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マングースとハブ 第二話

マングースとハブ編  第二話 「取り憑く」  ジェカは、いくらはね退けてもヤトの前に現れ続けた。朝の登校、昼休み、放課後。ヤトが今まで一人でいた全ての時間、ジェカはヤトの隣でうるさく騒ぎ立てた。 「ヤトくん、今度の休み、ちゃんと空けてるよね」 「……知らない」 「図書館に行くんだからね! 約束したでしょ」  ヤトは何でもないふりをして、机に震える肘をつき、顎で押さえつけた。  ジェカは、知れば知るほど不気味な男だった。  外から見たジェカは、温厚な性格で、愛想があり、顔もどちらかといえばかわいい方だ。彼が人気者であることに、特段違和感はない。しかし、ジェカという獣人(にんげん)の、確かな狂気の片鱗を見てしまったヤトにとっては、その状況が恐ろしかった。  彼は、周囲の状況を把握し、自分の良いように事が進むよう発言と行動を調整する能力に長けている。強い獣性を持ち、その牙をちらつかせるだけでも、人を支配できるほどの力がある。まともな獣人であれば、まずジェカに逆らおうなどという気は起きないだろう。しかし、それを隠すのがまた上手い。それ故に、ジェカは人気者なのだ。  人の心を握り、思うがままに操るその姿は、まさに悪魔と言えよう。 「皆はヤトくんを誤解してるんだ。ホントはすごくイイ奴なのに」  それほど注意深く獣人を扱っていた彼が、今、周りのことなど少しも気に留めず、ヤトに近付いてくる。その姿には、悪意も作為もまるでない。ヤトは、どのように彼と接すればいいか分からなくなっていた。 「皆、俺がハブだから近寄らないんだ。誤解でも何でもない」 「誤解だよ。ヤトくんは悪い噂もあるしハブだけど、どんなに腹が立っても俺に牙を突き立てたことがない。とっても優しいんだよ」  ヤトはジェカの言葉にため息がこぼれた。突き立てたことがないのではなく、突き立てられないのである。あの瞳に見据えられて、攻撃しようなどという気が起きるものか。  いくら狂気を知らない平和な頭とはいえ、クラスメイトがジェカに普通の顔で接していられる理由が分からない。この男の放つ圧は、まさに獰猛な肉食獣のそれで、これほどまでに近付きがたいというのに。 「あ、そうそう図書館のあとなんだけどさ」 「断る」  はじめから断られるのが分かっていたのか、ジェカはなんでー? とさほど感情のこもっていない声で言った。 「用事がある」 「どんな?」 「何でもいいだろう」 「やっぱり暇なんじゃなーい?」  ジェカはニマニマと揶揄うように笑った。ヤトは小さく眉をひそめる。このジェカという男が、ヤトはとにかく苦手だった。悪意の感じられない悪人ほど怖いものはこの世にない。  近寄りたくない。離れていたい。それなのに、彼はこちらへ寄って来る。まるで、肉食動物に遠くからつけられている獲物のような心地だ。 「……お前こそ、いつもクラス最下位のくせに、来週のテスト勉強はいいのか」 「俺は就職するからテストの成績なんて関係ないもん。ヤトくんはなんで勉強すんの? 進学するの? 進学コースだもんねぇ」 「バカでも人に好かれるお前と違って、頭で人の上を行くしか、俺には生きる道がないからな」  ヤトは厭味ったらしく言い放ったが、ジェカは気味悪くにこにこと笑うだけで、その態度に怒りもしなければ、可哀想にとヤトを哀れみもしなかった。ただ、にこにこと微笑んで、俺って人気者だもんねと言う。それから、ゆっくりとした動きでヤトの顔を覗き込んだ。 「……ヤトくんなら、顔でも食べていけるんじゃない?」 「……それは、俺に泡に沈めと言ってるのか?」 「泡? ……えっ、やだなぁ。俺そんなこと言ってないじゃん。モデルとかアイドルとか、そういうことだって。ほら、ヒト時代みたいに、そういうエンタメもこれから盛り上がるかもよ? ヤトくん、すごく綺麗な顔してるからさ」  ヤトの頬に手を触れたジェカは、またにこにこと笑った。ヤトは顔をしかめ、その手を押し返した。 「……そういうお前は乙って感じだな」 「オツ?」  わかりやすく首を傾げたジェカを見て、ヤトはふんと小馬鹿にしたように笑った。 「……あっ、もしかして甲乙丙のオツってこと? ねえ、俺の顔が良くないって言いたいの?」 「可もなく不可もなくってところだろ」 「あーもう、褒めるんじゃなかった。ヤトくんって自分が美人ってわかってんだ。やーな奴!」 「自分がどのくらいの人間か、自分が一番分かるからな」  自分は忌み嫌われるハブだが、間違いなく顔だけは美しい。これは、ヤトが今まで生きてきて、確信したことだった。 「……俺は自分の価値が分かっている。だが、それを踏まえた上で、俺はお前が俺に話しかけてくる意味が分からない」 「だって友達になりたいんだもん」 「もんとか言うな、気持ち悪い。よくその顔でそんな喋り方ができるな」 「あは、ヤトくん人を罵ることになったら饒舌だねえ。そんなだから友達いないんじゃない?」 「……そんなものいなくても困らない。放っとけ」 「俺はそういうところ好きだけどね」  可哀想で。  ジェカは貼り付けた完璧な笑顔を一ミリも崩すことなく、柔らかな声音でそう言った。ヤトは驚き、それからしばらく固まっていた。 「……お前、嫌な奴だな」 「ふふん、実はヤトくんくらい歪んでるかもね」  なんちゃって! と高らかに笑うジェカに、ヤトは、ジェカから離れるために自分が無駄な努力をしているように感じた。 「…………ヤト」  ヤトが気だるげに呟いた。ジェカはあざとく、こてんと首を傾げる。 「ヤトだ。ヤトでいい。気持ち悪い呼び方するな」 「えええ!? いいの?」 「いいのもクソもないだろう。ヤトくんヤトくんって気持ち悪ぃんだよ、ガキじゃねぇんだぞ」 「嫌な奴って言った直後に仲が進展するの変じゃない? ヤトくんってドエムなの?」 「お前との仲を進展させたわけじゃねぇよ。その呼び方が気持ち悪いんだって。…………けど、まあ」  ヤトは俯き、静かに呟いた。 「お前のことじゃねぇが、嫌な奴のほうが、結局信用できるってのは、あるかもな」  ジェカはニコニコ笑って、ヤトの言葉に大きく頷いた。 「俺もそう思う。だから君が好きなんだ」  ジェカの言葉は嘘だらけだ。けれど、この言葉だけは、まるで本物のようにヤトの心に染み込んだ。  広い公園に隣接している、古い図書館。百年戦争より前からあるというこの図書館は、サウスシティいちの蔵書数を誇る、サウスの知識の顔である。本の中には、ヒト時代のものも残っており、それらは貴重な資源として大切に保管されている。  その図書館で、ヤトは窓辺の席に腰掛け、ぺらぺらと本をめくっていた。 「ねえ、そこの美人さん」 「……」 「無視?」  腹の底がゾワゾワとして、鳥肌の立つような声。ヤトは振り返り、その男を睨みつけた。 「……ジェカ」 「ふふふ、隣いーい?」  ヤトは言葉に詰まった。嫌だ。絶対に座らせたくない。が、誰がこの男の言葉を拒否できるだろう。 「失礼しまーす」  ジェカは笑顔でヤトの隣に座った。白いシャツに、サーモンピンクの薄手の上着を羽織り、甘い茶色のズボンを履いていた。その顔でよくピンクなど着れたものだという顔でヤトは彼を見つめたが、何を勘違いしたのか、彼は照れたように笑って、なーに、とだけ言った。 「……自分の顔と服装が合っていないことを自覚したほうがいい」 「うそー、すごい似合ってるでしょ俺」  まあ、彼の明るい髪色には、よく似合う色ではなかろうか。そんなことをほんの少し思っていたら、ジェカは勝手にヤトの読んでいた本を取り上げて、表紙を読み上げた。 「……『ヒト歴史と獣人』?」 「返せ」 「こんな本読むなんて、もしかしてヤト、あのヒト歴史の授業とったの? そんなのどこで使うんだよ」 「……使う使わないとかじゃなくて、俺はただヒト族が好きなんだよ」 「なんで?」  ヤトは目をそらし、本を奪い返した。ジェカといると、どうでもいいことを話してしまう。 「ねえ、なんで!」 「……ヒト族の時代は、良かったんだよ」 「へえ、中二だね」  だから言いたくなかったのだとヤトは顔をしかめる。しかし、どうしても憧れがあった。ヒトは世界を育てた生き物で、強い理性と、高い知性を持った生き物だ。獣人史では悪役だが、それもまた彼らの強大さが成せることだ。 「じゃあ、将来はノウスシティに行っちゃうの?」 「……なんでだよ」 「ヒト族と言えば、やっぱりノウスシティでしょ。魔法師が多いし、ヒト族主義の獣人多いっていうじゃん」 「なんだそれ。行くわけねぇだろ、あんなとこ。お前は魚が好きなら海に住むのか?」  ヤトはそう言って、ジェカを見た。彼は胸に手を当てて、大きく息を吐いた。 「よかったぁ」  ジェカは何故か、顔に深い安堵を浮かばせていた。ヤトが首を傾げていると、ジェカは少し椅子をひいて、頭の後ろに手をやった。 「……んー、どんな本読もうかなぁ……。読みたくないけど、読んでなきゃ変だしなぁ」 「…………図書館に行こうとか言ったのお前だろ」 「違うの! ここの隣にあるでしょ、ショッピングモール! 俺は二人でショッピングがしたかったんだよー」 「……オトモダチにでもなったつもりか?」 「うん。そうでしょ?」  ジェカが当たり前のようにニコニコ笑うので、ヤトは気味悪くなって立ち上がった。 「えっ、どっか行くの?」 「本を戻すんだよ」 「俺も行くー!」  ジェカは無邪気にヤトの背を追った。 「ショッピング行く? カフェでもいいよ!」 「何言ってんだ。返して次の本を借りるんだよ」 「……えええ、違うところに行くんじゃないの?」 「行かない」  ヤトは冷たい声でジェカをいなす。ジェカはヤトの腕にしがみつき、無理矢理ぶんぶんと振った。 「ねえねえ、行こうよぉ。楽しいよ? あ、ゲームセンターが広くなったんだって、行こうよー」 「行かない」 「……じゃあ、お昼まで。お昼まで待つよ。ご飯食べに外に出るでしょ? その後でいいからさぁ」 「…………いや、その後またここに戻る」 「えー。うーん、まあ、君がいいなら、いいんだけど……」  ジェカの声は、全く何一つもよくないと主張している。ここまでくれば、ヤトの方に合わせても良さそうなものだが、彼はどうやら、本気で本が苦手らしい。ヤトは頭をガシガシ掻いてため息をついた。 「…………少し待ってろ」 「えっ? あっ、俺本読めないから要らないよ? うるさかった? もう静かにしてるから、本はいいよぉ……」 「返すんだよ」  ヤトの言葉に、ジェカがえっ、と声をもらした。完全に予想外だったらしい。  ヤトはややぎこちない動きで口を開いた。 「…………行かないのか、ショッピング」 「行く! いいの!? やったぁ!」 「うるさいな、静かにしろよ」  えへへと笑ったジェカは、まるでお願いの叶った小さな子どものように見えた。  ショッピングモールへやってきたジェカは、入店の瞬間から今まで、終始上機嫌だった。何かめぼしいものを見つけてははしゃぎ、ヤトに五つほど言葉を投げかけて次の場所へ移っていく。同じような言葉と行動を繰り返す彼を、ヤトは呆れ顔で見つめていた。一体何が楽しいのか、ヤトには理解できない。 「見てよヤト! 君に似合いそう!」 「……そうだな」 「……見てないじゃん。てきとうだなぁ。……まぁいいけどね」  ジェカは手に持っていた服を元の位置に戻すと、また歩き出した。ヤトは静かにジェカについていく。  何も面白いものはないし、彼はこれでもかというほどうざったい。ヤトは、やっぱり来るんじゃなかったと後悔した。  ため息をつき、ジェカから目を離したその時、ヤトは見覚えのある男を見つけた。ヤトにしては珍しいことだったので、思わず、その男を目で追ってしまった。 「……あれ……」  ヤトは目を瞬かせる。そうして、確信した。  途端、ジェカに向かい合っているときのように、少しも身動きが取れなくなった。息が止まる。 「ヤト? どした?」  ヤトの様子がおかしいことに気がついたジェカは、すぐにヤトに声をかけた。しかし、ヤトは、それが自分に対しての呼びかけであることさえわからない程に、気が動転していた。  なぜここに彼が? これは偶然か? こんな場所にいるはずないのに、だって、そんなはずは。  ヤトは自分の胸ぐらを掴んだ。心臓は震え、息が乱れる。――目を合わせるな。目を、目を。 「はあ……っ、はぁ……っ」 「ねえ、ヤト、大丈夫?」  ヤトが一歩引き下がったとき、店員と話していた男が突然、こちらを振り向いて、目があった。 「……あ……」  突然、頭を殴られたかのように脳に衝撃が走り、足元がふらついた。走馬灯のように、脳内をちかちかと、近くも遠い記憶が走り抜けて行く。頭を押さえたその直後、ゾワゾワと身体が疼いた。 「は……、あ……」 「……ねえ、甘い匂いがする」  すんすんと鼻を鳴らして、ジェカがヤトに顔を寄せた。ヤトは、ただ混乱した様子で突っ立っている。 「あ……あ……」  この感覚に覚えはなかった。ただ、強い恐怖と同時に、何か不思議な興奮を感じる。息を吸って吐くことでさえ、腹の奥を燻らせる。  思考が鈍る。寒気にも似た、神経を撫でるような柔らかい刺激。  大衆の視線が集まる。羞恥と混乱で、顔が赤く染まる。 「……嫌だ……嫌だ……、なん、で……」 「……っ、ヤト!」  ジェカがヤトの腕を力いっぱい引いた。その瞬間、ヤトはようやくハッとしてジェカを見た。ジェカは酷く真面目な顔でヤトを睨んだ。 「何考えてるの、馬鹿!」  何を考えているのかなんて問われても、自分でも訳がわからないのだから答えようがない。視界はぐるぐると回り、ヤトはふらついた。 「大丈夫か?」  ふらりと吸い寄せられるように、一人の男がやってきた。男は、ヤトに手を伸ばす。その手を、ジェカが勢い良くはたき落とした。 「触るな」  ビクリと固まる男と、ヤトを気にしながらも、ジェカの圧力におびえて遠ざかっていく野次馬。ジェカは頭を押さえて目を瞑る。 「…………止めて。ヤト、フェロモン止めて」  ジェカの表情は不機嫌そうに見えた。焦ったようにヤトの肩を掴んだジェカの腕に、強く力が入る。ヤトには、ジェカが一体何に対して怒っているのか分からなかった。 「……わかんな、……なにが、どう……」  ヤトは途切れ途切れに呟く。呼吸さえままならなくなり、とうとうヤトはジェカにしがみついた。 「ジェ、カ…………」 「……分かった。……背中乗って。ここ出るよ」  ヤトは言われるがままにジェカに身を預ける。やけに頭がぼんやりとしていて、身体が熱い。ジェカの匂いを、より近くで感じるような気がする。 「……たすけて……」  ヤトの声に、ジェカが眉をひそめた。 「…………お前は本当に悪い奴だな……」  ジェカの声が遠くで聞こえた。

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