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ナマケモノとタカ 第二章 第六話

ナマケモノとタカ編  第二章 第六話「分かっているんだろう」  「おはようございます」 「……ああ、おはよう」  マキはぐっと伸びをしてから、脳を叩き起こすかのように、軽く頭を振った。 「何食べますか」 「…………ごはん」  マヒロとの生活は、思っていたよりも順調に一週間が過ぎた。この胸を包む満足と安心が、穏やかな日々がいずれ終わるという現実と、その恐怖を覆い隠していた。 「……電話鳴ってるよ」 「…………ああ、無視していい」 「いや、………うん、いや、いいならいいんですけど」  昔のようにマヒロの行動を制限したり束縛したりしなくなったあの男に、喜べばいいのか怒ればいいのか分からず、マキは微妙な表情を浮かべた。 「……どうせ碌な用ではないし、きっともうかかってこない」  マヒロは穏やかな声でそう言った。電話はすぐに止み、彼の言った通り、再びかかってくることはなかった。 「生きてさえいれば、俺がどこでどうしていようが、どうでもいいんだろう。…………俺だって馬鹿ではないと、あの人も分かっているようだ」  冷笑を浮かべて、マヒロは目玉焼きと米を口に含んだ。マキは動きを止めて、彼の顔をじっと見た。 「……あんた、そんな笑い方するんだ」 「なんだ」 「いいや。……家の話をするとき、マヒロ先輩って嫌な顔で笑うからさ」  マヒロは一度瞬きをして、目を伏せた。  マキは、彼をそういう笑顔にしかさせられない、マヒロの家の男どもを呪いたくなった。それから、呪うことしかできない自分の不甲斐なさに俯いた。 「……無理して笑わなくてもいいんだよ。自分を、他人を、嘲笑わなくてもいい」  マヒロは困ったような顔をした。マキは、また自分が間違えたのだと気が付いて、はっとした。 「あっ。……ごめん、嘲笑ってるっていうか……、いや、それが悪いことだって言ってるんじゃなくって……」 「いや、いい。お前が正しい。俺は自他を嘲笑うことで自分の境遇を憐れんでいるに過ぎない」  また卑屈なことを言っている。マキは、自分の胸を指の先でするりとなぞって、目を伏せた。 「……そうだ、外行きませんか?」 「……外か。…………そうだな、今日は気分がいい」  マヒロはいつもの穏やかな顔でそう口にして、窓の外を眺めた。そこに浮かぶ柔らかな表情に、マキはほっとして、また箸を動かし始めた。 「…………あれ、携帯鳴ってる?」 「……ん? あぁ…………」  マヒロはそばに置いていた携帯を持ちあげる。しかし、その携帯を確認しても、メールや着信の履歴はなかった。 「あれ、先輩のじゃない? 俺のかな……」  マキは机の上に置いた自分の携帯を確認する。画面を開き、何もないことを確認してから、再びマヒロを見上げると、彼は真っ青に血の気の引いた顔をしていた。 「……先輩? ねえ、ちょっと、マヒロ先輩!」 「……マ……」  開きかけたマヒロの口が、すぐに閉じられる。マヒロは口元を手で押さえて、背を丸めた。 「お、い……大丈夫? 先輩、先輩……!?」  マキは慌ててマヒロのそばへ近寄る。マヒロはうまく呼吸さえできずにいた。  その様子は、マキにも心当たりがあった。肉食の獣人(にんげん)にちょっかいをかけて、散々な目に合わされたとき。肉食の先生に、少し強く怒鳴られたとき。その鋭い目に、見据えられたとき。息は乱れ、口を閉じ、地に膝をついて、頭までもを垂れたくなるような、そんな状態。  愚かだ。本来支配する側でありながら、彼は、連絡のたった一本で、姿も見えない獣人に怯えている。生態系の頂点に立つはずの男が、まるで、一匹のウサギのように。  なんて様だ。あんたは、そこまで――。 「……おい、俺を見ろ!」  なるべく強い言葉で、マキはマヒロの意識を自分へ向ける。マヒロはバッと勢い良く顔を上げて、マキの目を見つめた。 「……そう……、そうです、それでいい……。大……丈夫……?」  マヒロはまっすぐにマキを見つめたまま、ゆっくりと深い呼吸を繰り返した。肉食獣の金の瞳に捉えられ、マキは背筋がすっと冷えたが、それでも彼のため、目を離すことはしなかった。 「…………マキ……」  マヒロは一つ呟いた。マキはやっと目を閉じて、長く息を吐いた。  「大丈夫かよ、先輩」 「……マキ」  マヒロはぽつりと言った。マキは、マヒロの横たわるベッドのそばにしゃがみこむ。 「すまなかった」 「何が?」 「外に行きたがっていただろう」 「……別に、あんたが悪いんじゃないだろ」  マキは呟く。マヒロは小さく眉をひそめた。 「でも、倒れるなんて、身体弱くなったんですか?」 「……そんなことはない」 「じゃあよっぽどストレスなんだな……」  マキはぼんやりとそう言った。少しして、マヒロが慌てた様子で上半身を起こす。 「……お前ではない」 「……え、何が?」 「マキは……、マキといると、俺は満ち足りた気持ちになる」  マヒロは、胸のあたりに手を当てて、その手をわたわたと振りながら話す。  マキはきょとんとして、首を傾げた。マヒロはベッドの上に座り直し、指先でシーツを掴んだ。 「……マキといることは、ストレスではない」 「はは、あんたね……。分かってるよ、そんなこと」  マキは目を伏せ、そっとマヒロの手のそばへ指先を滑らせた。 「……俺といることが、あんたにとってどんなことか、分かっていて、俺はいる。これくらい、許されたっていいんじゃないかって思って。……ほんとにさ、何年経っても、俺はあんたに酷いことばかりしちまうんだよ」  大人なのにと、マキは子どものようにくすくすと笑った。マヒロはマキをじっと見つめて、呟いた。 「……なあ、マキ」  呼びかけられたマキは、すぐに目線をマヒロに合わせる。 「…………お前が覚えているか知らないが……、昔、海に行っただろう」  マキは目を瞬かせる。 「……誰と?」 「マキと」 「……行った?」 「行った。部活のバスで」 「じゃあ『俺と』じゃなくて、『部活で』って言ってくださいよ。……そういえば行きましたね」  確かに、昔、部活の合宿で、海のそばまで行った。青い海を見下ろせる崖の上で、海風にふかれて、彼の金の瞳が、太陽よりも眩しかった。 「綺麗な海だったな……」 「そうですね」 「お前との思い出は、どれも俺の宝物だ。俺はここで覚えている。……きっと全てだ」  マヒロは胸に手を当て、それ以上は、何も話さなかった。会話にすらなっていないが、彼としては、もう既に色々喋ったつもりなのだろう。 「……行ってみますか、海」 「…………どこの」 「分かるでしょ話の流れで。その部活で行った海ですよ、ここからそんなに遠くないし」 「真冬だぞ」 「いや、泳ぎませんよ? 別にいいでしょ、海見るだけってのも。冬の海ってきれいですよ」  マキはそう言って、携帯を手に取る。 「ほら、電車ですぐだって」  マキは携帯の画面をマヒロに見せる。マヒロは首を振り、微笑んだ。 「……俺はここにいたい」 「……いたらいいだろ」  マキは、まるでマヒロを遠ざけたいかのような言葉を選ぶ。マヒロはしばらく俯いて、それからゆらりと顔を上げた。 「なあ、マキ」  突然、マヒロはマキに手を伸ばした。本能的に、マキはびくりとして目を瞑る。  マキの肩に、マヒロの腕が触れた。マキは目を開く。そのまま、マヒロの手のひらは背に回され、マキはぎゅっと強く抱きしめられた。  マキが、ぎょっとして彼を見た。 「……俺はマキが好きだ」  マヒロの声は、いつもと変わらず穏やかだった。  マキは混乱し、口を半開きにして固まった。 「……な、んで……、今、突然そんなこと言うんだよ…………」  マキの声は震えていた。頭で考えていたことが、そのまま口に出ていた。本当は、そんなことはききたくなかった。尋ねれば、答えが辛いことは、分かりきっていた。 「…………好きなんだ、お前が。どうしても……」  マヒロは、マキの質問には答えず、ただぎゅっと力強くマキを抱きしめた。何かに縋るように、願うように、掠れた声を絞り出して、彼は言う。 「…………マキ……っ」  沈黙が流れる。  マキの胸は、バクバクと音を立てていた。ここで言わねば、自分は大切なものを失うと、はっきり感じた。 「……俺はここにいたい。俺は……、お前のそばにいたい……」 「だから……! だからなんで、なんでそんな突然……!」  マヒロは自分の携帯の画面をマキに突きつけた。いつもマヒロが使っている、中古品の携帯電話。もう見慣れたメールアドレス。その受信ボックスには、メールが一件届いていた。 「…………もう、終わる時なんだ」  メールを送ったのは、もちろんマキではない。しかし、このメールアドレスも、携帯電話の存在も、マキしか知らない。知らないはずである。 「マキ」  マヒロは呟く。何も考えられなくなっていたマキの腕を掴み、そのまま胸へと引っ張った。 「……マキ、俺は……俺は、ここにいたい」  マキの顔は歪む。黒い瞳は滲み、手はマヒロの胸ぐらを強く掴んだ。 「…………最低だ、俺には、あんたを俺のものにする方法がないっていうのに……!」 「……方法ならあるだろう。お前はもう、充分分かっているはずじゃないか」  マヒロは自分の首に、マキの手を当てさせた。鋭い爪が、マヒロの白い首に触れる。 「……俺をお前のものにしてくれ」 「……っ、俺が、あんたにそんなことできるわけ無いだろ……ッ!」  マキはマヒロの腕を振り払った。星のない夜空のような黒い瞳がみるみるうちに歪み、雫がぼたぼたと地面に落ちていく。 「……なあ……もう、逃げよう……。俺と逃げよう……。逃げればいい、ずっと……逃げて……」 「……そんなことは、マキにはできない」 「分かんねぇだろ!」  叫んだ瞬間、マヒロはマキの手を掴んだ。マキの身体は反射的にビクリとはねる。 「……マキは優しい。家族のことも友だちのことも、俺のためなら、あの人たちに殺されてもいいとは言えないはずだ」  分かったような口をきくな。俺は何でもする。たとえ、たとえ誰かが死んだっていい。あんたのためならなんだってする。  そんな言葉が言えればよかった。  ただマキの口からは嗚咽だけが漏れ、眼からは、透明な雫がひたすらにこぼれ続けた。 「……これは、俺たちに唯一許された自由だ」  マキは首を振る。  どうしてこうもうまくいかないのか。好いた人に、死を望ませることが愛なのか。たった二十数年の人生で得た、愛おしいたったいくつかを捨てられなければ、他人を愛することさえ許されないのか。  ただ、穏やかに過ごしたいだけだった。放っておいてくれれば、それでよかった。甘い言葉やキスなど、許されなくていい。ただ隣で、この一週間のように、永遠に、穏やかに。ただそれだけあればよかったのに。  それさえ、許されないのか。 「……あんたなんか、嫌いだ…………っ」  マキは子どものように大粒の涙を流しながらそう言った。マヒロが小さく微笑んで、金の瞳をうるませた。 「……そうか」 「出ていけよ……ッ。さっさと帰れ……、帰れ……」 「……マキ……」 「うるせぇよ! 黙って帰れって言ってんだ!」  マキは叫ぶ。マヒロが、泣きながら笑った。 「…………お前が、黙って出ていくなと言ったんだろう……」  マキは目を見開いた。それはまるで、まるで、自分の放った言葉を、そのまま受け取ったかのような顔だった。  マキは一つ瞬きをする。  分かっているんだろう。あんたは大人なんだろう。これが、これが優しさ故だと、あんたは分かっているんだろう。 「………………まっ、て……。待って……ッ!」  マキはマヒロの腕を掴んだ。玄関扉に手をかけていたマヒロが振り返る。 「……分かってくれよ…………」  マキは呟いた。マヒロは微笑む。金の瞳の縁が緩やかに解けて、月のかけらがマキの腕に散った。 「……分かっている」  マヒロは掠れた声で呟いた。  分かっている。分かっている。  彼は分かってくれている。そんなことは分かっている。  けれど、飲み込んだ言葉が、マキの胸をざわつかせる。これでいいのか。これが正解か。――じゃあ、どうすれば良かったんだ。  閉まりきった扉の前で、マキは項垂れた。膝をつき、扉に手を当て、頭を擦り付ける。 「…………好きだよ…………」  マキの手は、苦しみ縋るように、かたい扉を引っ掻いた。

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