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銀の女と廃墟の泥
タイラさん暇でしょちょっと付き合ってほしいんだけどー、なんて、コンビニかスーパーにでも誘うみたいな気軽さで言われて酸欠でぼけーっとしていた俺はうっかりノータイムで頷いてしまった、のが敗因だった。
いやつーかまず酸欠ってのがおかしいだろ。なんで自宅で酸欠状態になんだよ。いやナガルが朝っぱらから元気にディープキスしかけてきやがるからだけどさ……。
嫌なら抵抗しろ、ってのは、ナガルに関しては正直無意味だ。
勿部ナガルは基本的に他人の話なんか聞いちゃいない。タイラさんだいすきーと笑う顔のまま、俺の罵倒をひょいひょい聞き流していく。こいつのだいすきはそのまま、ただそのままの意味しかない。そう、『勿部ナガルは鎌屋平良が大好きである』というそれだけの意味しかないわけだ。
好きな人を尊重しようとか、嫌われないようにしようとか一切思っていない。全く、微塵も思っていない。ていうかナガルの『だいすき』はイコール『嫌われたい』というわけのわからん等式になってるからもう俺も深く考えることをやめた。
職業柄、というか、育った環境のせいか元の性格なのかわからんけど、俺は他人の言動に敏感だ。
なるべく嫌われたくないし、好かれたいとは言わないが距離を取られたくない。誰かに遠回しに、またはストレートに嫌悪をぶつけられるのは嫌だ、こわい、避けたい。だから人の感情を考える。言葉の裏を考える。書いている登場人物の言動も、一貫性を持たせるためにわりとしっかり頭を捻る。
けど、ナガルの言動と感情は一切理解不能だ。
わからんもんは、考えても仕方ない。心配しても仕方ない。
天気予報で予想できる範囲なら予防できても、明日起こるかもしれない大地震なんて常に心配しているわけにもいかないだろう。そんなかんじだ。どうにもならないことに、あーだこーだと策を講じても仕方ないので、結局俺はナガルに関しては『もうどうにでもなれ知らん』というスタンスを取ることを選んだわけだ。
自暴自棄と言ってもいい。
まあでも、こいつが転がりこんでから一週間、ママはめっきり姿を現さなくなったし、家の中のヤバい霊障もすっかりなりを潜めた。
目につくやつは片っ端からナガルが除霊してくれたし、新しく寄らないようにと毎日塩を盛ってくれている。朝になるとどろどろに溶けてるし、ナガルすげー嫌そうに『くっそつよーいきらーい』とか言ってるけど。でもまあ、今のところ格闘してくれているし、若干ナガルが勝ってるっぽい。
快適。そう、これが快適っていう感覚なんだ、と久方ぶりに感動した。
一人暮らししていたときも、一応霊障とは無縁の生活だったけど。
でもあんときは、『本当にこれでいいのか』とか『俺だけ逃げても母さんどうすんだ』とか、そういう不安も付きまとっていた。
きちんと対処したうえで、目に見えて霊障を抑えられている。その事実は、俺の心労を相当軽減したらしい。
このところ寝つきもいいし、目覚めもいい。いや寝るときはナガルを布団の中にいれない攻防戦で必ず力尽きるから、気絶みたいなもんかもしれんけど、いやそれが理由だとしても爽快な目覚めだからもうどうでもいい。うん。
さっぱりした朝を迎えると前夜の決死の貞操死守攻防も『むしろいい運動では?』くらいに思える。
二日に一回は戦いに負けて若干エロいことされて寝落ちて朝から絶望するけど。まあ、いいわ。いまんとこ、ケツの純潔は守っているし、ちょっと手で抜かれるくらいだし、と自分を慰めることにしている。
死の恐怖に比べたら、なんかもう全部些細なことだ。
メシちゃんと食ってるからかもしれないし、酒あんま飲んでないからかもしれないけど。
自称料理上手の男は、腹が立つことにマジでメシがうまかった。
いや、マジでなんでアイツ、人格以外は完璧なんだろう……。歴代同居人であんまり文句あるような奴はいなかったけど、その中でもダントツ家事レベルが高い。
一人だとやんないよーと言いながら、こまめに掃除洗濯料理をこなしていく。嫁かよ、と思ってしまったがどんな反応されても嫌だから言わなかった。
ちょっと、気を抜いていたんだ。自覚はある。
人間ってやつは現金なもので、過去の記憶は段々と薄れてしまう。あんなに毎日きつかったのに、最近はユーレイってどんな見た目だったっけ? くらいに思っていた。あとナガルの性格と職業完全に忘れていた。
こいつは見た目と家事スキルは完璧だけど人格と性格が意味不明すぎる方向にクソな、ユーチューバー兼除霊師だった。
根が真面目な俺は、付き合うってどこだよホームセンターか? 足りない家具でも買うの? 電気ケトルほしいっつってたけどそれ?
なんてぽやぽや考えながら適当な服に着替えて(ベルトも忘れなかった)、適当に髪の毛括って、適当にスニーカー履いて玄関出た瞬間家の前に止まっていたすげーアヤシイ青いスポーツカーに問答無用で押し込まれた。
後部座席せっま!
いや俺百七十七あんだけど! ナガル程じゃないけどそこそこ足長いんすけど!
なんて抗議は勿論口からは出て行かない。
俺はなんつーか……大体一人で生きて来たし引きこもりだし外とか出ないし他人と会うときは大概家ん中だから一対一だし、要するに外の世界と知らん人間と意味わからん状況にすげー弱い。
一瞬でパニックになって『なんで? なに? ていうか運転席の銀髪のおねーさん誰?』って疑問がやっと途切れ途切れの言葉になったのは、いつのまにか高速道路に乗ってからだった。
ええ……待ってマジでどこに行くのこの車。絶対ホームセンターじゃないことだけはなんとなくわかるけど。
「アハ、タイラさん相変わらずアクシデントに激ヨワだよねぇ。おれ以外の人間に拉致られたらだめだよー?」
助手席でしっかりシートベルトをしたナガルが軽く振り返って笑う。こいつは相変わらずいつもどおりのぶっこわれた笑顔だ。
「いやおまえ以外に拉致られる予定も可能性もねーよ……同居人拉致んな、シャレになんねーからおまえ」
「ふふふふほんとだー笑えない冗談っぽーい。ま、うちの親父は拉致っていうかまず仲良くなってから自発的についてきてもらうみたいなアレだったけどねーたぶん」
そうなのかそれも初耳だからやめてほしい情報だ。ていうか煙草咥えながらギュンギュン車飛ばしてる彼女は、その辺の話を知っている人なのか。
銀髪、咥え煙草、暗い色のネイル、ぴったりとした洋服、やせ型で背は高い。バックミラーに映る顔は、サングラスのせいでよくわからないが、愛想のいい人間には見えなかった。俺に言われたかねーだろうが。この車内でにこにこ笑っているのは、たぶんナガルだけだ。
「えーとなんだっけ? どこ行くかってきいた? おれの仕事、ちょっとタイラさんに手伝ってもらいたいから拉致っただけ。場所はえーと……どこだっけ藍ちゃん?」
「群馬。あんた自分の仕事の情報くらい覚えなよ」
「えー面倒くさい。おれあんま記憶力とか自信ないし、いちいち依頼の情報確認すんのも面倒くさいもん。場所は大体藍ちゃんが把握してっからいいでしょ」
「よくないっつの。てかモノル、後ろのせんせーになんも説明してないの……」
「ん? せんせー? あ、タイラさんのこと? あ、小説家だから? いいね、せんせーって響き。なんかちょっとえろい。タイラさんせんせーって感じ微塵もしないけどね?」
うるせー悪かったなどうみてもクソニートで。と反論する前に、煙草の煙をすうっと吸い込んだ銀髪女子(つっても俺と同世代くらいだ)が、ふーっとナガルに煙を吐きかけた。
「うわっ、ちょ、ごほ……っ、わ……藍ちゃん、ひっど!」
「他人と同居するってーから、ちょっとは人間になったのかと思ったら相手に全依存してんじゃねーっての」
……まっとうだ。
まっとうすぎてなんか変な声が出そうになった。まさか、ナガルの知り合いでまっとうな人間が出てくるとは思っていなかった節がある。つか、知り合いとかいたんだ……ということにまず驚いている自分がいる。
まっとうすぎる銀髪女子は、サングラスをちょこっとずらしてバックミラー越しに視線を寄越した。
「すいません、話は通ってるもんだと思ってました。ちょっと過信しすぎた。あー……えっと、わたしは藍川ってもんです。故あってっていうか縁が切れなくてモノルのアシみたいなコトしてます。こいつ車ないんで」
藍でいいですよ、とぶっきらぼうに呟く彼女に対し、俺も一応自己紹介をする。自己紹介っつっても『一週間前に押しかけられて同居している小説家です』以外に、言うことがない。
仕方なくそのまま告げると、お察ししますと同情された。
藍さん、非常にまっとうな人だ。なんでこんなまっとうな大人がナガルのアシなんかやってるのか、あまりにも不思議でならない。
とんでもねー速度で走る車は、いつのまにか高速を降りて、いつの間にか山道に差し掛かっていた。
群馬って言ってた? 言ったよな?
正直修学旅行以外で遠出したことない俺にとって、群馬県でさえ未開の土地だ。つか群馬ってこんな一瞬でつくのか? そういうもんなのか? 思いのほか近いのか、藍さんが飛ばしすぎてたのかどっちだろう。
ガンガン山道に踏み込むスポーツカーは、時折道を譲り合いながら進む。そのうちに対向車なんか一切来ないような道になり、ついに車は砂利道手前で止まった。
こっからは歩きだから、と言われて車から放り出される。
どうも藍さんは本当にナガルを運ぶだけで、仕事には同行しないらしい。
叫べばまあ聞こえるだろうからいざとなったら叫べ、と言われ、恐る恐る確認したスマホの電波は圏外だった。
久しぶりに見たな……圏外表示……いや俺、家からまじで出ないからさ……。
よく考えてみたら俺は財布すら持っていない。スマホひとつ(尚現在圏外)でこんなところで放りだされたら、それこそガチで死んでしまうだろう。
夏ならワンチャン自力で下山できるかもしれないが、生憎と現在真冬だ。家んなかでもこたつとストーブ必須な季節だ。
太平洋側とはいえ、標高の高い山奥はシンプルに寒いし、適当にひっかけてきた防寒具だと若干きつい。いや、だって、いきなり山んなかに来るとは思わないじゃん……?
「じゃ、いこっかー。えーとこっちかなぁ?」
手にした紙をぐるぐる回しながら首を傾げるナガルが不安で仕方がない。
こいつ、家事は完璧なのにまさか方向音痴じゃないだろうな? 自慢じゃないが俺は地図読めねーぞ。ほんと自慢じゃないが。……おまえなんか有益な特技あんの? って言われたらなんも言えない気がして辛くなってきた。
俺の不安をよそに、森の奥へ続いていたのは一本道だ。
とりあえず迷う要素はない。最悪この道を引き返せば、藍さんの車にたどり着けるはずだ。
いざとなったら走る準備だけはしておく。俺の微々たる体力でどこまで走れるかわからんけど。ナガルは知らん、勝手に逃げんだろ。そう思ったのに、決意空しく俺の左手はナガルの右手にがっつり捕まってしまった。
ぎゅっと握られて指を絡められてしっかりばっちり拘束される。
見上げた男はいつもの人間ぽさ皆無の笑顔で、首を傾げた。
「タイラさんの手、つめたーい。血行わるーい」
「っせーよ嫌なら離せなんだよ急に……てかここ何処だよ……」
「え? 群馬だよ? 群馬のねー、えーと、どこだっけかな。場所とか覚えるの面倒だから、大体藍ちゃんに丸投げしちゃうんだよね、おれ」
「……藍川さんて、おまえの助手?」
「んんー。そういうわけでもないんだけど。藍ちゃんが暇なときは手伝ってもらうかんじかなぁ」
結局藍川さんがナガルにとって何なのか、ナガルが藍川さんにとって何なのかさっぱりわからん。でもまあ、別に知らなくても問題ないか俺には関係ないもんな……と飲み込むことにして、俺の手をぎゅっと握る手を振りほどくことに集中する。
デカくて細くて強い指は、一切離れてくれないけど。
「藍ちゃんさーいいでしょ。嘘つかないんだよ、あのひと」
もっかいぎゅっと手を握られて、その強さにひゅっと息を飲む。
「おれさ、ほら、生い立ちがアレじゃん? 自分では別に、どうも思ってないけどさ、あの話すると大体みんな同じこと言うの。『名前でおまえの人生が決まるわけじゃない』とか、『おまえは父親とは別の人間だ』とか」
ああ、まあ……言うだろうな、と思う。俺だって相手がナガルじゃなくて適当な知り合いだったらそう言うんじゃないかと思う。
そしてそれは大概、真実ではないんだろうな。悪気がないとしても、優しさだったとしても、それはナガルが嫌いな『嘘』だ。
「死ぬほど聞いてきたけどね、その言葉。もう飽きたなーってくらい。でもさ、名前とか関係ないってほんとに思ってんの、たぶん、藍ちゃんだけなんだ」
だから好き、とナガルは笑い、俺の手をぶんぶん振る。痛い。シンプルに痛いからやめろと言うと、タイラさんは口から適当な嘘つかないから好きだよとまた笑った。
……いや俺は、普通にお前が怖すぎて余計な事言わんようにしよ、と思ってるだけだ。
つーかマジ離してほしい。
何が悲しくて群馬の山奥で男同士で手を繋いで歩かなきゃなんないんだ。いくら俺がゲイだろうと、ナガルの見た目が好みだろうと、周りに人が皆無で周囲を気にする必要が皆無だろうと、コイツと手を繋いで得な事など何もない。微塵もない。……ないったらない、本当だ。
誰かと手を繋いで歩いたのいつ振りだろ、とか考えないようにどうにか視線を上げようとしたところで、隣のナガルがぴたりと足を止めた。
普通に歩いていた俺は、引っ張られるように足を止める。
「ついたよ、タイラさん。ここ、今日の仕事場ぁー」
「…………きょうの、しごとば……?」
正気か?
と思って声を失ってしまったのは、目の前のあまりにもド定番心霊スポット廃墟感に完全に気おくれしてしまったせいだ。
仕事っていうからまあ、そういうところに連れていかれてるのかなとは思っていた。
一番嫌なのはトンネルだ。逃げ場がないしシンプルに暗い。
次は橋と滝。自殺スポットは絶対に出る。間違いない。絶対に行きたくない。水場は特に行きたくない。
そして三番目に行きたくない心霊スポットが――病院だ。
「…………療養所……か?」
目の前で絶賛朽ちていく最中の廃墟は、病院というよりは入居施設に違いような気がする。サナトリウムっていうのか? だいたいこんな山奥に救急車が病人担ぎこんでくるわけもない。
「えーとね……山我峰療養地、だったかな? 噂だと精神病の人たちが隔離されてたとこだってさ」
「せいしんびょう…………」
「わータイラさん嫌そう。そういうの、差別じゃなーい?」
「うるせーよ嫌なもんは嫌だよ、幽霊ってだけで言葉なんか通じねーのに心の病の人なんかもっと意思疎通できねーだろうがよ……」
「まーね。そういう病気だから仕方ないよね。どんなに同じ人間ですものーって言っても、やっぱり病気の人は『病気の人』ってカテゴリだし、『普通の人』とは違うもんねー。たぶんおれもタイラさんもふつうのひと括りじゃないけどね?」
「一緒にすんな。俺は除霊師でも怪談ユーチューバーでもねーよ」
「でも、おれよりしっかり見える」
ぎゅ、と手を握られる。その強さに思わず眉をしかめるが、ナガルは相変わらず壊れたように笑うばかりだ。
あたりはうっすらと湿った臭いが充満している。山のにおいじゃない。もっと陰気で、気持悪いカビくささ。
療養所跡はすっかり崩れていて、玄関なんかないも同然だった。カウンターか受けつけか知らないが、真っ黒に汚れた机が野ざらしになっている。
二階の窓もガラスなんかひとつもない。ぽっかりと空いた空間に、黒い廊下が見えた。
……黒い。とにかく黒い。どこもかしこも、不自然なくらいに、黒い。
火事か? まあこんな山奥で火が出たら消火も間に合わないよないつの時代の建物か知らんけど。と目を凝らしてしまい、秒で後悔して思いっきり視線を逸らして俺の方を見て笑うナガルとばっちり目が合った。
「……見えたぁ?」
ナガルは笑う。ぶっこわれたオモチャみたいに笑う。こいつはぶっ壊れたオモチャだから、仕方ない。
「てーかやっぱアタリだった! すご! うっわーくっきり見える! タイラさんこんな視界で生きてんの? やば。うはは、よくいままで健康に過ごしてきたねぇ!」
「何……言っ……」
「おれね、気付いちゃったんだよね! タイラさんに触ってるとさ、おれの目もよくなんの」
「――――は?」
「霊感ってうつるって言うよね? 聞かない? そう? おれは聞いたことあるよ、そういうの。だからきっとこれもタイラさんからおれに『うつって』るんだよね。わーほんと……あたまがおかしくなりそうなくらい、よく、みえる」
わはは、と笑う。あまりにも場違いな声が聞こえる。その声の後ろで、不自然な音が聞こえる。ずり、ずり、ずり、と、布を擦るような、何かを引きずるような音。
俺は走って逃げたいのに、ナガルが痛いくらいに左手を握っているからそれができない。ただ、ガタガタと震えて唾液を無理矢理飲み込むくらいしかできない。
見えた。見てしまった。
この廃墟が黒いのは、火事じゃない。
あの黒は、焼け焦げた煤じゃない。
「裏庭に、沼があるんだって」
そして、ナガルは唐突に語りだす。
こんなとこで何言い出すんだよあたまおかしいのか、と怒鳴りたいのに声が出ない。視線も外せない。いま廃墟の方を見たらきっと、またあの蠢く黒を見てしまうだろうから。
完全に理性をぶん投げた俺はやっと、ナガルの除霊方法が『語る』ことだということを思いだした。
ナガルの除霊には話が必要だ。口から語る、言葉が必要だ。
「いまもあるのかなー? もう埋まっちゃってるのかもしんないけど、むかーしこの療養所がふつーに営業してた時はね、あったんだってさ、沼。ちっちゃい沼。すげーちっちゃいんだけど、ヒトって三十センチあったら溺れるっていうじゃん? 意思の疎通があやふやな患者もいっぱいいたから、勿論沼は立ち入り禁止にしてたんだって」
ずり、ずり、ずりり。
音がする。布を擦る、音がする。視界の端で、嫌でも見える。黒が、蠢いているのが見える。窓から溢れんばかりにぎっしりと蠢く、黒い人間。
「でさ、ある日ね、それがいつかは知らないけどある日――入居者のおじさんが体中泥で真っ黒にして帰って来たの。真っ黒。泥って茶色っていうか灰色なのが普通なんだけど、その泥は臭くて真っ黒だったんだって。なんだこれって大騒ぎになって、結局そのおじさんは立ち入り禁止の沼で遊んでたことがバレたんだけどさ。おじさん、カミサマと遊んでたって言うんだ」
ああ、これ、泥なのか。じゃあこの異様なにおいも、その泥なのか。
「カミサマと遊んでた。カミサマにご飯をさしあげてお祈りしてた。カミサマにお願いごとをかなえてもらう約束をした。この病院は嫌いな人が多いから、みんな殺してくれるように頼んだ。カミサマはニタァって笑った、って。きっと殺してくれるんだって。……その一週間後、感染症でほとんどの従業員と入居者が死んだんだって」
カミサマ? じゃあアレが、カミサマなのか? いや、あれはどうみても人間だ。カミサマなんてものには見えない。どれもこれも、ただの人間にか見えない。
のたうち回り、壁をずりずりと擦る人間だ。
「施設の中は、どこもかしこも、臭くて真っ黒な泥でべたべたで、生き残った人間が苦しんでのたうちまわってた。それからこの場所には、黒い人影とか、のたうち回る人間とか、出るんだって話」
「……そ、それ、本当、なのか?」
「ん? んー、どうかなぁ。人間がたくさん死んだのはそうだろうし、黒い泥は本当に裏庭の沼由来かもしんないけどなぁ、カミサマのくだりは怪しいよねーでもまあ、おもしろいんじゃない? 不倫の末ーとか、虐待でーとか言われるよりもエキセントリックで楽しいよね。いつも愛憎劇だとつまんないもの」
「つまんない、とか、そういう話じゃ――」
「だっておれの商売は怪談だからね。毎回毎回こっくりさんしましたーコワイことがありましたーじゃ、みんな飽きちゃうじゃん? 変化球は大歓迎だよーでも前に来た時、おれの目が悪すぎてぜーんぜん見えなかったんだよね。適当に塩撒いてみたけど手ごたえゼロでさ。……でも、いまは見えるから、うまくいきそうな予感するー」
じゃあ行こうか、と笑うナガルに、俺は本気の『は?』を繰り出してしまった。
ナガルは怖い。存在が怖い。だから俺は実はあんま関わりたくなくて、いろんな意味で遠ざけておきたくて、のらりくらりと適当な会話をかましてしまう。
でもこんときは流石に素が出た。
行くってどこに? 行くってなんで?
その俺の問いかけに、ナガルは勿論笑って首を傾げるだけだ。
「え、心霊スポットに除霊しにだよー。おれの仕事だもん」
「な……っ、え? は? いや、一人で行けよ俺待ってるから……!」
「だめー。だってそれじゃ見えないじゃん。タイラさんに触ってないとおれ、アイツらはっきり見えないもーん。パパっとやるからだいじょうぶだよーそんな広くないし。たかが四階建てでしょ?」
「よんかいだて…………」
「わ。ひでー顔。かっわい。ちょ、写真撮りたい……タイラさんその最高に絶望してる顔、すごくいい! かわいい! すごいね? いいね? タイラさんと手を繋いでるといろんなもの見えて楽しい! タイラさんも死にそうになっててかわいい!」
「い、いやだ! 絶対嫌だ! 行きたくない……っ、無理……! だって、あんな……っ、おま、見えてんだろあの二階の廊下!?」
「んー? うん、もさもさいるねぇ。あれ何してんの? 自分の身体壁にこすりつけてんの? あ、この建物が真っ黒なのってあいつらがああやって年中擦ってるからなの? わーすご。きもちわるー。うはは、消し甲斐あるー」
「ちょ……! 嫌だって、言っ……!」
「うーん? ……そんな嫌なら一人でかえる?」
「………………えっ、帰っても良――」
「あそこ、ひとりで通れるならだけどー」
あそこ。
そう言ってナガルが指し示した背後の道には、道幅ぎっしりに無表情の子供が並んで立っていた。
……………いや、いやいやいや、なんだよあれ、今の黒い泥とカミサマの話に、微塵も関係ないヤツじゃなかよあれ。
「幽霊って引き合うっていうか、廃墟って寄せるよねぇ。あれの話しもちゃーんと仕入れてあるから、帰り道でちゃーんと除霊できるよ? どうする? おれと一緒にこの建物スッキリ綺麗にした後、二人で手繋いで帰るかー。……あの子たちの間、ちょっとごめんねーって道を開けてもらうか」
いや……なんか全員上見てるし……なんかガタガタ震えてるし……なんか端っこの奴、口から長いもん出て……え。あれ舌? まじ? いやおかし……無理…………。
「…………一緒に帰る……」
「だよね! じゃ、行こっか!」
語尾に元気にハートが飛んでそうなナガルに引っ張られて、ついでになんか足元から出ていた手を『はい邪魔ー』とはらわれて、こいつほんとどういう精神してんだって意識が遠のきそうになった。
ぎゅっと繋いだ手が、怖いのか頼もしいのわからない。
正直近づきたくないのに、近づかないと自分の身も守れない。ユーレイを選ぶかバケモノを選ぶかの二択で、俺は後者を選んだわけだ。
「わー、しっかし普通にきったないねぇ。藍ちゃんの車汚しちゃいそうー。さっさと終わらせてさっさと帰ってお風呂入ろ。あ、でも今ママ、浴室に移動しちゃったんだっけ? タイラさん、昨日悲鳴上げて出てきちゃったもんねぇ」
「嫌な場所で嫌な話すんなマジ……っ」
「えー。どこで話しても嫌な話なんか嫌なままだよ? じゃ、帰ったら一緒にお風呂入ろっか」
「いやだ」
「わー。即答ー。でもだめー。昨日玄関にたむろってた奴いっぱい除霊したから、おれは感謝されたいもーん」
お風呂ねーと笑顔で約束された俺は阿保だから、『いや今無償で手伝ってるじゃん?』ということに気が付くのは、随分と後になってからだった。
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