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マングースとハブ 第五話

マングースとハブ編  第五話「ジェカ・フルーレ」  随分日差しが強くなり、夏がぬるりと訪れた。教室の外では、セミがジワジワと鳴いている。体温調節の苦手なヤトにとっては、かなり苦痛の多い季節である。 「ねえ、遊園地行こうよ!」  大学部に進学するための受験を控えた教室内。一限目の小テストに備えて勉強しているクラスメイトたちは、鬱陶しそうな目でちらっとジェカを見た。 「受験前だ」 「いいじゃん! 一日だけ!」 「その一日がどれほど大事か分かってんのかお前」 「ねーえー! おーねーがーいー!」  ジェカは、床にしゃがんだまま、ガタガタとヤトの机を揺らす。ヤトは単語帳をじっと注視したまま、眉をひそめた。 「気持ち悪いなお前……」 「おねがい! ね? ね!? いこーよー!」 「うるさいな……静かにしろ」 「もー……」  彼はヤトの腕を掴むと、にやりと笑った。 「……行くだろ、ヤト」  ヤトの瞳が揺らめくのを楽しそうにじっと見つめながら、ジェカは、ヤトの分かりきった返答を待った。 「…………分かった」 「話がわかるじゃん! やったぁ!」  ジェカはその場で小さく飛び跳ねて喜んだ。尻尾を揺らして、ニコニコと笑っている。大袈裟な態度をうざったいと感じつつも、あまり嫌だとは思わなかった。 「うるさいな、セミのほうがまだ静かだぞ」 「そう? まあ、セミなんかより俺はよっぽど熱烈だからね」  ジェカはそんなくだらないことを言いながら、ヤトの手の中の単語帳を横から覗き見た。人の用意したものの恩恵をタダで受けようとは、なんとも傲慢な奴だ。  仕方なく、ヤトは、机の上に置いていた別の単語帳を拾い上げると、ジェカに突き出した。 「……馬鹿にはこっちがいい。俺が今見てるのは今日の小テストの範囲じゃないぞ」 「わあ、ありがとう!」  ジェカはぱっと笑顔でヤトの手に飛びついた。馬鹿もここまでくれば良いところだと思いながら、ヤトはまた目線を元の単語帳に戻した。  真夏の駅前。陽炎が立ち、照り返す日差しが身体を刺すようだ。日陰に移動したり店に入ったりすることもせず、ヤトはその日、律儀に待ち合わせ場所に立ち続けていた。  待ち合わせ時間から、もう三十分。自分から計画したくせに、その男は、のろのろと三十分後に現れた。 「へへ、遅れちゃってごめんね」  特に悪いとも思っていなさそうな顔を見て、ヤトは静かにジェカの足を踏みつけた。三十分だ。この炎天下に、三十分。焼け死にそうな身体をなんとか動かし、ヤトは彼の足を追いかけた。 「痛い! 痛い!」 「いいご身分だな」 「ごめんったらぁ!」  ジェカは手のひらをすり合わせて、ペコペコと謝罪する。ヤトは、それには見向きもせず、ふらふらと日陰を目指して歩き始めた。 「ねえ、大丈夫? どうして日陰にいなかったんだよ」 「……うるさい……」 「あれ、全然汗かいてないね? ホントに大丈夫?」 「うるさいな、お前が早く来ればよかったんだろう!」 「だ、だから、それはごめんねってば」  ジェカは鞄から携帯を取り出して、ヤトに見せた。 「これ! これ見てよ、これ!」 「……これから行く遊園地じゃないか」 「そう!」  ニコッと笑いながら、ジェカは携帯を顔近くに持ってきた。 「これ、俺が当てた無料券! ヤトの分もあるからさ、許してほしいなぁ……なんて……」  相変わらず、鼻につく甘ったるい態度でジェカはこちらを見る。身長などほとんど変わらないくせに、わざわざ膝を屈めてこちらを見上げる様が、なんとも腹立たしい。ヤトは、大きなため息をついた。 「……もういい。お前みたいなやつまともに相手するほうが馬鹿らしい」 「ヤト大好き! ありがとう! 優しい!」 「うるさい」  ヤトにはねつけられ、ジェカはへらへらと笑う。 「……俺ね、ホントにヤトのこと大好きなんだ」  ジェカの瞳が身体を射貫くように見つめ、ヤトの身体は動かなくなった。彼の顔は穏やかで、それでいてどこか不気味で、おかしなことに、困惑しているようにも見えた。 「ヤトはすごく優しくて、とっても美人だもん! それで、すごく嫌な奴! 俺、大好き」  ジェカは無邪気な顔で笑う。まるで、何もかもに嘘がないかのように。 「うーん、遊園地楽しみだなぁ」  ジェカは、軽やかな足取りで歩き出す。楽しげなジェカの背に引かれるように、ヤトもフラフラと歩き出した。  ジェカは遊園地に設置してある何にでも乗りたがった。絶叫マシンの類に始まり、お化け屋敷や映像系の乗り物、挙句メリーゴーランドやコーヒーカップなどにも乗りたがった。まるで子どものように、彼は園内を隅から隅まで満喫している様子だった。  一方、ヤトは、ジェカにただおとなしく従い、彼の後ろを静かについて行くだけの時間を過ごしていた。ジェカは、ちっとも楽しそうにしていないヤトをたまに振り返っては会話を振り、満足するとまた一人でベラベラと言葉を紡いだ。  ジェットコースターを待つ長い列の中に並んでいたとき、暇そうにしていたジェカがふと言った。 「……ねえ、ヤトはどうしてサウスシティまで来たの? クラウンタウンから出るだけなら、ウエストシティで良かったじゃん」 「……いつ俺がクラウンタウンの出身だと言ったんだ」 「あれ、違うの? 違わないよね」  睨みつけると、ジェカはわざとらしくケタケタ笑った。ヤトは周囲を警戒し、あたりを見回した。 「大丈夫だよ。皆そんなに暇してないって」  ジェカはそう言って、ヤトの手を握った。ヤトはその手をすぐに振り払い、低い声で言った。 「……俺は、誘拐されてあそこにいただけだ」 「え、そうなの?」 「そうだ。……お前、あの町の話がしたいなら声落とせ」 「なんで? あ、差別的な話だから? でも、差別されて当たり前の町なんだから、そう言われるのも仕方ないんじゃない?」 「だから、そういうのは……なるべく触れないのが普通なんだよ」  ヤトはしどろもどろにそう言って、ジェカから目を逸らした。  列が動き出し、ジェカは不満そうに口をとがらせながら、頭の後ろに手を組んで歩き出した。 「クラウンタウン出身者のくせに、今更『普通』になんかこだわるの? ヤトって変なの」 「あのな、俺はクラウンタウンの出身者じゃない。ちゃんと"首輪"も持ってるの、何回も見ただろ」 「その首輪はお前のじゃないじゃん」  その瞬間、心臓が一瞬止まったかのように感じ、すっと背筋が冷えた。ヤトは、思わず立ち止まってしまった。 「……なん……だよ、俺の首輪だ」  次第に心臓は、バクバクと脳を揺らし始める。身体には変な汗をかいていた。 「君の?」  ジェカの声からは、彼が今どんな感情でいるのか、ちっとも分からなかった。ヤトはたじろぐ。首を振り、後ずさった。 「嘘じゃねぇ……俺は……」 「嘘だよ」  ジェカはヤトの手を引っ張り、歩みを進める。また列の流れが止まると、彼はヤトの胸元を指差して言った。 「それは君のじゃない。そうだろ?」  ジェカの表情は、いつものように明るく、楽しげで、あまりにも不気味だった。  ヤトは、掴まれていない方の手で、首から下げた首輪を服の上からぎゅっと握った。 「……お前、何か知ってるのか?」 「どうだろうね。少なくとも、君が今嘘をついたことは分かってるよ」 「お前こそ、クラウンタウン絡みじゃないのか」 「あは、そんなわけないじゃん。ほら、首輪もあるよ」  ジェカは、首輪を引っ張り出して掲げ、にやりと笑ってみせた。 「……ねえ、もっと近くで見てもいいよ? ほら、ちゃんとここに『ジェカ・ベイカー』って書いてあるでしょ?」 「……いらない……寄るな……」 「……ねえ、俺、確認したいことがあるんだ。ヤトの首輪、見せてほしいなぁ」  その時、ドッと鈍い音がしたと思ったら、自分の拳がジェカを殴っていた。赤茶色の髪の毛の隙間から、細められた濃い琥珀色の瞳が見えた。 「……ふふ、あはは、本気でやりやがったなぁ? 避けらんなかったや」 「……何を笑ってる……?」  ヤトは、拳を強く握りしめた。 「いい加減にしろ! なんなんだよお前は……っ!」 「なにってなに? どういう質問? いてて、もう……力いっぱい殴んなくてもいいじゃん……」 「気味悪い、気味悪ぃんだよ、お前!」  ヤトはジェカの胸ぐらを掴み、そう叫ぶ。何故自分が叫んでいるのかもわからない程に混乱していた。 「どういうつもりだ? 何を……お前……」  ヤトは、どういうわけか震えていた。  彼の口を閉じさせなければ。そう、直感した。けれども、彼の口を閉じる方法が、ヤトにはなかった。  ヤトは、ジェカの胸ぐらを掴んだまま、ただじっと固まっていた。 「…………あ、ひとつ教えてあげよっか」 「なにを……」 「俺、実は養子なんだよね。ベイカーってホントの名字じゃないの」  ジェカは自分の首輪を摘んで引っ張り上げ、ヤトの顔の前でちりちりと振った。 「旧名はジェカ・フルーレ。って、ヤトは聞いたことあるよねぇ?」  ジェカは、にやにやと、いたずらっ子のように笑った。それを見たヤトは、真っ青な顔をして小さく震えだした。 「お前……だって、は……。そんなわけ……」 「……そうだよね、そんなわけないもんね」  「何かの偶然だろ……? なあ!」 「うんうん、そうだね。クラスで腫れ物のように扱われてる君にわざわざ話しかけてきた奴が、君が皆殺しにした一家の名前だなんて、おもしろい偶然だよねえ!」  そのとき、ジェカは笑ってはいなかった。ただ赤黒く光る瞳で真っ直ぐに、ヤトだけを見つめていた。  フルーレ家は、両親と一人息子のジェカの三人家族で、いたって普通の家庭だった。父親は、この時代の獣人には重宝されたエンジニア、母親は優しい専業主婦。二人は慈善活動に好んで参加するような、人の助けになることが好きな獣人(にんげん)だった。その一人息子のジェカは、少し人見知りで喋ることが苦手だが、何事にも興味があり、活発な少年だった。  ジェカが五歳の年の冬。彼の両親は突然、ぱたりと息を止めた。  ――ぼんやりとした視界。ピクリとも動かない家族。まだ温かい血まみれの夕食。  真っ白い細腕から、ポタポタと垂れる赤い血液。飛び散った血をかき混ぜるように、床を踏みしめ歩いてきたのは、黄色い瞳の男の子だ。 「…………お前生きてるだろ」  ぼんやりと聞こえてきた声は、同い年くらいの子どもにしては低く大人びていた。  ジェカは、もうそちらへ顔を向ける気力さえなく、ぼんやりと床に座り込んだまま、滲む視界で少年らしき獣人の足元を見ていた。  彼はジェカの顔を手で掴むと、確認するように無理矢理引っ張った。 「おい、生きてるだろ」 「…………しんでるかもしれない……いきてるかもしれない……」 「生きてるじゃないか」  少年はジェカの身体をまた壁際に投げ捨て、今度はそばにあった透明な液体を床に撒きはじめた。その手には、ジェカの父と母の首輪が握られていた。彼は液体を撒き終えると、口元の血を服の袖で拭い、首輪をふたつポケットに詰めた。 「かえ、して……」  ジェカは、赤い手をぐっと彼に伸ばした。 「だめだ。仕事なんだ」 「かえしてよ……おれのかあさんと、とうさんの……」  不健康に感じられるほど白く細い男の子は、冷たい手でジェカの頬に触れてきた。 「お前、『くびわ』どこにある?」  首元をまさぐるその手は、冷たいはずなのに妙に暖かく、ジェカは思わず手を掴んだ。 「なにしてるんだ」 「つめたい手だね」  ジェカはそう言って、少年の手を握り、頬を擦り寄らせた。頬には血がべったり塗られ、それさえ心地良いような気がした。 「……『くびわ』ないならいい。死ぬだけだ」  子どもはジェカから手を離した。直後、カッとジェカの目の前に飛び出してきた、眩しい光。ゴウゴウと音がして、あっという間に家が飲み込まれた。  その時、ジェカははじめてその子の姿がよく見えた。長い黒髪は光をうつして美しく、白い肌には鮮やかな赤がよく映えた。琥珀の瞳が、キラキラと光って見え、その美しい身体の線が、ジェカの全身の細胞を刺激した。 「……きれい」  ジェカは目を輝かせ、ぼんやり呟いた。火はごうごうと燃え盛っている。その少年が、黒く焼けきれた服を羽のようにたなびかせて窓から飛び降りていくのを、ジェカはずっと見ていた。  気が付けば、ジェカは大勢の大人に囲まれていた。皆知らぬ顔ばかりで、先ほどまで見ていたはずの美しい少年の姿はどこにもなかった。 「……ジェカくん、ここがどこか分かるかい」  一人がそうジェカに尋ねた。ジェカはゆっくりと首を横に振った。 「…………おじさん、だれ?」 「私は医者だよ。お医者さんだ」 「おいしゃさん……」  ジェカのはっきりとした声をきいて、医師たちは奇跡だと喜んだ。 「君はあの火事の中で、助かったんだよ」  あの火事と言われても、一体どの火事だとジェカはぼんやり思った。まだ意識は覚醒しきっておらず、言葉の意味を捉えることもできずにいた。 「かあさん……」  ジェカの声に、医師たちはたじろいだ。ジェカはなんとなく、自分が何かまずいことを口にしたのだと気づいた。 「母さんに話したいことがあるの……。あの子のこと……きれいな……」 「……君のお母さんとお父さんは、……いなくなってしまった」  ジェカは目を見開いた。その言葉で、先ほどまで見ていた家族の状況を、なんとなく思い出した。 「…………しんでしまったの?」 「…………そうだ」  医師は言いにくそうにしながらも、はっきりとそう言った。 「そうかあ……」  ジェカはぼんやりとした口調のまま、さほど興味もなさそうに言う。医師たちは、ジェカの言動に、小さな違和感を覚え始めていた。 「君の家も、もう残っていないんだ」 「……ぼくのお家も、もえちゃったのかぁ」  ジェカは異様な雰囲気で、医師のほうを向いた。視線が、赤い瞳に吸い込まれる。 「そうなんだね」  ジェカはにこりと笑った。 「……ねえ! あの子しらない? 黒い"あくま"みたいなきれいな子!」  病室は、しんと静まり返っていた。ジェカはきょとんと首を傾げ、周囲の大人を不思議そうに見回した。  医師が、なんとか手を伸ばして、ジェカの頭を撫でる。その手は、震えているように感じられた。 「ジェカくん、今は悲しいかもしれない。だが、私たちが、君を……」  医師が何か言い終わるよりはやく、ジェカは満面の笑みを浮かべて、彼の手を握った。 「ぼくは大丈夫! だって、そんなことより、すごくいいことがあったの! ねえ、聞いて聞いて!」  子どもらしいカラッとした笑顔は、その病室の雰囲気に見合わぬ、気味の悪いものだった。  退院してしばらく経って、ジェカは、世界中の何もかもが、色を失っていることに気が付いた。何をしていても、心が躍らない。まるで、自分を傍観しているような心地だった。  親を失ったジェカは、その後、ウエストシティの孤児院に入った。明るく優しい性格で、孤児院の大人にもよく好かれた。そこで出会った兄弟たちのよい兄で、可愛らしい弟だった。  彼は誰からも愛されていた。しかし、彼の世界は、いつまでも満たされぬ灰色だった。  孤児院にいた頃、ジェカは、よくふらふらとどこかへ出かけていっては、行きと同じ疲れた顔で帰宅する日々を送っていた。彼がどこで何をしているのかは誰も知らず、また、誰も尋ねようとしなかった。  ジェカが十五歳の年の冬、突然、彼がウエストシティの孤児院を出ることが決まった。里親の下で、サウスシティの高等部に進学するためである。一人でサウスシティへ出かけていった次の日の出来事だった。孤児院の大人は彼の突然の行動に大層驚いていたが、さほど反対もしなかった。  十六歳。ジェカはようやく、に手の届く場所に辿り着いた。世界には鮮やかな色がつき、何もかもが満たされていた。  本当は、もっと早くにでも声をかけられた。けれども、それはなんだかもったいないような気がしていた。せっかくの再会を、うんと大切にしたかった。  きっと、彼のほうからこちらに気付き、我々は運命の再会を果たすのだと、ジェカは思っていた。  気付いてもらうべく、さり気なく視界の端をうろついてみたり、少しばかり目立ってみたり、別のクラスに友達を作り、大声で笑ったりしてみせた。  けれども、どうやら薄情な彼は、ジェカの顔など覚えていないようだった。恋する少年は衝撃を受けたが、へこたれることはなかった。  ならばと、彼は教師を丸め込み、無理矢理同じクラスに入った。  その日は、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。心臓は高鳴り、身体は芯深くから震えていた。  会いたかった。ずっと探していた。やっと今、手に入るのだ。 「ねえ、なにしてんの?」  教室でひとり浮いた、この可哀想で綺麗な男を、どのようにしてやろうかと、ジェカは笑顔を浮かべた。 「なにしてんの?」  彼は狂っていた。あの日、自分の前に現れた悪魔に、深く狂っていた。

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