼に伝わってしまったようで、クロトはやや眉を下げて笑った。
「……すみません、邪魔をしてしまって」
「い、いいえ。何も。なんでしょうか」
「私、そろそろ行きますので」
「ああ、アルティルの作品の品評会ですね」
はい、とクロトは機嫌よく、柔らかに微笑んだ。
スピカやクロトが建設に携わったアルティルは、もうすぐ完成予定である。その町の宣伝を兼ねた作品の品評会が、今日の昼、ウエストシティで行われる。昨日の夜から、私のような画家も品評会に出られるなんてと、クロトが大層嬉しそうにしていたため、スピカもなんだか嬉しかった。
「家の前までお見送りします」
「いえ、それは結構です。ここで構いません」
クロトは少し高そうな堅い服に身を包んでいた。紳士と呼ぶにふさわしいその人の姿は、この素朴で純粋なこの家によく似合った。
「分かりました。気をつけてくださいね」
「はい。いってきます」
「何かあったら連絡をください」
「大丈夫です。心配しないでください」
クロトの絵の良し悪しは、スピカには分からない。ただ、初めて彼の絵を見たとき、あの絵は彼自身だと感じた。外側をうまく着飾っていても、中身は弱くもろい。そしてその更に内側の、柔らかく暖かい真綿のような骨が、スピカには悲しく見えた。それを世間は、「美しい」と呼ぶのかもしれない。
家のテラスから見える、一つ下の道にクロトの姿を見つけて、スピカはひらひらと手を振った。こんなことをしても彼から自分が見えないのは分かっていたが、なんだか今日は手を振りたい気分だった。
「かっこいいなぁ……」
美しく、かっこいい。上品で、心に小さくても頑丈な核を持っている。彼は、ただ「美人だ」と評価するのが、もったいないような獣人 だ。外見だけの話でも、中身だけの話でもない。彼の仕草や表情、立ち居振る舞い。全てが、ただ、息を呑むほど美しい。
「……よし。今日は掃除だな」
大きく伸びをして室内へ戻る。ベランダから優しい風が吹き込んだ。
クロトは、物をよくなくしてしまう。置き場所を指定しても、面倒がってそこに置かないからだ。ならばと、置き場所を、出口や入口、彼がよくいるソファーの近くにしてみても、結果何も変わらないようだ。クロトがあちこち落としているものを、元の位置に戻すのは、この家に来てすぐからスピカの役割だった。そのついでで、スピカはいつも軽く掃除をする。
しかし、今日はいつもの軽い掃除ではなく、家中の大掃除をする予定である。今日は休日なのだ。毎日海風に吹かれている屋根や壁を洗浄し、部屋を片付け、掃除をして、時間が余れば庭を少しいじる。スピカの、いつもと変わらない、穏やかな休日である。
日も暮れた夜、そろそろクロトの帰宅時間が近付いてきたからと、昼から作っておいた夕食を温め直すために鍋をコンロに置いた。そのとき、家のインターホンが鳴った。クロトの帰宅予定時間にはまだ早い。ドアを開けると、そこにいたのは、郵便配達員だった。
「あっ、郵便ですけど」
「……ああ、どうもありがとうございます」
スピカは無表情のまま手を伸ばした。彼は、ちらりとスピカの顔を確認してから、黄色い封筒を二枚スピカに手渡した。街役場から、首輪のない獣人に年に一度送られてくる、身辺調査の紙だ。男は、スピカの顔を見上げて、にたっと笑った。
「……お兄さん、あれだよね、男娼飼ってるっていう、首輪無し の」
「……え?」
スピカは、封筒を手に持ったまま固まった。
「あれ、違った? 有名だよ、ここに住んでるのは地下の有名な男娼飼ってる若い男だって……」
男娼というのは、スピカのことではなくクロトのことを言っているのだと理解する。スピカはすっと瞳を暗くした。
「……それで、他に何か用ですか」
「ちょっとその飼ってるヤツと一緒に、俺に付いてきてほしいなぁって」
首輪がないことに気付かれたのは、街からの郵便物のせいだろう。しかし、そんなことは今は良い。
「……帰ってください」
「いやいや、そんなこと言える立場?」
彼は、自分の首輪を手に持ち、スピカに見せる。怪訝に思い、スピカは眉を顰めた。
「お前らを献上すれば大金が手に入るって、地下じゃ噂になってるらしいじゃないか」
なるほど、とスピカは心の中で呟いた。彼は、どうやらアンダーシティのことをよく知らない地上人らしい。
クロトを地下から連れ出したのは最近ではない。おそらくその噂は、オズがここへ来るよりも前のものだ。更に言えば、それはオズが流した噂でもないだろう。オズは、一人で何でもでき、人の命を思いのままに扱える、神にも近い存在である。そんな彼が、人をわざわざつかうものか。
彼はそんな地下のデマを、遅れて知った地上人のようだった。
「お前の飼ってる男娼だけでもいいんだ、なぁ」
スピカの瞳がぴくりと揺れ、男を捉える。スピカはやや傾いていた身体を直すと、男を上から見下ろした。
「…………俺は自分には興味がないから、この身体がどうなろうと知りません。……ですが、貴方が彼に危害を加えようと言うんなら、俺は貴方の首をはねてしまうかもしれません」
抗ってくるとは思わなかったのか、男は少し驚いた顔をした。
「っはは、脅迫……? 役所に苦情入れられたら、君どうなるかわかってる?」
「だから言ってるだろ、俺のことはどうでもいいんです」
スピカの声が少し大きくなる。男は、一瞬びくりと肩を震わせた。
「……っ、スピカくん!」
クロトの声がして、スピカははっと我を取り戻した。庭に、クロトが立っている。クロトは、スピカの、今にも飛びかからんとしている空気を感じて、慌てて家に入ると、スピカの隣にそっと立ち、彼の腕に手を触れた。
「何事ですか。貴方が、一体何にそんなに怒っていらっしゃるんです」
クロトの腕は、小さく震えていた。
「……はは、さすがは地下の王様のお気に入りだけあるな……!」
男は、ほとんど無意識的にクロトに手を伸ばす。その瞬間、スピカはクロトの体を自分の側に引き寄せて、低く唸った。
「……帰れと言っているだろう」
男は一度ビクッと跳ねて固まった。足が一歩だけ引き下がる。もう一度スピカを見て、混乱した様子で一度頬を釣り上げた。スピカは、彼が、何故コアラなんかにと言いたいのだと分かった。更に、クロトの身体を引き寄せる。少しの沈黙の後、彼は逃げるように立ち去っていった。
玄関の扉を閉めきると、スピカはクロトの肩を掴んでいた手を緩めて、俯いた。
「すみません、俺……、あの人に脅迫めいたことを……」
「……脅迫程度では、さすがにこの家を出て行けとは言われませんよ。……手は出していませんよね?」
スピカは、はいと頷く。クロトはほっと胸をなでおろした。
「……ああいうのは、ある意味プロです。過剰に反応してはいけませんよ」
「……すみません」
「…………間に合ってよかったです。本当に」
クロトは、ほんの少しだけ笑った。スピカは、その笑顔を見てはっとした。元気がない。
「…………待ってください」
スピカは思わず声をかけた。クロトが振り返る。彼の表情からは、もう元気のない様子などは少しも読み取れなかった。一瞬のことだった。見間違いかもしれない。しかし、一瞬だろうがなんだろうが、とにかく訊かなくてはならないとスピカは感じた。
「今の人の話を気にしているんですか?」
「……スピカくん、勝手に人の中を見るのは不躾では?」
「み、見てません! 違うんです、クロトさんが今……、悲しそうな顔をしてたから……」
一瞬、驚いた顔をしたクロトだったが、すぐに真面目な顔になって、小さくため息をついた。
「さっきの人の話のせいじゃありませんよ。気にしないでください」
「じゃあ品評会ですか?」
「……大丈夫ですから、気にしないでください」
「教えてください。何が……っ」
スピカはクロトの腕を掴んだ。その瞬間、瞳から雪崩れこんできた鋭い悪意が、スピカの胸に食らいついた。スピカはクラリとして、瞬きする。頭を振って顔を上げたとき、クロトの瞳から、ぽろと涙がこぼれたのが見えた。
「触らないでください。……お願いです……。あまり、貴方に見られたくないんです……」
クロトは左腕で、スピカの腕を緩く掴み、自分の身体から引き離すように押した。慌てて、スピカは手を離す。
「……すみません、俺……」
今一瞬見えたのは、刃物のように鋭い悪意だった。それは、先程の男の、絡みつくような悪意とは、全く別のものだ。今のスピカを貫くほどの、強く鋭く、クロトの中で増幅された悪意だ。
「……私は、貴方といると駄目になってしまう……」
クロトは声を震わせ、その場に蹲った。
「いつもと変わらなかった。いつもなら耐えられたんです。だって、今の今までどうもなかったんですよ……。貴方といるから駄目になってしまいます……。なんてことないんです、こんなの、いつも通りですから……」
スピカはクロトの隣にしゃがみこむと、穏やかな声で言った。
「……クロトさん、しばらく、俺と一緒にいてくれませんか」
クロトの手を引いて、スピカはソファーに彼を導くと、少し距離を置いて並んで座った。クロトは少しの声も上げずに、ぽろぽろと目から涙を溢れさせていた。スピカは何をするでもなく、ただ隣で彼の涙を見ていた。
しばらくして、クロトは呟いた。
「……私の作品の写真が、ステージ上で切り刻まれました。不適切だと」
スピカは驚いて目を見開いた。
「……そんなこと……」
「その人は、どうやら政治家だったようです。そもそも、アルティルを作ることなど馬鹿らしいとも言っていました」
スピカに、魂を込めた作品を刻まれる辛さはわからない。しかし、なんだかクロトを否定されたかのように感じて、酷く怒りが湧いてきた。
「アルティルを共に建設した人たちが、私を慰めに来てくださいました。けれど、それが……なんだかショックで」
クロトは、ほんの少し頬を持ち上げる。
「私はステージ上で、切り刻まれた写真の横で話をしました。堂々としていたつもりです。だって私の作品の価値が、これで下がったりしません。差別も嫌悪も、犯罪も人柄も、作品の価値だけは、決して揺るがさない。そう思っていますから。……ですが、慰められるなんて、周りには、私がそんなに滑稽に見えたのでしょうか」
言いきってから、クロトは苦笑を浮かべ、首を傾けた。
「分かっていますよ、皆さんそんなつもりではなくて……、ただ共に悲しんで下さっただけだと。……ただ、ただねスピカくん、私は……」
クロトは俯いて、スピカの手を取った。辛そうに震える指で、自分の左手が握られるのを、スピカは見ていた。
「……私は所詮、汚く惨めな生き物なのだと、そう感じてしまったんです。どれほど貴方に認められても、どれほどその憧れに応えようとしても、結局、大した獣人にはなれていないんだと思ってしまった。……それが、悔しくて」
スピカは、握られていた手を握り返し、両手で包み込むと、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「……そんなことありません。悔しいのは、きっと、クロトさんはそんな惨めな獣人じゃないからです。貴方は堂々とした美しい人です。貴方が醜いと感じているところも、全てが気高く美しいんです」
「……貴方がそんなことを言うから、自信過剰にでもなってしまったんでしょうか」
クロトは、自嘲するように笑った。この嘲笑が、スピカは何より苦手だった。
スピカは彼から手を離すと、俯いた。
「…………ああ、理不尽を人のせいにするなんて、それこそ本当に愚かしいですね。……すみません、つまらない話をしました。本当に気にしないでください。……今は彼を許せないけれど、きっと少し経てば、気持ちも落ち着きますから」
クロトはソファーの背もたれに身体を寄り掛からせた。
「……惨めですね。普段は繕っているだけで、結局私は……、私が嫌いなんです」
そう感じてしまった。スピカがこれほど認めてくれているのに、そう感じてしまった。どれほど捻くれた自己肯定感なのだろうかと、嫌気が差す。
「……俺は、貴方の嫌いな貴方も、全部含めてクロトさんが好きです」
クロトはふっと笑った。
「ですが、貴方は……」
「……今は前とは違います。好きとは何か、きちんと俺なりに理解して言っています。……俺は貴方が好きです」
はっきりと、意思のある声。クロトは思わず、喉を通りかけた言葉を飲み込んだ。
「マキと話をしました。俺なりに、愛について一生懸命考えました。……俺はこれを……、貴方の隣にいつまでも立っていたいと思う気持ちを、愛だと信じています。貴方が許してくれる限り、俺の人生に、貴方がいてほしい」
「……そう、ですか」
クロトは一つ瞬きをして、俯いた。
「…………私は、怖いんです」
「……怖い……?」
「貴方が、幻覚から覚めてしまうのが」
スピカはまっすぐにクロトを見つめる。目は見えずとも、その視線は確かに伝わるはずだと、スピカは信じている。クロトは、おもむろに口を開いた。
「……愛だの恋だの、所詮は幻覚ではないですか。未確定で不安定、実体のない空想。目にも見えず、触ることも聞くこともできない。……そんなもの、私には信じられない」
「けどそれで俺が貴方を抱いても、貴方は絶対に俺の愛を信じたりしない」
スピカはクロトの先の言葉を封じるようにそう言った。クロトの心がどきりと跳ねる。心臓が、ジクジクと膿んだように痛む。
「……セックスをするだけで貴方に愛が伝わるのなら、俺はすぐにでもそうします。……けど、きっとそうじゃないんだ……」
愛を感じられる方法が、それだけであるはずがない。愛を形にしなければ少しも伝わらないなんて、そんな冷たいことがあるはずない。
「本当に、見えないものが信じられませんか? ……形のないものを感じる心が貴方にないとは、俺にはとても思えません」
スピカは、クロトの手を再び握った。
「貴方が俺を拒む理由は、本当にそれですか」
「…………私、は……」
手を握っても彼を見つめても、クロトの感情は、スピカにはもう分からない。見たくない。彼の中身は見えないが、彼の言葉に、行動に、全身で集中する。
「スピカくんの愛情を、セックス以外で感じられるということが……、そして、それを感じられなくなる日が来ることが……とても恐ろしいんです」
かつて、性行為こそが愛情であると信じていた。そう信じていなければ、今の自分を壊されてしまいそうで、怖かった。
「……スピカくんのこれまでの行動と、言動と、その全てが……、愛に溢れていました。貴方の言うように……形がなくても、それは感じられました」
しかし、それは違うと、スピカとの暮らしの中で、ようやく知った。三十数年費やして、やっと、そうでない方法があるのだと分かった。その途端、また怖くなった。
「気づかないふりをしていたかった。いつまでもこの曖昧な姿でいたかったんです……。いつか終わりがくることが、私には耐えられなかったから」
自分は釣り合わないと、ずっとどこかで思っていた。彼の無垢な憧れに見合う男には、結局なれないと分かってしまった。
怖いのだ。彼が憧れや愛という幻想から覚めて、愛を感じられなくなることが。
クロトの声は震え、手はぎゅっと握りこまれている。喉の奥が焼けるようだった。
「……貴方のまっすぐで汚れのない、美しい星のようなところが、私は好きなんです。貴方さえ居れば、私は迷わず道を進むことができる。……本当は私の方が、貴方を求めてやまない」
諦めるつもりだったのに。ずっとこのまま、この平和が続くだけで良かったはずだったのに。
スピカは、クロトの手を握り直す。クロトは、顔を歪めて、泣き出した。
「スピカくんが好きだったんです。どうしても、どうしても……」
穏やかな平和が続くだけで幸せだった。それが欲しくてここへ来た。それ以上は望めない。望まない。だって自分は、今で十分幸せなのだから。
高望みは身を滅ぼす。もう、十分、よく知っている。しかし、どうしても求めてしまう。
「クロトさんには、俺がそんなに薄情な男に見えますか」
――だって、彼なら、これ以上を求めても、当たり前のように笑って返してくれる気がしてしまうのだ。
「……クロトさんが不安なら、俺は毎日貴方に愛を伝えます。貴方以外を少しでも愛することはないし、貴方が愛に飢えることなんてもう絶対にない。俺の心は、貴方でしか動きません。……貴方に誓います。いくつ年を取っても、俺はきっとクロトさんの隣にいる」
スピカは右手で頬を包み、クロトの涙を拭った。日に焼けていない白い頬。藤色の瞳は歪んで、キラキラと輝いた。
「だから、俺を信じてくれませんか」
愛も恋も憧れも、何一つ永遠を信じられなくても、それでも、彼だけは信じられる。
この一等星は、揺らがない。
「…………私は臆病な獣人 です」
クロトは、スピカの腕を掴み、頭を上げた。
「……信じさせてくれますか」
スピカはクロトの身体を抱き寄せた。ふわりと揺れた銀の髪が、スピカの胸に触れる。スピカはクロトの身体を包み込んで、息を深く吸い込んだ。
「必ず」
その声は、まるで彼のものでないかのように、感情に震えていた。
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