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第53話
甘い蜜のような誘惑に顔を上げた咲也へ手を伸ばした時、凛とした厳しくもあり余裕を含む飄々とした良く知る声が耳を打った。
薄っすらと開かれていた玄関の扉がゆっくりと開き、姿を見せたのは門倉家嫡男の優一とたった今、話に持ち上がった九流家三男の渉だった。
まさかの二人の登場に咲也のみならず千堂も息を呑む。
「こんにちは。千堂さん」
整った美貌が優美な笑顔で挨拶をしてくる。
先ほど、咲也には告げなかった。いや、告げられなかったのだが、実は咲也から依頼を受けるなと渉よりも先に沢山の枷を与えられ、一癖も二癖もあるキレ者の優一と契約を結んでいたのだ。
「……こんにちは」
顔には出さぬが、内心焦りに駆られる千堂は優一をゆっくりと見つめる。
「俺との契約、覚えてますか?」
静かに聞かれた質問に千堂は固まった。
その一、弟の依頼は受けない。
その二、弟に触れない。
その三、弟と関わらない。
その四、この依頼を弟へ明かさない。
その五、白木綾人に関して何一つ行動を起こさない。
これらが優一が千堂へ課した契約事項。
そして、その対価は政界で昨今を賑やかせるスキャンダルに揉まれて苦しむ議員の身の潔白を証明する裏工作の手伝いをすることだった。
どう転んでも黒の議員の潔白を優一はあの手この手を使って千堂が望む通りの仕事をこなし、その対価を支払った。
この仕事は千堂すら諦めていた事から、これらに対してかなりの労力と金銭、そして人脈を駆使して成し遂げた優一の仕事っぷりに尊敬した。
それと同時にこの門倉優一だけは絶対に敵に回したくないと千堂は再認識もさせられた一連の出来事となった。
「冗談だよ…。君の弟に手は出さない」
両手を挙げて降参の意を見せる千堂に優一はにっこり微笑む。
「分かってるなら良かった。あんたとはより良い関係を築いていきたいんでね」
意味深な牽制を込めた言葉に千堂はゴクリと喉を鳴らして身を引くと小さく頷く。
その決意を確認すると優一は一緒に来ていた渉へ目配りして踵を返した。
「兄様!」
背中を向けて去ろうとする兄に咲也は自分が侵そうとしていた企みが明るみになった事に青ざめた。咄嗟に兄を呼んで止めるものの、後に続く言葉が見当たらない。
ゆっくりと振り返り、自分を見下ろしてくる兄の瞳はとてつもなく冷たくて咲也は途方にくれる思いに駆られた。
「咲也、話がある。寮へ戻ったら俺の部屋へ来なさい」
たった一言、これだけ言い残すと優一は振り返る事もせずそのまま帰って行ってしまった。
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