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マングースとハブ 第一話
マングースとハブ編
第一話「悪魔のような男」
ヤトが、人生を狂わされた最悪の悪魔に出会ったのは、高等学部三年の春だった。
「ねえ、なにしてんの?」
誰もが恐れて近寄らない。いつも教室でひとりぼっち。明日自分が死んでも、きっと誰も気にしない。そんなヤトに近付いてきたのは、彼が初めてだった。
「なにしてんの?」
「…………」
「俺、ジェカ。ジェカ・ベイカー。知ってる? 知ってるよね?」
ジェカと名乗った彼は、丸い耳をピコピコと跳ねさせ、ヤトの顔を覗きこんだ。
「ねえ、いつも本読んでるよね。おもしろい? 何読んでんの?」
ヤトは、ジェカの言葉など何一つ聞こえないふりをして、すました顔で本を読む。クラスが変わってニ日目から、妙なものに目をつけられてしまった。意気地のない周りの獣人 が、ヤトを横目で見ながら、ひそひそと何か囁き合っている。
「俺ね、俺ね、マングースなんだ! ヤトくんってハブなんでしょ? だからね、絶対にお友達になりたかったんだぁ! 仲良くしようね!」
ヤトはぴくりと眉を跳ねさせた。何が「だから」だったのか分からないし、こちらは一言も発していないのに友達になったつもりでいるのも気に入らない。
「ねえねえ、ヤトくん、進路はどうすんの? 就職? 進学? やっぱり進学だよね?」
そんなことをきいてどうする。思わず、心の中で呟いた。横でジェカが騒ぎ立てるせいで、読んでいた小説の内容は、もうちっとも分からない。ヤトはぺらぺらとページを進めたり戻したりしながら、文字を目で追いかけていた。
「ねえ、おしえてよぉ」
あまりにしつこいので、ヤトがうるさいと一言言ってやろうとしたその時、教師が教室に入ってきた。教室が妙に静かなのを怪訝に思った教師は、一通り教室を見渡し、ヤトとジェカを見て顔をしかめた。
「おい、ジェカ。チャイムはもう鳴ってるぞ。早く座りなさい」
「えぇ、せんせー、これからいいとこなのにぃ」
「座りなさい」
「ちぇ、はーい」
ジェカはふらふら立ち上がり、不満げに自分の席に帰っていく。ジェカが自分から目を離した途端、ヤトは、身体がふっと軽くなったような気がした。どうやら、気付かないうちに圧を感じていたらしい。ヤトはため息をつき、少し肩を回した。
号令がかかり、教師はつまらない授業を始める。ヤトは、白いチョークで汚されていく黒板と、辺りの様子をしばらく注意深く観察したのち、ふっと息を吐いた。
「進学クラス」と名のついた教室の授業中というのは、本当に穏やかな時間だ。誰もうるさい目線をこちらに寄越すことはないし、行動の一つ一つをとやかく言われることもない。興味も嫉妬も嫌悪も、何もかもがこの箱の中から消える時間。ヤトは椅子に深く座った。
ふと、先ほどまでそばで騒ぎ立てていた男の方に目を向ける。彼は、退屈そうにあくびをして、教科書の隅に落書きをしていた。なんて不真面目な態度だろう。
ヤトは、学校で関わる獣人のほとんどにまるで興味がなかったが、この男のことだけは、なぜだか記憶に残っていた。
ジェカ・ベイカー。彼は、いわゆる優等生というタイプではないが、教師や周りの生徒に可愛がられている得な生徒である。高等学部一年生の頃から忘れ物が多く、教科書を求めてヤトのクラスにも頻繁に顔を見せていたため、不真面目というイメージもある。詳しくは知らないが、運動会でもリーダーなどをつとめていたらしい。
ジェカは、いつも人の中心にいる。そして、目立つところにいる。
考えていると、ヤトは気分が悪くなってきた。興味がない、それどころか面識さえなかった彼について、自分がやたらとよく知っているということが、とにかく信じられず、気味悪かった。
これ以上彼について考えるのはやめようと、ヤトは窓の外を眺める。ガラスに反射した赤茶色の瞳と目が合って、ゾッとした。
その瞳は緩やかに細まり、楽しそうに何かを訴えていた。
「ねえ、ヤトくんってば。ねーえー」
その日、なんとジェカは、帰り道までヤトについてきた。ただ帰る方向が同じなのかと思っていたが、彼は辺りを物珍しそうに見回しており、とても同じ方角に家があるようには思えない。しかし、彼はいつまでも、意味もなくヤトの後ろをついてくる。
「ヤトくん、これ毎日歩いてんの? すごいね。家近くないのに。俺ならバス使っちゃうなぁ。あ、だからそんな筋肉質なのかな? いいなぁ、それなら俺も家まで歩こうかなぁ」
学校からこの場所まで、およそ三十分。その間、ジェカはべらべらと一人で勝手に喋り続けており、ヤトが全く返事をしないことも気にしていないようだった。
「ねえねえ、バスは使わないの? あれってすごいよね、タダ同然で乗れちゃうし。なんだっけ? クー……クリーンエネルギーってヤツ? アレってそんなにすごいエネルギーなのかなぁ。まあ、公営のバスは首輪と顔写真の確認とかあるし、ちょっとだるいけどさあ」
ヤトはすました顔のまま、スタスタと歩き続ける。しかし内心、かなり動揺していた。ジェカといると、ヤトはなんだか自然と早足になり、彼を引き離そうと、頭の中はそれだけでいっぱいになる。胸と胃のあたりがそわそわと落ち着かず、まるで、捕食者から逃げている獲物のような心地だ。
ヤトは、平静を装って歩き続ける。
――大丈夫だ。この性癖は、外からでは分からない。
「ヤトくんは兄弟いるの?」
「…………」
「俺ね、姉ちゃんが二人と兄ちゃんが三人、あと下に弟が二人と妹が一人いるんだ。大家族でしょ」
家まで残り僅かになり、どうでもいい家族構成の話までされてしまっては、さすがのヤトも参ってしまった。
「……なんで俺についてくる」
「お、声低い! 喋ってるところ初めて見た! いや、聞いた? かぁっこいい!」
「質問に答えろ」
「昨日、丸一日本読んでたから。何読んでんのかなって思って。何読んでんの?」
ヤトは圧に負けてしまったことを後悔した。なんてくだらない理由だろう。この変人は、なんててきとうなのだろう。ため息をつくヤトのことなど気にもとめず、ジェカは先程より上機嫌になってヤトの隣を歩いた。
「あのクラス、元々進学クラスだった人ばっかりでしょ? 俺、友達できるか不安だったんだよぉ」
何をふざけたことを。ヤトは黙り込んだ。
そもそも自分たちは友達ではないという話はこの際もう置いておくが、ジェカという獣人は、隣のクラスまで噂の回ってくるような男である。別のクラスだろうと関係なく友だちはおり、新しく友だちを作ることも容易いのは分かりきっている。今のはきっと、ヤトへの嫌味だ。ヤトは分かりやすく顔をしかめて足を早めた。
「ねえねえ、ヤトくん、ヤトくんってこの街出身なの? 俺、実は別のとこ出身なんだ! ここに来たの最近でさぁ」
ジェカは、べらべらと異様なほど口を動かしている。どうやら口を動かしていないと死ぬらしい。彼の一歩前を歩いていたヤトは、突然カクンと角を曲がると、そこにあった鉄柵を開けて、その奥に入っていった。
「あっ、どこ行くの?」
「もう俺に近寄るな」
そこは、古いアパートだった。人が住んでいるのかいないのか分からないほど荒れており、地面はおろか建物にも草が生えていた。
置いて行かれてしまったジェカは、腕を少し持ち上げた。伸ばしかけて、やめる。しばらくじっとヤトの背を見つめてから、ジェカは、首の後ろに手を組んで、大人しく帰っていった。
「おはよう、シュガールくん」
翌朝、ジェカは懲りもせず、ヤトの前に笑顔で現れた。気を引きたいのか、珍しく名字を呼んだ彼を、ヤトはめんどくさそうに見上げた。
「わっ、気づいてくれた! おはよう!」
「……お前、馬鹿なのか」
「んー?」
ジェカはとぼけた声を出してヤトを見つめた。
「……邪魔だ。席に戻れ」
それだけ吐き捨てて、ヤトは鞄から本を取り出し、黙って読み始めた。すると、ジェカはあろうことか、ヤトの隣にしゃがみ、にこにことヤトを見上げた。
二人の間に、奇妙な沈黙が流れていた。二人どころか教室中が静まり返っていることには、その時気がついた。
「……あークソ、おい」
「邪魔してないよ。座ってるだけ」
「それが邪魔だと言ってるんだ」
数名が、ヒソヒソと小声で話しはじめた。ヤトの陰口という感じではなく、ジェカの行動の意味が、ちっとも理解できないという顔だった。ヤトでさえ、ジェカの行動の真意は分からないのだから、当事者でない彼らには当然分かるはずがない。しんとした教室で、ジェカだけが笑っている。
目線が痛くなって、ヤトはジェカに文句を言うのをやめた。
「……もういい。好きにしろ」
ヤトはそれ以降、もう一言も喋らなかった。呆れられているというのに、ジェカは変わらずニコニコとヤトを見つめていた。
放課後。ガヤガヤと騒がしい教室を、ヤトはいち早く飛び出した。二、三人で集まり、くだらない話に盛り上がっている生徒たちの間をくぐり抜ける。やっと校門に着いたとき、ヤトは誰かに肩を掴まれた。
「ヤトくん、一緒に帰ろっ」
「離せ……ッ! また来たのか……!?」
「もちろん。俺はヤトくんと仲良くなりたいんだ」
肩を掴んだのは、楽しそうな笑みを浮かべたジェカだった。その言葉に、ヤトは口の端を鋭く持ち上げて笑う。
「ハッ、誰にでもお優しいお前は、毒蛇とでもオトモダチになれるって言うのか? 馬鹿言うのも大概にしろ」
「わあ! ヤトくん、なんだかいっぱい喋ってくれるね!」
頓珍漢なことを言って、うれしいなぁと笑ったジェカの胸ぐらを、思いきり掴む。ジェカが、顔の前でぶんぶんと手を振った。
「あは、ごめんごめん。そんな怒んなよ」
「お前、どういうつもりだ、本当に。なんの目的で俺に近づいている」
「だから、ヤトくんの読んでる本が気になるんだって。あと、仲良くしようよ」
「……次はお前の首に噛み付くぞ」
ヤトの脅しに、ジェカは驚いたような表情をした。しかしそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間には、ジェカはいつもの顔を貼り付けて笑っていた。
「やってみる?」
ヤトの頭にかっと血がのぼる。ヤトがジェカに飛びかかろうとしたその瞬間、彼は手のひらをヤトの前に突き出した。指の隙間から、彼のにやりと笑った顔が見えた。
ヤトはぴくりとも動けなかった。彼が手を突き出すだけで、自分は指の先でさえ動かしてはならないような気がした。
「……ふふ、危ないなぁ。冗談も大概にしなくちゃあ」
ジェカがゆらりと腕を下ろすと、ヤトは自分の身体が自由になったように感じた。彼がただ手を上げ下げしただけで、そう感じた。
ヤトはジェカから距離を取る。ジェカは右手をぷらぷら振り回して、ゆっくりとヤトの方を向いた。
「何を……お前……、俺は冗談のつもりじゃ……」
「冗談だろう?」
ヤトはびくりとして口を閉ざした。
なんだ、この男の気味悪さは。どんな状況でも変わらぬ、不自然なまでの自然な笑顔は。
思えばずっとそうだ。自己紹介のときから、いや、きっと、もっと前から、この男は何か気味悪い。
「おま、え……は、何だ……?」
「あはは。なーにそれ。獣人だよ? ヤトくん面白いこと言うんだねぇ」
「お前、なんで俺に関わる……!」
ジェカはにこにこと笑っていた。いつものように、明るく脳天気で完璧な笑顔。それが、この状況では逆に気味悪い。
「だから、仲良くなりたいの! ……うーん。確かに他の理由もあるけど、多分言ったって信用してくれそうにないし……、そうだな……あ! もっと仲良くなったら教えてあげるってのはどう!?」
「……ふざけたこと……!」
「そうだなあ。もっと仲良くなるために、来週、一緒に図書館に行こうよ! 本好きなんだよね?」
気付けば、意志とは真逆に頷いていた。ヤトは、まるでその場に打ち付けられたかのように、少しも動くことができなかった。
これは提案じゃない、命令だ。彼の言葉は、意味以上に強い力を持っている。彼が何故いつも人の中心にいるか、今わかった。
「やった! ね、約束だよ」
ジェカが、血で濁った琥珀のような瞳を細める。
ジェカ・ベイカー。それは、ヤトの人生を狂わせた、残酷な悪魔だった。
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