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ナマケモノとタカ 第二章 第一話

ナマケモノとタカ編  第二章 第一話「懺悔」  「……すまない」  一言呟いた。手が震える。身体が軋み、上手く動かない。視界が歪む。 「すまない、すまない……っ」  抱きしめた小さな温もりの、赤い頬が跳ねて笑った。この季節は、夕方を過ぎるとまだ肌寒い。柔らかく弱い頬に、この気温は堪えるようだった。 「…………君の幸せが、この先、何千年と、続きますよう」  温かな幸福は、キョトンとした顔でこちらを見つめてきた。残酷なものだ。この世の中に、こんなにも愛おしく、憎いものがあろうとは。  ゆっくりと立ち上がる。風が強く吹き荒れている、新月の夜だった。  セントラルシティ東部。街一番の都会には程遠いが、それなりに発展しており、これから大きく伸びると注目を集めている地域である。 「はじめまして! 本日よりここに勤めさせていただきます、マキ・タチバナと申します!」  マキはにかっと、爽やかに笑った。  ほとんど新品の黒スーツ、灰色のネクタイ、黒い革靴。慣れない全てが、マキの心臓をそわそわと弾ませる。 「よろしくお願いします!」  元気よく頭を下げる。社員はぱらぱらと拍手を贈った。  立ち上げられて五年目の電気機器メーカー。マキは大学部を卒業後、そこの営業部に入社した。 「よろしくね、マキくん。じゃ、マキくんはあのデスクだから……」  気の弱そうな部長に指をさされた机に向かうと、隣に座っていた男に声をかけられた。 「よう、俺、シェーン・ブラウン」 「マキです。どうぞよろしくお願いします」  差し出された右手を、マキはそっと握る。 「マキ・タチバナだっけ? お前、東出身?」 「はい。イーストシティから出てきました」 「へえ、イーストシティかぁ。文化が結構独特だよな」 「そうっすかね?」  マキはこてんと首を傾げてみせた。その様子に、シェーンがふっと笑みを零す。 「お前、子どもみたいなことするんだな」 「えっ、俺子どもっぽいっすか?」 「うん」  マキは、えーと伸びた声を出してオーバーリアクションをとる。  シェーンはそんなマキが気に入ったのか、笑みをこぼして、かわいいやつだなと言った。 「お前いいな。東出身にしては絡みやすいわ」 「あは、ありがとうございます」 「よろしくな、マキ」  シェーンはにこりと笑った。  シェーンは、ことあるごとにマキに声をかけ、何か分からない事はないか、何か困っていないかと尋ねてくる。彼はお節介な性格で、新入社員であるマキのことが、どうしても放っておけないらしい。  これまで、弟や天然な親友の世話を焼いてばかりだったマキは、このどうしても先輩ぶりたがるシェーンに少しだけ戸惑った。 「お前、なんでセントラルシティまで出てきたの?」 「……うーん、まあ、なんとなくですけど、あえて言うなら、ここのほうが給料いいからっすかね。弟たちにもいろいろ買ってあげたいし」 「へー、お前弟いるんだ」 「はい、二人。下の子は最近来た養子なんですけど、どっちもホントにいい子ですよ」 「養子か。同じ種族?」 「いや、ユキヒョウです」 「……あれ、養子って、普通同じような種族が選ばれるんじゃなかったのか? 心身を守る云々で……、てか、そもそもお前種族なんだっけ」  シェーンの言葉に、マキは一瞬固まった。就職活動で何度も答えては苦い顔をされた思い出が蘇る。 「……ナマケモノです」 「ナマケモノ!?」  ガタンと音を立てて立ち上がるシェーン。周りの社員がこちらをちらと見た。 「お前、すげーな! ナマケモノなのによくセントラルシティの就職先なんて見つけたな!」 「いや、それ…………」  反射的に飛び出しそうになった反論を飲み込む。そんなふうに言われるのは、分かっていたことだった。分かっていて、マキはこの街へ出てきたのだ。 「へぇ! でもお前、ナマケモノぽくないよなぁ」 「まあ、母親ヒョウなんで……」 「ああ! だから養子がユキヒョウなのか。マキは走るの速いの?」  きかれて、マキは困ったような顔をした。言いたくないことがあるという顔に、シェーンが首を傾げる。 「普通ですよ。クラスで真ん中」  マキはへらっと笑って嘘をついた。 「へえ、そうかぁ。しかし、ナマケモノとヒョウのハーフって面白い組み合わせだな」  シェーンはケラケラ笑った。 「そうだ、マキ! 今日夜飯食いに行こうぜ」 「今日ですか?」 「とっておきのいい店があるんだよ。奢ってやる」 「やったぁ。行きます」 「よし、決まりだな」  シェーンはにまっと笑い、マキの肩に手を置いた。  「いい店って、ここホストクラブじゃないっすか!」 「ホストクラブじゃねぇ、接待飲食店」  もっと酷いじゃないですか、とマキは小声で呟く。爆音の音楽と、それに隠れるようにして、どこからともなく上がる嬌声。入る前に、おかしいと思った時点でやめておくんだったとマキはぼんやり思った。 「俺こういうの嫌いなんです」 「あははは、マキははっきり言うなぁ」 「だって嫌いなんだから仕方ないでしょ」  シェーンに連れて来られた場所は、セントラルシティの端にある性接待飲食店だった。  性接待飲食店は、主に首輪のない獣人(にんげん)や、身分の低い獣人が、素性を隠して働いている場所の一つで、スピカの孤児院と似たようなものである。  ここで売られているものは、酒や食べ物、楽しいお喋りだけではない。人の身体も、商品の一つだ。性接待飲食店では、恥を知らぬ乱交パーティが、毎夜行われている。  セントラルシティには、金持ちが多い。個人で奴隷を持つ者や、人体を売り買いする者もいる。そのような富裕層の影響を受け、この街では、一般層ですら、平気で馬鹿のように豪遊する。  ここは、人権や倫理という言葉を、誰も知らないかのような街なのだ。 「あれ、初めて見る子だぁ。だれ?」 「マキって言うんだ。イーストシティ出身」 「へーえ! イーストシティ!」  生暖かいような声に寒気がして、マキは立ち上がる。 「帰ります」 「まあ待てって。ここ料金の割にサービスいいし、遠慮してちゃ勿体無いぞ」 「帰ります」 「なんだよ、恋人でもいるのか?」  いませんけど、と口ごもるマキに、シェーンは嬉しそうに笑った。マキが居心地悪そうに目をそらす。しぶしぶ、マキは椅子に座った。  しばらくシェーンと店員の言葉をてきとうにあしらっていると、ふと、視界の端に、見覚えのある白髪が見えた。マキは、思わず目を奪われる。 「あ、あの子もイーストシティの子だよ」 「ボーイだけど結構人気あるんだ。うちはボーイだろうとなんだろうと、稼げるなら出すってスタイルだから。そゆとこガバいんだよな、うち」 「でも、あの子って何をされても断らないから、俺たち的にはちょっと困るかな」  絹のような白髪と、その隙間からちらちらと見える濡鴉。美しい金の瞳。  見間違えるはずがない。マキは立ち上がり、その男の腕を掴んだ。 「あんた、何してんだよ!」  こちらを振り返る堅い動き、動かぬ表情、冷たい視線。微かに感じる、煙草の匂い。 「……お客様、どうかされましたか」  低く滑らかな声。 「…………俺だよ、マヒロ先輩……」  マキが僅かに微笑む。  マヒロは無表情を崩さずに、マキに一礼した。 「…………失礼します、お客様。仕事がありますので」  店員が、ぱちぱちと目を瞬かせて顔を見合わせる。 「珍しい、あの子ってあんなこと言うんだ」 「マキくん、知り合い?」  マキは、マヒロを黒い目で追い続ける。耳から下がる羽飾りの立てる音が分かりそうなほどに、彼だけに意識を集中させていた。  「久しぶりですね」  店の裏口から出てきたマヒロに、マキが声をかけた。マヒロは金の瞳でマキのことを見つめた。 「…………マキ」  マヒロの声は、驚きと喜び、そして不安が複雑に混じり合っていた。マヒロは何か聞きたいことがあるのか、落ち着かない表情をしていたが、目をそらしてマキから少し距離を取った。 「久しぶりだな、マキ。……お前に謝らねばならない。酷いことをさせたな」 「……謝んなきゃなのは俺でしょ。あんだけ散々酷いことされてんのに、あんたが謝ることなんてない」  すみませんでしたとマキが頭を下げると、マヒロはすぐに口を開いた。 「お前が謝るのは、やめてくれ」 「……俺の自己満足でしかないから?」 「違う。お前が、あれを過ちと捉えるのが、俺には耐えられないからだ」  あの日に、どれほど苦しみ、どれほど救われたか。自分が望んだものを、生まれてはじめて得られて、マキとの夜に喜びさえも感じるというのに、彼に謝られると、そのすべてを否定されるようで。  マヒロは俯いたまま、ほんの少しだけ笑った。 「……お前がどう思っていても、俺はあの夜が、生きてきた中で一番幸せだったんだ」  俺だってそうだと、あなたが謝ることなどないと、言えれば良かっただろうか。この人を連れ出してしまえるだけの力が、自分にあれば良かっただろうか。  マキはマヒロをまっすぐ見つめて、拳を握った。 「……それでもあんたは、俺に全てをくれねぇんだろ……」  マキの声は、どこか懐かしい、苦くて幼い声だった。あの頃の気持ちを決して捨てた訳ではない。まだずっと、心の底にあるというのに。  二人は長いこと沈黙した。マキは気まずくなり、目をそらしたりマヒロの方を見たりを交互に繰り返していたが、見るたびぶつかるマヒロの視線に耐えられなくなって口を開いた。 「……あんた、煙草吸ってるんですか?」 「何故」 「煙草の匂いがするんですよ」  マヒロは自分の腕に鼻を埋めて、首を傾げる。 「……俺ではない。……多分、あの人か、客じゃないだろうか」 「ああ、そう。……てか、あんたこんなところで働いてて良いんですか? 結婚してるでしょ」  マキはやや皮肉がこもった声で言った。別に彼を傷付けようというつもりで吐いた言葉ではなかったが、結果的に、出てきた言葉は刺々しかった。マヒロはほんの少し目を伏せただけで、それには答えなかった。 「…………何故、ここに来た」 「……ここって? セントラルシティ?」 「そうだ」  マキは俯いて、それから言った。 「……別に、特に理由ないです。…………ただなんとなく、家を、イーストシティを出て、セントラルシティに就職したいなって、思っただけで……」 「…………だが、昔は、サウスシティに就職したいとか、言っていなかったか?」  マヒロの言葉に、マキはう、と呻いて一歩引き下がった。  その通りだった。そもそも、マヒロがいなくなるまでのマキは、勉強嫌いで、そんなものしなくていいとまで思っていた。大学部に進学するつもりも、セントラルシティに出てくるつもりもなかった。 「……うるさいな、分かるでしょ……!」  彼は、いつも自分を狂わせる。身の丈に合う生活で構わない、ただのんびり暮らせればいいと、自分はずっと、そうやって生きていたというのに。 「俺はいつの間にか、あんたを追いかけてたんだよ……ッ!」  マヒロはマキを見て、金の瞳を小さく揺らした。マキは長い前髪で表情を隠すように俯いた。 「あんたを連れ去ってしまえるような、そんな立派な大人になりたかったんだ……」  けれど、現実はそう簡単にはいかない。マキは種族が悪く、家柄も頭もいい方ではない。セントラルシティでは小さな会社の平社員をやっていくしか生きていく方法もないというのに、身分の高い一族からマヒロを奪い去るなど、到底不可能だった。  マヒロはどこか悲しそうな顔で笑った。 「お前に俺はもったいない」  マヒロは笑うのが下手になっていた。久しぶりに笑ったのか、笑い方を忘れてしまったのか、笑顔がぎこちない。マキには、そう思えた。  学生の頃の彼とは、何かが、確実に違う。 「…………なんであんた、こんなとこで働いて……」  その時、身じろいだマヒロの着ている薄いTシャツの隙間から、青紫色の痣が見えた。マキはマヒロの服に掴みかかるほどの勢いで距離を詰める。 「……これどうしたんです」 「…………ああ、これか。大したものではない」  殴るなんて酷い、とは、口が裂けても言えなかった。自分だって変わらないのに、どうしてそんな調子のいいことを言えるというのだろう。 「なぜ、お前がそんな顔をするんだ」  マヒロは静かに笑う。  マキは俯いて、溢れ出る感情に肩を震わせた。 「俺はお前を泣かせてばかりだな」 「うるせえよ……」  ぬぐってもぬぐってもあふれる涙を必死で堪えるその姿は、まるで何かに懺悔しているようだった。マヒロは、その姿を哀しそうに見つめていた。  しばらくして、マヒロの携帯が鳴った。マヒロは通話拒否のボタンを迷わず押した。 「……もう帰らなくては」  マキは何も言わず、確かに大人へなってしまった彼をただ見つめた。 「……また会おう、マキ」  マヒロはそう言った。雲でくすんだ月が、二人を照らしている。  本当に残酷な人だと、マキは思った。  それからマキが知った、マヒロのこと。  まず、夫である監督とは、無表情で無口な性格からうまくいっていないこと。ここ数年は、もう毎日のように殴られていること。シラトリ家の人には見捨てられていること。あの店で働き始めたのは最近であること。  マヒロは、毎日のように店へやってくるマキに、彼が聞きたがったことはほぼ全て話した。そして、マキに毎日「また会おう」と呪いの言葉をかける。 「マヒロ先輩、連絡先教えてくださいよ。先輩後輩なんだから番号くらいいいでしょ」  マキは、酒でぼんやりとした思考でそんなことを言う。マヒロは困った顔をした。 「無理だ。携帯は監視されている。……あの人が、お前と連絡をとることを許すはずがない」 「……まあ、そんな気はしてました」  マキはため息を零した。 「お前の連絡先を、あの子達が知りたがっていたぞ」  別のテーブルでケタケタ笑い声を上げる店員たちを横目で見ながら、マヒロは言った。  マヒロはボーイであってキャストではないが、この店はそういうものはあまり関係がない。マキはこの店へ来るたびにボーイであるマヒロを指名するので、店員の間で少しだけ有名になっていた。 「嫌だって言っといてください」 「無理だ」 「……下っ端ですもんね」  違う。マヒロはまっすぐにマキを見て言った。 「お前に新しい出会いをやりたいからだ」 「……ああ、そう」  マヒロは時折そうやって戯言を口にする。マキはそのたびに、苦しく思った。  ふと見ると、マヒロの鎖骨にガーゼが張り付いていた。昨日はなかったはずだ。 「……それ」  マヒロが殴られているのは、いつまでも生まれない跡継ぎのこととか、彼の寡黙な性格とか、彼の出自とか、いつもそういう理由らしい。  けれど、マキが思うに、マヒロは元からそういう獣人で、それに気づくタイミングは、結婚するまでにいくらでもあったはずだ。それが嫌だと言ってマヒロを殴るのなら、さっさと婚約を破棄すればよかった。  あの男はきっと、マヒロの顔と性器しか見ていなかったのだ。そんな考えが頭によぎり、マキは不快な気持ちに支配されたまま、マヒロの怪我に手を伸ばした。 「……ひ……ッ」 「えっ、ごめん、痛かった?」  マヒロの耳飾りがチャリンと揺れる。首を振ったマヒロの頬を、マキが人さし指でそっと撫でた。 「……じゃあ、何かされるかもってびっくりした?」  マヒロはまた首を振った。 「お前は、理由なしには殴らない」  マキは目を見開き、それから伏せた。ぎゅっと拳を握りしめる。 「……あんた俺のことをなんにも分かってない。嫌いだ、あんたなんか」 「そう言いながら、お前はいつもここに会いに来てくれるんだろう。俺の『また会おう』に、律儀に答えてくれるんだろう」 「ホントは俺と会わないほうが、楽に生きられたくせに。馬鹿」 「……そうかもしれないな」  マヒロは金の瞳を細めて、嬉しそうに笑った。  そうだ、そういうところが、嫌いだったんだ。 「マヒロくん、もうそろそろテーブルの片付けの方の仕事してもらっていい?」 「はい、分かりました」  声をかけられ、マヒロが席を立つ。無表情で素っ気ない。全くこの仕事に向いていないと思う。 「また会おう、マキ」  けれどマヒロは、マキに笑顔を見せる。  マキにだけ、甘く柔らかな笑顔を向ける。

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