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ナマケモノとタカ 第二章 第二話
ナマケモノとタカ編
第二章 第二話「しあわせの苦味」
「あっ。おい、スピカ!」
灰の髪の親友は、マキの方を振り向いて、にこりと笑った。身長が高く、華があってよく目立つ。
「悪い悪い、分かりづらいとこにいたかもしれねぇ」
「ううん、大丈夫。久しぶりだね」
スピカは微笑んだ。
学生時代には目元を覆い隠してしまうほど長かった前髪は爽やかに上げられ、表情がよく分かるようになっていた。
ここは、セントラルシティ南部。今日は、スピカの誘いで、二人で食事に来たのだ。
二人は早速店に入り、席に着いた。
「……そういや、今日クロトさんは?」
「お仕事だよ。展覧会の打ち合わせ。この近くで」
「一緒にいなくてよかったのか?」
「クロトさんは大丈夫。クロトさんのお仕事だしね」
スピカははっきりとした声でそう言った。
マキは、なんだか親友が突然大人になったように感じた。ふわふわと揺蕩う星雲のようだった少年は、いつの間にか一人の獣人 になっていた。
「……お前、クロトさんに会って変わったよな」
「そうだね」
スピカはすぐにそう答えた。
「…………楽しいか」
「……どうしたの、マキ」
「いや、気になって」
様子の変なマキを不思議に思いつつ、スピカはゆったり微笑んだ。
「楽しいよ。……俺は、クロトさんを好きでいられて幸せだ」
マキは俯いた。そう言い切れる彼のことを、ほんの少し羨ましく感じた。
注文を終え、マキは一口水を飲んだ。スピカは、いつものようにべらべらと話をしないマキを、珍しそうに見つめてきた。
「……どうかしたの?」
マキは椅子の背にもたれかかって、ため息をついた。
「…………マヒロ先輩に会ったんだ」
「……本当……!?」
スピカはほんの少し表情を和らげた。が、マキの顔を見て首を傾げる。
「……マキ、あんまり嬉しくないんだ」
「お前、人のこと勝手に見るなって」
「見てないよ。最近は見なくても分かるようになってきたんだ」
スピカは慌てて首を振って弁解する。マキは一つ息を吐いて、口を開いた。
「…………あの人を追いかけたのは認めるよ。あの人の家の力の強い地域にわざと就職したのもな。……まさか本当に会えるなんて思ってなかったよ。だってそうだろ、普通、会えるわけなかったんだ。…………けど、俺はあの人を見つけちまった……。どうせ俺は、家族とか友だちとか、他のもん優先して、……あの人をどうすることもできねぇし、苦しめるだけだって、分かってんのに……」
「……それでも、会いたいんだね」
スピカは呟き、俯いた。
「マキは優しいから、色んなこと考えてるんだね。俺は無理だったな、クロトさんのことしか見てなかった」
「それが正しいんだろうな……」
自分の持っている何もかもを投げ捨てて、彼だけを愛す。自分よりも大きなものに立ち向かい、何を犠牲にしても彼と共にいる。そうすればきっと、世界のどこかには、二人の居場所があるだろう。
「……でも、あの人のことだけ考えたら、俺は会わないほうがいいんだ、きっとさ」
「本当にそう思ってるの?」
「……そうだろ。……結局どうしようもないなら、幸せなんて知らないほうがいい」
「……本当にどうしようもないの?」
スピカは、澄んだ瞳でそう尋ねてきた。マキは口ごもる。
「幸せの分からない人生って、すごくつまらないよ」
マキは、スピカに酷いことを言ってしまったと思ったが、彼の表情は柔らかかった。
「……マヒロ先輩が本当に欲してることに、マキは本当に応えたの?」
スピカの言葉は、まっすぐだ。まるでこちらのことを何でも知っているかのような、そんな言葉を吐く。昔は、それが好きだった。まっすぐな言葉を投げ、まっすぐな感情で生きていたのは、彼だけではなかったからだ。
「…………あの人は、俺に、自分を殺せって言ったんだ……。そんなの、応えらんないだろ……」
「そうじゃない。分かってるでしょ?」
スピカの瞳に見据えられ、マキは背筋がゾッとした。彼の目は、時折こうやって不思議な圧力をかける。
スピカの瞳に貫かれると同時に、まるで魔法にかけられたかのように、マキの心は怒りに飲まれた。
「……じゃあなんだよ、あの人の家に喧嘩売れって言うのか!?」
「そう言ってる」
「お前はほんとに世間知らずだな……!」
世の中そう上手くいかないんだと、マキの声は訴える。相手はセントラルシティの一族だ。それを敵に回したなら、自分の家族や友人も、無事でいられる保証はない。
スピカは正面からマキを見て、はっきりとした声で言った。
「俺は世間なんて見ていないんだよ」
心の底で、どこか敗北感にも似た感情が湧き上がった。それはマキの心を緩やかに濁して、そして落ち着かせた。
「………………分かったよ、俺はお前にはなれない」
スピカは、本当に一つのことしか頭にない。それだけが彼の全てで、だから彼はこう在れる。
「……もう俺、どうすれば正解なのか分からないんだ。あの人は、どうしたいんだろう」
「……マキはどうしたいの」
スピカは尋ねる。マキは指と指を絡めて、きゅっと握った。
「…………俺はただ、マヒロ先輩に、幸せになってもらいたい……」
マヒロが、穏やかに、ただ幸せに、生涯を送れるなら。彼らしく、悠々と生きられるなら、それでいい。
「それが別に、俺じゃなくたっていいんだよ……。俺じゃなくても、誰でもいいから、マヒロ先輩を救ってほしい……」
「…………そっか」
スピカは微笑んだ。
「……でも、きっとそれは、マキにしかできない」
スピカのその一言は残酷で、確かに正しかった。それはマキにもよく分かっていた。だからこそ、こんなにも絶望に苛まれているのだ。
帰り際、ぴんと背筋を伸ばして、堂々と去っていく彼の姿を、マキは慣れ親しんだ醜い感情を持って見送った。
「マキ、番号だ」
「……はい?」
「携帯番号を教えてくれ」
金曜日ということもあってか一段と賑わっている店内で、マキは怪訝そうなしかめ面をしていた。マヒロは首を傾げる。
「…………携帯番号……携帯電話の番号だ」
「……いや、あの、そうじゃなくて。つかなんでいつも直球な結論から話し出すんですか……。状況から説明してくださいよ」
マヒロは、ああと呟くと、また再びゆっくり話し始めた。彼は本当に話が下手だと、マキは苦笑をこぼす。
「お前、連絡先が知りたいと言っていただろう。だから給料で新しく携帯を買った」
「黙って?」
「当たり前だろう」
「……またあんたは……そういうことする……」
「嫌か?」
どうして、この男は、自分一人のためだけに、いかなる危険もかえりみず携帯を買ってしまうのか。マキには彼の行動が全く理解できなかったが、そこまで素直に自分のために動いてくれるのは、嬉しかった。
「嫌なわけ無いでしょうが……」
「そうか。良かった」
マヒロに手渡された携帯に番号を打ち込む。そのまま一度自分の携帯に電話をかけた。
「はい、どうぞ」
マヒロはありがとうと言って、満足そうな顔をした。微妙な表情の変化だが、マキはそれを見逃さなかった。心が、抱きしめられて傷ついた。
「お前からは連絡するな。バレるといけない」
「分かってますよ。でも、そうなったら、俺はずっとマヒロ先輩からの連絡待ちですけど……、それって何も送ってくれないんじゃないですか」
マヒロは口を少しも開くことなく、マキをじっと見つめた。
「わあ、やっぱり?」
マキは苦笑を浮かべて言った。マヒロは少々気まずそうにしていた。
「マヒロ先輩、ほんと不器用だからなぁ」
「不器用ということに関しては、大差ないだろう、お前も」
「はは、ほんと直球で言いますよねぇ…………」
マキはヘラヘラと笑って頬杖をついた。
「……じゃあ、一日の報告してくださいよ」
「報告?」
「その日の終わりに今日はこういう日だったって送ってください。日記みたいなものです。簡単でしょ?」
「…………分かった。それなら、俺でもできる」
マヒロはそう言ったが、腑に落ちない様子でマキに尋ねた。
「だが、お前はそれでいいのか」
「一日一回、必ず連絡が来る。……それって結構嬉しいことじゃないですか?」
マキは自分の意見として伝えるのを怖がって、あえてマヒロに尋ねた。マヒロは、小さく頷く。
「……つか、俺に、それ以上のこと送ってもらえる権利ないですし。…………マヒロ先輩にとって、俺ってただの元後輩でしょ」
マキは酒をぐいと飲んでそう言った。それは、マヒロを突き放すような意味を含んでいながら、マヒロを抱きしめるような言葉だった。
「…………お前は、本当に優しい奴だな」
マヒロはそう言って、困ったような、苦しそうな、そんな顔で笑った。
「……本当に優しい奴は、相手が苦しむだけだって分かってんのにわざわざ会いに行ったりしねぇんですよ」
「……お前に苦しめられるのは、案外楽しいものだ」
「…………趣味悪い」
マヒロはふっと笑みをこぼすと、さっと仕事に帰っていった。マヒロが残していった酒を飲みながら、マキは自分の携帯の着信履歴を眺める。
「お兄さん」
「へぁ」
「ごめんごめん、驚かせた?」
いえ、と言いながら、マキは携帯を伏せる。目の前に、白髪頭の老人が立っていた。
「お兄さん、マヒロくんの知り合い?」
「え、あ……えっと……」
「言いたくないなら言わなくていいよ。私はシズ。ここのオーナーみたいなものだ」
「は、はあ……」
シズはケラケラと笑って、マキの肩を叩いた。
「いやいや、君が来てから、マヒロくんが随分変わったから、気になってね」
「あの人が?」
「……マヒロくん、ここに来たばかりの頃、酷かったんだよ」
シズは声をひそめる。騒がしい店内で、この人の声が聞こえているのは、おそらくマキだけだろう。
「腕も足も身体も、あざだらけで傷だらけ。何を聞いても言っても無感情。仕事はちゃんとやってくれるんだけど、自分の意志を持って何かしようって気が全くなくてね」
マヒロはかつて、確かに無愛想な人だったが、決して無気力な人ではなかった。しっかりとした自分の感情と、強い意志を持っていた。だから、マキはいつも、彼の言葉に惹かれたのだ。
話を聞くうち、マキの頭は下がっていった。
「とにかく、何を言われても抵抗しないし、人に何をされてもいいって感じでね。変な客がつくし、キャストからは『あの子のせいで客が暗黙のルールを守らない』って怒られたりね。……本当、少し怖いくらいだったよ」
マヒロは、どれほどの暴力に耐えてきたのだろう。誰かに自分が壊されてしまう前にとマヒロがやってきたあの夜が思い起こされる。彼は本当は、何がしたかったのだろう。
「……マヒロくんの名字聞いたときは驚いたよ。この辺りを支配してる、名門一族の名前じゃないか。それも、良くない噂が絶えない、ね」
「…………そうなんですね」
マキは静かに言った。なんだか無性に腹が立った。
「君が来てから、彼、変わったよ」
「……そうですか」
「きっと、彼にとって、お兄さんがよほど大きな存在だったんだろうね」
マヒロが生を取り戻しつつあることが、いいことなのか悪いことなのか、マキには分からなかった。
シズは目を細めて笑う。
「…………よかったよ。あの頃のマヒロくんは、本当に空っぽみたいだった」
ずっと空っぽでいられたら、彼はきっと楽だっただろう。何にも囚われず、何も感じず、ただ、呆然と時が過ぎ、朽ちていくのを待つだけの、そんな人生。
痛みや苦しみに耐えながら死んでいくより、よっぽどマシだろう。
「……あの、あの人、なんて言ってこの店に入ってきたんですか?」
「……ああ。『家にいると自分が誰だか分からなくなる』って言ってたよ」
マキは俯いた。あまりにも残酷な答えだった。
「……また来てね。マヒロくんもいるし。他の子たちも君が気になるみたいだよ」
シズはそう笑った。マキは首根っこを掻きながら、居辛そうに目をそらした。
『6時起床。マキと会った。2時就寝。』
ピロンと鳴った通知音に誘われて、携帯を開く。画面に表示された機械的な文字を見て、おやすみくらい言えないものかと、マキはこの不器用な人を愛おしく思った。
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