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アナウサギとヒョウ 第一話

アナウサギとヒョウ編 第一話「うさぎとフリルとリボン」  トキ・タチバナは、かわいいものが好きだった。ぬいぐるみやお菓子が大好きで、包装用の赤いリボンや手芸屋に並べられたフリルに強く心惹かれた。 「トキ、はぐれちゃうよ」 「にいちゃ」 「なに?」  トキは小さな手のひらで、おもちゃ屋のショーケースを叩いた。 「うしゃい」  トキは癖毛を揺らして、にこにこ嬉しそうに笑う。マキもトキと並んでショーケースを眺めて、にこりと笑った。 「うん、うさぎさんだねぇ」 「ほしいの?」  父が、二人を振り返って、そう尋ねる。トキは笑顔で頷くと、父にすり寄った。 「ずるい、マキもほしい」 「うーん、母さんに『おもちゃかいすぎ』って怒られるかもなぁ」 「トキうしゃいしゃんほしい」 「マキも! マキも!」  父は苦笑いを浮かべて、愛しい我が子のおねだりを聞いた。二人が買ったぬいぐるみは、全く同じものだったので、店員がリボンを巻いてくれた。マキのうさぎには青、トキのうさぎにはピンクのリボンが巻かれた。  帰り道、トキは、飽きもせずぬいぐるみを見つめながら、大切そうにそれを抱えて歩いていた。マキの方は眠い疲れたと駄々をこねたので、うさぎは父の右手に預け、腕の中で眠っている。  大通りに入ったとき、突然、父とトキの間に、人が割って入ってきた。トキは、あっと声を上げて、父の手を掴もうともがく。しかし、手は届かず、父はあっという間に人混みの中に消えてしまった。 「ぱぱ、ぱぱ……!」  トキは、人混みに揉まれながら、小さな声で泣きだした。しかし、大声など、産声以来発したことがないような子どもだったトキは、どんどん遠くへ離れていく父の姿を見ながら、ただ震えることしかできなかった。  えぐえぐ泣きながら、トキは道端に座り込む。道行く人の中に、立ち止まる人はいない。トキは服の袖で目を擦り、生まれて初めて感じた、強い寂しさに打ち震えた。 「ぱぱぁ……」  トキが俯いて泣いていると、目の前に、小さな足が現れた。その足は、指の先から足首にかけて、真っ黒に汚れていた。 「どうしたの?」  そう声をかけてきたのは、ショコラブラウンの髪の、小さな男の子だった。イヌのように垂れたふわふわの耳と、短い尻尾。知らない子だったが、トキは、誰かに見つけてもらえたことに安堵して、また泣き出した。 「ぱぱがいなくなっちゃった……」 「はぐれたの?」  小さな男の子は、辺りをキョロキョロ見回した後、泣きじゃくるトキの隣に座り、優しく背を撫でた。 「だいじょうぶ。さがしてあげる」 「ぱぱ?」 「うん。よっ、と」  男の子は、立ち上がると、いきなり地面を蹴って空へ飛び上がった。と思うと、今度は店の壁を蹴って、建物の屋根に飛び移る。 「わぁ……」  その軽やかな身体の動きは、まるでサーカスやミュージカルのように、トキの目を奪った。トキは思わず、泣いていたことを忘れて手を叩き、その場に飛び跳ねた。  男の子は屋根の上からじっと辺りを見渡していたが、しばらくして降りてきた。 「きみのおとうさんは、これとおなじうさぎ、もってる?」 「…………うん。あおいの、うしゃい」 「ヒトミミ? しっぽ、みじかい? お兄ちゃんがいる?」 「うん」 「こっちだよ」  トキの手を引いて、男の子は歩き出す。彼は、トキよりも一回りくらい小さく、滑舌もよくなかった。しかし、言葉遣いや行動は、妙に落ち着いていて、トキはなんとなく、彼は自分よりもお兄さんだと思った。 「ねえ、きみもまいご? ぱぱは?」 「……うた、ききにきた」 「うた?」  男の子は、黒く汚れた指を、すっと持ち上げた。男の子が指を差した先には、小さなライブステージと、キラキラ輝く少年の姿があった。皆、一様に鮮やかな服を着て、歌を歌ったり、踊ったりしている。 「おれも、うた、うたいたいから」  その表情に、トキはなんだか悲しい気持ちになった。トキが黙っていると、男の子は、ふっとトキを振り返った。 「……あぶないから、つぎは、おとうさんの手、はなしちゃだめ」 「トキね、ぬいぐるみもってたの」  トキはうさぎのぬいぐるみを掲げて、少し笑った。これがあったから手を離しちゃったと言いたいのだろう。男の子はトキを振り返り、小さく笑った。 「かわいいね」 「うん」 「いいなぁ……」  男の子は歩きながら小さな声でもう一度、いいなぁと言った。諦めの表情にも、悲しそうな表情にも見えた。幼かったトキには、それがどういうことか分からなかった。 「ほしい?」 「ほしいけど……」 「おもちゃかいすぎって、おかあさんにおこられた?」 「ううん。おもちゃ、もってない」  その言葉に、トキは驚いて、男の子を見て目をぱちぱちさせた。 「じゃあ、あげる」 「なんで? いらない」 「トキ、いっぱいもってるから」  男の子は再び、いらないと口にしたが、トキは勝手に男の子のパーカーのフードにぬいぐるみを突っ込んだ。男の子は、ぬいぐるみをフードから取り出そうと身悶えながら歩く。 「トキ!」  そのとき、優しい父の声がトキの耳に届いた。父は駆け寄ってきて、トキを抱き上げる。トキはわんわん泣きながら、父と兄にしがみついた。  男の子は、遠くで、ぬいぐるみを握ったまま、寂しそうな顔をしていた。彼は特に何も言わず、するりと人をかき分けて、どこかへ行ってしまった。 「……トキ、ぬいぐるみは?」 「あげた」 「だれに?」 「あのこ」  トキは人混みを指さしたが、当然、もうそこに彼はいなかった。父はトキの話を聞いて、心底不思議そうに首を傾げていた。  数年後、トキは、イーストシティの学校の初等部に入学することになった。トキにとって、初めての集団生活である。イーストシティの初等部入学年齢は、満九歳。それまで家族以外とはほとんど関わりのなかったトキは、新しい環境に、不安でいっぱいだった。  その日は入学式だった。新しい仲間の中、トキは新品の可愛らしい服に身を包み、やや緊張した面持ちで、自分の席に座っていた。小さな椅子と小さな机に挟まれ、ドキドキと胸が高鳴る。  教室では、自己紹介が行われていた。名前と、将来の夢を発表するという簡単なものだ。教室は、和やかながら騒がしく、トキは少し居心地が悪かった。  とうとう自分の番になり、名前が呼ばれる。トキは大きな声で返事をして、すっと立ち上がった。 「トキです。トキ・タチバナです。将来の夢はお医者様です。おねがいします」  ぱらぱらと拍手が起こる。トキは、お上品に頭を下げて席についた。挨拶は、家で何度も練習した。その成果を発揮でき、トキがほっと胸をなでおろしたのもつかの間、斜め後ろの席の男児が、トキを指差し、ケタケタ笑いだした。 「なんだよその服! にあわねぇ!」  トキはドキッとして、驚きのあまり、その男児の顔を凝視した。生まれてこのかた、かわいいかわいいと持て囃されて生きてきたトキにとって、それはあまりに衝撃的な一言だった。身体は固くなり、ぴくりとも動かせなくなった。  クラスの視線がいっぺんに自分に集まり、トキは頭が真っ白になる。確かに、少し平均より背は高いし、顔はかわいいというよりはかっこいい方ではあったが、そんなふうに言われるとは思っていなかった。兄が入学式で着ていたスーツが嫌だというトキのために、父と母が買ってくれた、お気に入りのワンピースだ。これまで何度も袖を通したが、今日初めて日の目を見た新品だったのだ。  トキは顔を赤くして、少しだけ俯いた。 「……いいの。おれはこの服が好きなの」  耳や尻尾はしょげ、声は弱々しかった。周りの親も、チラチラと顔色を伺っている。トキの母は、何も言わず、ただまっすぐ息子の姿を見つめていた。 「好きだからとか関係ねーし! 似合ってねーっていってんの!」 「こ、こら、ハルトくん。嫌なことを言っちゃだめですよ」  やんわりと咎める教師の声など気にもとめず、彼はゲラゲラと笑った。この場で誰も自分を助けてくれないのは、この服が似合わないのが本当の事だからなのだと、トキは思った。トキは、ただおとなしく俯き、自分の番が過ぎるのを待った。 「じゃ、じゃあ、はい。次は……あ、メルツくん」 「……はい」  消え入りそうなほど小さな声で返事をしたその子は、ガタリと椅子を引いて立ち上がった。新品の服にボサボサの頭がミスマッチで、俯いた姿はどこか気味悪く、その子の身の回りや、その子に向けられる大人たちからの目線は、わかりやすく異常だった。 「……メルツです。……大きくなったら……、アイドル、になりたいです。…………よろしくおねがいします」  その子は俯いたままそれだけ言った。トキは体ごと後ろを振り向いたまま、その子の顔を見上げていた。 「きったねェ!」  座りかけていたメルツはピタリと動きを止めた。 「こんなとこ来てんじゃねぇよ、地下ウサギ!」 「あ……、ハ、ハルトくん……! そんな話をしちゃいけません!」  「そんな話」。その言葉に、そこにいた獣人(にんげん)たちは、皆、確信した。  メルツは、アンダーシティの子どもだった。アンダーシティには学校がないが、子どもにどうしても教育を受けさせてやりたいと、地上の学校に通わせている地下の親も、戦後少なくない。特にイーストシティの学校は、首輪が無かろうと地下の獣人だろうと、学費さえ払えば、基本誰でも入学することができた。 「あの子、どこの子?」 「しつけがなってないなぁ」  アンダーシティというタブーに、子どもが触れたことに関しては、さすがの保護者たちもざわめき始めた。教師は、ハルトという男児の暴言を窘めようとはしない。正常な獣人にとっては、アンダーシティの話題を出したことが悪いのであって、暴言は悪いことではないからだ。 「じゃあ次……」  教師は、何事もなかったかのように進行を続ける。メルツは静かに席につき、ずっと俯いていた。茶色の長い髪のせいで、表情が分からない。しかし、彼の机の上に雫の落ちるのを見たトキは、我慢できず、声をかけた。 「…………メルツくんっていうの?」  メルツはビクリと肩をゆらして、ゆっくりと目だけトキに向けると、そうだよと小さく言った。 「アイドルになりたいの? 確かに、すごくかわいいもんね」 「…………」 「おれね、トキっていうんだよ。漢字もついてるよ。刻むって書くんだよ。刻むって、すごくいいことをした人が、『れきしに名を刻む』っていうときにつかうんだよ」 「……うん」 「メルツくんは、漢字ある?」 「ううん」  そのとき、メルツの後頭部に、コツン、と何かがぶつかった。大きなボタンだ。 「……大丈夫?」  トキがメルツの肩に触れると、メルツは、悲しそうな、悔しそうな顔をして、涙を堪えていた。 「ゴミが」  大人のうちの一人が、ぽそっと呟いた。周りの大人たちは誰も何も言わず、教師ですら、その現場を見過ごした。メルツはただ一人俯き、静かに、その視線が自分から離れるのを待っていた。  その時、突然トキが立ち上がった。ガタリと椅子の音がして、一瞬、空気がひりついた。 「……くだらない」  トキは一言呟いた。背後に立つ大人たちを端から端までじろりと見て、ゆっくりと立ち上がる。メルツに投げられたボタンを拾い上げ、彼は歩き出す。 「大人のくせに」  トキの言葉に、動きに、空気が冷える。トキは、一人の大人をまっすぐに睨み付け、一言そう呟いた。睨まれた大人は、突如顔を真っ赤にして怒り出した。しかしトキは、それに一切怯むことなく、男の前に立つと、その胸に、拳を押し付けた。 「こどもに物を投げるなんて、恥をしれ!」  小さなトキの手のひらから、ボタンがカツンと落ちたとき、男は膝をついた。  トキは、子どもらしからぬ鋭い空気を纏っていた。大人も子どもも、誰一人声を上げなかった。  入学式の日程が全て終わったとき、トキとメルツは完全にクラスから浮いていた。皆が彼らを遠巻きにする中、トキは、早々帰ろうとしていたメルツに声をかけた。 「ねえ、メルちゃんって呼んでいい?」 「……なんで俺に声かけるの」  トキはにこにこと笑っていた。メルツは長いまつげを伏せて、彼から目をそらした。 「……さっき、庇ってくれてありがとう」 「ううん、いいの。お礼だから。あのね、おれね、トキっていうんだよ。よろしくね」 「……俺と話するのやめたほうがいいよ」  その時、トキ! と、母親の声がした。やってきた母親は、トキのそばに来るなり、いきなりトキの頭を小突いた。メルツが、ほらね、と言わんばかりの顔でトキを見る。しかし、トキの母親は、メルツの予想に反し、息子の頭を二、三優しく叩きながら、ケタケタと笑った。 「凄いじゃんか! よく言った。トキが言わなきゃ、危うく俺の手が出るところだった。よかった。俺の手が出たら大変だからな」  メルツは面食らって、口を開けたまま黙り込んでしまった。 「父さんに怒られるかな」 「どうして? トキは悪いことをしたの?」 「……おとなに暴言吐いたから」 「あれは暴言じゃなくて正論だから大丈夫。お前は強い子だなぁ」  トキの母親が、トキの頭を撫で回していると、冴えない顔の男が、後からのそのそとやってきた。 「トキ、大丈夫?」 「何が? 父ちゃん」  トキはきょとんとした顔で首を傾げた。トキの父は、安心したように笑うと首を振り、トキの肩に手を置いた。 「嫌なことを言われたら、ちゃんと嫌だと言いなさい」 「言ったよ! いいの、最初通じなかったら、それ以上言っても意味ないもん」  父は苦笑をこぼしてトキの頭をなでた。 「うちの子はみんな、血の気が多くて心配だ……」 「ははっ。お前にそっくりだね」 「君に似たんだと思うけど」  トキの父と母は、顔を見合わせ、クスクスと笑う。それから、トキの父はゆっくりとしゃがみ、メルツと目線を合わせた。 「やあ、メルツくん。はじめまして。俺はトキの父です。今日は……お母さんか、お父さんは?」 「……き、来てません。仕事で、今日は、家には帰ってこないって……」 「そうかぁ。……それなら、今からご飯を食べるんだが、一緒に来るかい」  メルツは、驚いて固まり、反射のように首を横に振った。――なんだ。今、この人は何と言ったんだ?  メルツが混乱していたら、今度はガラリとドアが開いて、ずかずかと上級生が二人やってきた。 「大丈夫か、トキ! なんか言われたんだろ。廊下通ってた奴から聞いたぜ」 「……兄ちゃん」  入ってきたのは、トキの兄のマキだった。横には、彼の友人のスピカも立っている。マキはトキの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。 「その服、やっぱりトキによく似合うなぁ! かわいいなぁ」 「……スピくん、かわいい?」 「うん、かわいいね」  スピカが呟く。メルツは、ほとんど表情を変えないスピカが、アンダーシティでよく見る獣人たちとよく似ている気がして、少しだけ怖かった。 「スピカくん、久しぶりだね。一緒にお昼ご飯食べないかい」 「いえ、俺は……。仕事があるので」 「……そうか。大変だな。何かあったら遠慮なく頼ってね」  マキの父はにこりと笑った。それから、今度はメルツを振り返る。 「メルツくんはどうする?」 「…………俺、は……」  メルツは誘いを断ろうとしていた。自分のような地下の獣人が、普通の獣人と共に飯を食うことなど、許されないからだ。  誰とも関わらず、誰とも会話せず、目立たず、何を言われてもされても、ただ静かに勉強をすること。そうすれば学校に通えると、母は教えてくれた。 「おれ、メルちゃんとご飯食べたいな。うちにおいでよ。一緒に遊ぼ」 「……本気で言ってるの……?」 「うん。あのね、すごくかわいいお洋服があるんだけど、おれはもう小さくて着られないから、メルちゃんにあげる」  メルツは驚いて、固まってしまった。今まで生きてきて、アンダーシティの子どもを平気で家に招こうとしたり、服を与えようとする獣人など、見たことがなかった。メルツは、この家族は異常だと思った。頭がおかしいのだと本気で思った。  けれど、生まれて初めて自分に差し出された手を、払い除けることは、したくないと思った。 「いいの……? 俺、地下の獣人なのに……」 「そんなの関係ないよ!」  そう言い、あっけらかんと笑うトキの笑顔は、眩しかった。 「きっとメルちゃんに似合うよ。だって、メルちゃんすごくかわいいもん」  トキは独特な人だった。メルツは彼に、心から救われた気がした。

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