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ナマケモノとタカ 第二章 第五話
ナマケモノとタカ編
第二章 第五話「薪と万尋」
マヒロは次の日も、マキの家にいた。朝、目が覚めたらもういないのではなかろうかというマキの少しの不安など圧し折ってしまうように、間抜けな顔をして、すやすやとベッドの上で眠っている。
「……あのマヒロ先輩の起きるのが俺より遅いって、どうなってんだよ……」
マキは今日も、いつも通り、朝起きてから意識が完全に覚醒するまで一時間ほどを要したが、それでもマヒロのほうが起床が遅いとは。
「……起こすのは可哀想かなぁ」
マキはそう言いながら、無防備な寝顔を控えめに見つめた。土や虫と戯れているほうが性に合っている様なこの人には手に余る、美しい顔だ。マキはそろっとマヒロに近づいた。この人が寝ているところを、出会ってから初めて見た。
朝食の用意をしていたら、マヒロがのたのたと起きてきた。彼は目をしばしばさせながら、まだ眠そうにマキを見る。彼が自分の部屋着を着ているのを見ると、マキはなんとも言い難い高揚感を感じた。
「おはようございます、随分遅かったですね」
「……すまなかった。だが、久しぶりによく眠れた」
「そりゃあよかったです。飯食いましょ。パンでいいでしょ?」
マキが尋ねると、マヒロは小さく頷いた。
二人は、テーブルを挟んで向かい合う。マキはマヒロの寝癖がひょこひょこ揺れるのを、なんとなく見ていた。
「…………今日も、泊まってもいいだろうか」
「……あんたなんかあったの?」
反射的に、マキはそうきいてしまった。そして、気になること、思ったことがすぐに口に出てしまう自分の癖を恨んだ。
「……ごめ、やっぱいい。ごめん」
マヒロの戸惑った表情を見て、マキはすぐに謝った。それから、なんだかおとなしく止まっていられなくなって、トーストにマーガリンをぬりながら言った。
「…………いいよ、あんたが居たいなら、好きなだけ居て」
マヒロは、しばらくマキを見つめていたが、やがて目を落とした。いただきますと声に出し、食パンを口に運ぶ。
「マーガリンいらない?」
「このままで構わない」
「ジャムは? 弟の手作りのやつあるけど」
「いい。甘いものは、あまり。…………お前の弟も料理が得意なんだな」
「料理と裁縫が特別好きだって言ってた。ま、トキはなんでもできちゃう器用なタイプだから、俺と違って基本何でも得意ですよ」
マキの話を聞きながら、マヒロは食パンをかじった。香ばしい香りが鼻に抜け、優しい味が口いっぱいに広がる。
「……お前とはあまり似ていないのだな、弟は」
「あ、失礼な人。……まあ、アイツとは種族から違いますしね」
「俺の兄たちも、俺とは似ても似つかない人たちだった。自信に満ち溢れていて、頭が良くて、器用な人たちだった。……父や周りの人からも、随分可愛がられていた」
マキはスープを啜りながら、マヒロを見上げた。
「俺にとっては、マヒロ先輩も、自信に満ち溢れていて頭のいい、尊敬できる先輩でしたけどね」
「器用でないというのは否定しないのか」
「不器用なところもご愛嬌ってやつでしょ。完璧なんて面白くないし。家事音痴も方向音痴も、あんたのかわいいところでしょう」
マキはなんでもない顔で言った。マキの言葉に、嘘はない。マキは、ただ思ったことをそのまま口にしただけだった。それはわかってはいたが、マヒロはやはりなんだか照れくさくて、少し頬を染めながら、無理やりスープを胃に流し込んだ。
「……うまいな、このスープ」
「そうでしょ。俺の手作りですからね。まあ、レシピ通りやっただけなんですけど」
他愛のない会話と、落ち着く空気が、部屋に揺蕩っている。この時間が、なんとも心地よい。
「ニュースとか見る?」
「……暗いニュースは、あまり見たくない」
「じゃあなんか別のにしよ。録り溜めてる俺の好きなドラマ見る? てか、マヒロ先輩ってドラマとか見るの?」
マヒロは首を振る。思っていた通りの返答に、マキは苦笑した。
「マキはドラマをよく見るのか」
「うーん、まあ、それなりには。……恋愛系はもう見ませんけどね。なんだろう、嘘くさく見えちゃって」
「…………そうか」
マヒロは無表情のままだったが、マキと視線が合わなくなった。おそらく、何かしら負い目を感じているのだろうとマキは思った。全く勝手でてきとうな人だ。
「……あ、漢字の番組やってる。珍しい」
「漢字か。懐かしいな」
イーストシティには、ヒト族の国である日本や中国などといった国の名残で、名前に漢字表記を持つ文化がある。幼い頃なんかは、自分の名前に付けられた漢字について、誇らしげに話したりするものだ。
「マヒロってどう書くんですか」
「ああ、確か……、数字の万に、尋ねると書くんだったか……」
「覚えてないの?」
「父に一度聞いたことがあるだけだからな」
確かに使う機会などほとんど無いが、それにしても、普通に生きていれば、本人が忘れそうになるほどのものではない。マキはため息をつき、シタシタと短い尻尾を跳ねさせた。
「あんたの父親最低だな」
「……そう言うな。あの人も、シラトリ家の跡継ぎとして、不自由をして生きてきた人なんだ」
マキはマヒロが父を擁護することに納得がいかないのか、何か言いたげな顔のまま口をもごもごさせていた。
「……お前は、お前の『マキ』はどう書くんだ」
「薪ですよ、薪。横縦縦……、えっと、そう、草冠に、新しいって書くあれ。たきぎのこと」
「ああ、それはお前らしい、いい名前だな」
そうですかね、とマキはまたもや納得のいっていない顔をしていた。
「薪って、木の切れ端じゃん。燃やされるし。どうせならもっとかっこいい漢字が良かったな」
「お前は、誰の心も暖かくする力を持っているだろう。誰からも好かれていて、必要とされている。俺は、薪という漢字は、お前に適切だと思うが」
「……そうですかね」
「少なくとも、俺にはそう思える」
マヒロがそう、あまりにも真剣な顔で言うので、マキもだんだん薪という字に愛着がわき始めた。まあ、そんなに悪い漢字ではないのかもしれないと、心の中で考える。マキは単純な男だった。
「トキは『刻む』って書くらしいですよ。俺は難しくて書けないけど。ちなみに一番下のは『幸せ』って書いてユキなんだって」
「それはいい名前だ」
マヒロはそう言い、もう冷めてしまったスープを飲み干した。手を合わせ、皿をすべてシンクに持っていき、水に浸けてから椅子に戻ってくる。
「……思い出したが、万人を包み込む人になってほしいと、母が付けたそうだ」
「…………あ、マヒロ先輩の名前の話?」
「尋という字は、両手を広げた長さを表すらしい。母から直接聞いたわけではないが、父がいつかそう言っていた」
「いい名前じゃないすか」
マヒロは嬉しそうに小さく笑った。マキはふと考え込むように顎に指を当てると、それからへらっと笑った。
「俺は、あんたの自由を願って付けられたのかと思った」
「自由を?」
「……両手を広げた長さだって聞いたとき、なんか鳥が羽ばたいていく姿を想像したから」
テレビは、延々とイーストシティの漢字文化の歴史を語り続けている。マヒロが、マキの言葉に驚いた顔をしていた。その解釈は、なぜか、心にすとんと収まるような心地がした。
シラトリに若い時間を奪われ、囚われ、虐げられて死んでいった、母。そんな彼が付けた、「万尋」という名前。
「……それは、真意を母にきいてみたかったな」
「もうきけないんですか」
「ああ。俺が幼い頃、病気で死んだ。元々、身体の弱い人だったらしい」
マキは、マヒロが本当に長い間、たった一人で戦い続けていたのだと理解した。
「…………マヒロ先輩のお母さんなら、きっとすげえ綺麗な人なんでしょうね。マヒロ先輩って、なんていうか、イケメンだし。ガタイよくて、こう、綺麗めかっこいい系っていうか、ね」
マキは笑う。マヒロはそれに笑い返すことはしなかったが、穏やかな顔でテレビの画面を見つめていた。
テレビは、子どもの名付けの話を始めた。人気の漢字がなんだ、古風なのはこれだと騒がしい。マキはテレビの番組表を眺めながらマヒロに尋ねた。
「……今日、俺休みですけど、どこか行きますか?それともここに居る?」
「……あまり、動きたくない」
「体調良くないんですか?」
「…………最近は、少し疲れやすいんだ」
そうですか、とマキはテレビを消した。特に気になる番組もやっていないのに、マヒロがいるこの時に、わざわざ見る必要もない。
テレビの下にあるカゴを漁りだしたマキを、マヒロが上から不思議そうな顔で覗きこんだ。
「……マヒロ先輩て、ゲームしたことあります?」
「…………ない」
「マジで? ね、一緒にやりましょうよ。今俺がハマってるのがあって」
マキはゲーム機を取り出して、子どものように笑った。その顔のまま、マヒロにコントローラーを押し付ける。
「……どっちが多く勝てるか勝負しましょう」
マヒロは少しの間沈黙していたが、やがて小さくにやりと笑った。
「……俺に負けたら、お前はとんだ恥さらしだな」
コントローラーを受け取ったマヒロは、得意げな顔でソファーに座り直した。そのいきいきとした横顔が、懐かしく、あまりに愛おしかった。
「…………あんたのそんな顔、久しぶりに見た」
「……どんな顔だ」
マヒロが眉をひそめるのも気に留めず、マキは嬉しそうに頬を紅潮させて、テレビ画面と向き合った。黒い瞳が輝いていた。
「……あんたはそうでなくっちゃな」
マヒロは、自分に自信がない、自分は落ちこぼれだと自嘲するが、マキにはいつも、マヒロが自信に満ちた人に見えていた。それはきっと、自分の目が若かったことだけが理由ではないはずだ。
「…………お前といると、何も怖くないようだ」
そう呟いたマヒロの、キラキラと光る金の瞳は美しかった。マキは思わず、マヒロのことを見つめて言った。
「………………ずっと居たっていいんだぜ」
マキの言葉に、マヒロは少し微笑んで、それから俯いた。
「それは無理だ。俺には、もうその権利がない」
権利ってなんだよ、とマキが口に出す。本当に、マヒロといると、自分が惨めで情けないものに見えてきて仕方ない。
「……あんたが、自由だったらなぁ」
マヒロは何も言わず、ただ困ったように俯き、月のような瞳に影を落としていた。
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