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ナマケモノとタカ 最終話

ナマケモノとタカ  最終話「月は沈む」  マヒロがマキの家を離れてからおよそ五ヶ月後。あいにくの天気で、星の一つもない真っ暗な空が広がる、四月十日の夜。 「今日は風強えなー……」  その日、久々の休日を迎えていたマキは、朝から家でのんびりとテレビを眺めていた。ぼんやり食事をしてぼんやり携帯と向かい合っていたら、特に何をするわけでもなく、一日は終わりかけていた。家の外では風が強く吹き、時折小雨が降っていた。 「…………あ、メール」  マキは面倒だとため息をついてから、携帯を手に取った。最近、やたらと社内が慌ただしい。久々の休日でさえ邪魔をされるなんてと不満げな顔で携帯の画面をスワイプしたマキは、メールを開いて固まった。 『千年の幸せを願っている。』  メールの文章は、たったそれだけだった。  マキは、この唐突で一方的な言葉に、はっきりと見覚えがあった。送信元を確認する。 「……先輩?」  マキは呟く。信じられない状況に、マキは固まった。あの日以来、マヒロからの連絡はぱったり途絶えてしまっていた。マヒロに会うこと、連絡を取ることはおろか、あの後の彼がどこへ行き、何をしているのか、それさえ分からずにいた。それが、突然、どうしたというのだろう。  この、いつも送られてきていたものとは全く毛色の異なる一文は、小説かドラマか、なにかの引用文なのだろうか。――いや、そんなはずはない。これは、彼の言葉に違いない。こんなにも一方的で、何も伝わらない文章は、彼にしか書けないだろう。  マキが首を傾げていたら、突然、玄関の方から子供の泣き声がした。 「…………え? …………な、んで?」  この建物内に、子どもと住んでいる人はいない。そもそも、マキの家の玄関扉から子どもの声がするのはおかしい。  それに、この泣き声は、子どもというより、まるで赤子のようではないか。  一瞬、時が止まったようだった。マキの息がつまり、身体が固まった。自分の身に、一体何が起こっているのか分からない。けれど、これが決して良いことではないことだけは、理解できた。  触れてはならない。逃げろ。逃げろ。そう、草食の本能が警告していた。  足が震える。動かない。なにか、触れたくないものが、そこにある。  けれど、行かなくては。心拍数が上がる。呼吸が乱れる。マキはヨロヨロと立ち上がって、歩き出した。  ドアを開く。ドアはすぐに何かにぶつかった。下を見る。まだ生まれたばかりに見える赤子が、かごの中で泣いていた。赤子の上に、見覚えのある羽の耳飾りと、緑色の小さな紙切れが重ねてある。 「…………お前、どこから、来たんだよ……」  マキが震える手を赤子に伸ばす。赤子は薄っすらと、涙に潤んだ目を開いた。  金の瞳だ。美しい金。見覚えのある、いや、忘れるはずもない、金の瞳。 「お前……!」  マキの胸は、一瞬にして、恐怖にもよく似た浅黒い憎悪に支配された。喉の奥、胃の中心から吐き気と共に引き出された黒い欲望が、その赤子に手を伸ばしていた。 「…………クソ野郎ッ!」  マキはそう叫ぶと、子どもを抱き上げて、自宅の玄関前から投げ捨ててやろうとした。、地面に叩きつけて殺してしまおうと思った。これを自分の家の前に置いていく、あの人の気が知れなかった。  けれども、抱き上げられたその赤子は、マキの腕の中で、柔らかい頬を持ち上げ、金の瞳を潤ませて、うっすら微笑んだ。 「…………お前……」  その笑顔は、あの人に全く似ていないのに、どういうわけかそっくりだった。  マキの指に力がこもる。腕は震え、呼吸もうまくできない。ガタガタと震える腕で赤子を胸に抱けば、マキの足はがくんと折れた。  マキは赤子を抱きしめる。温かい匂いがした。見開いた目から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。  マキは、部屋に戻ると、腕の中でおとなしくなった赤子をソファーに横にした。小さな獣のように、荒く、しかし優しい手付きで。  赤子は、ソファーに寝かされたことが気に入らなかったのか、大きなネコ科動物の耳をぴこぴこと揺らして、また泣き出した。喉が裂けんばかりの大声を出している赤子を前に、マキは狼狽える。 「どうしろっていうんだよ……」  マキは子供の扱い方など知らない。トキが幼い頃は自分だって幼かったし、養子のユキだって、自分が世話をしたわけではない。マキは途方に暮れ、仕方なく子どもを抱き上げて部屋の中をさまよった。ふと、先程までこの子どもが入っていたゆりかごが目に入る。マキは目を瞬かせた。 「……『チトセ』?」  チトセ。かごの中に落ちていた、くしゃくしゃの緑色の紙切れに、そう書いてあった。 「千年の幸せを願って……」  千年の、幸せを、願う。  そうだ。あの人はどこへ行ったんだ? こんな小さな、まだ乳もうまく吸えぬような赤子を、四月の寒空の下に置いたまま。  メールと共に置いていかれた、首の座っていない赤子。彼には似ても似つかぬ黒髪。ネコ科動物の耳と、長い尻尾。  勘は思考より早く答えに辿り着いたのか、タチバナ家の家族写真が、ふとマキの目に入った。 「……まさか……、まさかあんた……!」  マキは携帯電話を取り出した。電話をかける。何度もコールが鳴るが、彼は出ない。  マキは車のドアをこじ開けるようにして、車に乗り込んだ。赤子をゆりかごごと、無理矢理助手席に乗せて、エンジンをかける。不安定なかごの中で、赤子は小さく泣き出した。 「……待ってろ。お前の母さんを探してやる」  マキはアクセルを踏み込んだ。彼がどこにいるのか、全く知らない。けれど、動き出さずにはいられない。 「とっ捕まえてぶん殴る」  まるで学生の頃に戻ったように、ふつふつと、怒りに似た感情が湧いて出る。胸の底にべったりと張り付いた不安と焦燥感が、マキをがむしゃらに走らせた。何度も何度も、電話をかけ直しながら、マキはアクセルを踏み続ける。  数十分が経ってから、やっと、彼は電話に出た。 「…………お前から連絡するなと、約束したじゃないか」 「……っ、あんた今どこにいんだよ!」  マキの声は、自身で思っていたよりも震えていた。焦りや不安、怒りや嫉妬に、今にも押しつぶされそうな声だった。 「…………憎らしいだろう、あの子は」 「……あんた……っ!」 「憎らしいことに、愛しくてたまらない」  マヒロはそう言った。声は変に落ち着いていて、気味が悪かった。 「……っ、どこにいんだよってきいてんだろうが!」 「…………海だ。今日は月もない、真っ暗な美しい空だ」  海。海だって?  マキは唐突に、いつかのマヒロとの会話を思い出していた。  「4月の海は寒いだろうか」と、彼はそう言った。当然のことを、珍しく尋ねてきた。  あのときは、何を言っているのかと、不思議な冗談を言うものだと、その程度に考えていた。  冗談じゃない。だって、そんな。 「……っ、待ってろ! そこで! 動かずに!」  大声をだしたら、助手席の赤子が大きな声で泣き出した。 「…………そうか。チトセも一緒なんだな」  マヒロが、心底安堵したような声で言った。  チトセ。その愛おしそうに吐かれる三文字が、憎かった。 「……やはり、お前は優しいな、マキ。……お前なら、きっとその子を放っておかないと思った」  マヒロの鈍感さと能天気さに、マキは久々に腹が立った。この男は、どうしてこうも、人を過大評価するのか。どうしてそんなにも、こんな醜い男を信用できるのか。 「なにがお前ならだよ! 俺は、……俺は殺してやろうと思ったよッ! 地面に叩きつけて……、殺してやろうとしたんだ……ッ!」 「だが、お前はチトセを殺さなかった」  マヒロは淡々と言った。マキは言葉を詰まらせる。 「……っ、だって、こいつ、こいつ、笑ったんだよ……っ。あんたにそっくりだ。あんたに……よく似てる……あの目で……」  マキは車を海の方角へ走らせる。彼がいるのがどこの海なのか、そんなものはきかずとも分かっていた。きっと彼は、決めていた。だから、彼は自分に、あんな何でもない思い出話をしたのだ。  彼がいる場所まで、ここからは、そう遠くない。がむしゃらに車を走らせる中で、気付かないうちにその方向へ向かっていたようだ。何か運命のようなものが、自分の手を引いているかのようだった。 「……マキ、頼みたいことがある」 「……なんだよ……っ」 「チトセを頼みたい。……その子は、ウチではもう死んだことになっている。お前が育ててやってほしい」  マキは車のアクセルを更に踏み込む。車は、信号のない田舎道を延々と走り続けている。 「……あんたが、あんたが育ててやればいいだろう……。どうして、なんで俺が……」 「俺は、育ててやれない。……その愛しい子が、憎くて憎くてたまらない」  マキは目を見開く。それから彼の顔はゆっくりと歪んだ。 「……馬鹿言うな、この子あんたに似てるよ、あんたにしか似てない……、子どもだろ……ッ!」  マヒロは何も答えなかった。  この、大きな耳と長い尻尾を持て余し、黒い髪をべったり額に貼り付けたこの赤子は、マヒロにとって、憎悪の象徴のような姿をしていた。 「…………マキ、好きだと言ってくれないか」  突然呟かれた言葉に、マキは耳を疑った。あの日と同じ言葉。勝手に覚悟を決めたときの、彼の言葉だ。  あの日彼が失ったものは、心だ。それがなんだ、今度は何を失おうとしてるって言うんだ。  マキは絶望に頭が真っ白になった。どこからか、どす黒い感情が湧いて出る。 「あんた、俺を置いていくつもりかよ!」  マキの大声が車内に響き、チトセが突然激しく泣き出した。電話越しのマヒロは、しばらくじっと黙り込んでいた。 「…………置いていくも何も、お前を連れていくつもりは、はじめからない」  心臓がバクバクと音を立てる。感情が入り乱れて、身体を支配する。自分が一体何者かも、うまく分からない。 「……マキ、俺の最期の願いだ。お前はただ、たった一言、言葉を放つだけでいい」 「わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇ!」 「……マキ、俺の言うことを聞いてくれ……」  マヒロの声は震えていた。等間隔で聞こえるノイズ音は、波の打ち付ける音だ。  マキは車を走らせる。何かに引きずられるように坂道を登り、無我夢中で暗闇の中を走る。 「……俺はお前が好きだった。お前だけが、俺を真っ直ぐな目で見てくれた。誰にでも心から優しくて……あまりに優しくて、そんなお前がたまらなく愛おしかった。…………好きだった。愛していた。もっとお前と、いろんな話をして、分かり合って、同じ時を過ごしていたかった」  マヒロが、一歩進み出て、その真下を見つめた。黒い波の打ち付ける音がする。空も海も真っ黒で、まるでマキの瞳のようだと、彼は思った。 「…………マキ、俺はお前を愛していた。ずっと、お前だけを…………」  マヒロの頬を涙が伝う。その時、突然ばっと眩しい光に照らされて、金の瞳が輝いた。 「……っ、マヒロ先輩ッ!」  電話越しでない声に驚き、マヒロは振り向いた。赤子を抱えたマキが、そこに立っていた。 「好きだ……ッ! 愛してる……。誰より、……っ、この世界のなにより……っ!」  息を切らして、マキは叫んだ。 「行かないで。ずっと俺の側で笑ってて……。マヒロ先輩の笑った顔が、俺は何より好きなんだ。マヒロ先輩が笑ってくれるから、俺は笑って生きていられるんだよ……」  マヒロは、形容しがたい感情が、自分の中から溢れ出て来るのを感じた。今すぐにでも、マキを抱きしめてしまいたい。この気持ちを伝えるのに、自分の拙い言葉では間に合わない。……抱きしめられたら良かったのに。 「……マヒロ先輩が、好きだ…………ッ」  震える声でマキは言う。マヒロはマキと真っ直ぐに向き合って、優しい声で呟いた。 「………………俺も、お前を愛していた」  マヒロは心底嬉しそうな顔で微笑んだ。まるで、昔のマヒロに戻ったかのような、柔らかく、不器用で、温かい笑顔。マキの瞳から、涙がこぼれ落ちる。  マヒロは、崖の淵を一歩引き下がった。マキがマヒロに二歩詰め寄って腕を上げる。マヒロは静かに微笑む。マキの足が、腕が、マヒロを目指して無秩序に動く。 「…………また会おう、マキ」  マヒロの姿が、黒い海に吸い込まれていく。手を伸ばす。金の月が、黒い海に沈んでいく。 「…………マヒロ先輩ッ!」  とぷんと微かな音がして、海はマヒロを呑み込んだ。今日は空も海も真っ黒で、境界線さえ分からない。  風は強く吹き荒れていた。 「バカ……ヤロ……………」  波が砕け散る音が聞こえる。どれだけ目を凝らしても、マヒロの姿は見えなかった。黒い海だけが、そこにある。 「………………あんたが居なきゃ、俺は、心から笑って生きていけねぇんだよ……」  ああ、飛び込みたい。もう、もういいんじゃないか。この人生、きっとこれからもこんなことだ。  マキが地べたに崩れ落ちると、チトセがまた泣き出した。必死で何かに手を伸ばす姿が、見るに堪えない。 「……勝手だ……勝手な人だ……。最低だ……ッ」  赤子を抱えて、マキはその場にうずくまった。ぼろぼろと涙を流しながら、腕の中の、愛した人の忘れ形見を、強く強く抱きしめた。 「あんたなんか……、大嫌いだ…………ッ」  この黒い海に、日はまだ昇らない。

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