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水の女と耳噛む男
そういえばおれ、ちっちゃい時は風呂嫌いだったなぁなんでかな?
元々水自体そんなに好きじゃないんだけどさ。
肌はまあ我慢できるけど、髪の毛がべったりと水を含んで貼りつく感触が好きじゃない。今でもシャワーすら面倒だし、一応ざーと身体は洗うけど風呂自体は行水だ。
おれが風呂嫌いな理由、なんだっけ? なんか、原因があったような気がしないでもない。
昔、監禁檻の中の子たちの風呂係をやらされていたから? でも別に、風呂の最中に何かでっかいエピソードがあった記憶もない。逃げようとしたとか、自殺しようとしたとか、そういう記憶はない。
おれの親父は殺人鬼で、何人もの子供を飼っていたけど、性的な虐待は一切なかった。ていうか下の世話とか、風呂とか、そういうのはむしろ嫌っていて、結構すぐにおれに任せようとしてきた。
……なんだっけなぁ。なんか、忘れてるな、これ。
おれの記憶の中ではたまにあることだ。ぽっかりと、妙な具合に忘れてしまっているなにか。
忘れているので、それがなにかはわからない。でも、うーんなんかしっくりこないなぁこれたぶん忘れてるなぁーっていう、もやっとした気持ち悪さだけを知覚できる。
元来の性質なのか、育った環境が原因なのか、勿論おれにはわからない。医者は嫌いだし、勿論心療内科も大嫌いだから。
ま、いっか。いままで忘れてても問題なかったんだから、きっとおれの人生にはたいして重要じゃないんだろう。
メシの食い方とか排泄の仕方を忘れてたら困るけどさ、そういうんじゃないでしょきっと。どうでもいいことに違いないと思い込むことにして、おれはいま目の前にいる人に意識を戻した。
くったりと浴槽の端で荒い息を吐いているのは、勿論タイラさんだ。おれいまタイラさん以外とセックスなんかする気ないし。てかよく考えたらそういうコト、積極的にした記憶もあんまない。
食べなきゃ死ぬ。寝なきゃ死ぬ。排泄は勝手にされる。でも、セックスなんかしなくたっておれは死なないじゃん? って思っていたからだ。
いまだって別に我慢しろって言われたらできるけど、でもタイラさんがすごーく嫌がってすごーく泣いてくれる手段ってこれじゃん? しかもかわいいしエロイしおれも楽しいし最高じゃん? って話だ。
群馬の廃墟からぶーんと藍ちゃんの車で颯爽帰宅したおれは、廃墟での約束通り一目散にタイラさんを浴室に押し込めた。
タイラさんさぁ、まじでわりと頭は良いはずなんだよね。タイラさんの小説ぱらぱらーって開いてみたけど、文字がぎっしりしていて結構ちゃんとしてた。わ、あたまよさそーってけらけら笑えるくらいにはちゃんとしてた。
実際タイラさんは『ちゃんとしてる』と思うんだよ?
たまーに外の人と電話してたりするし、宗教の勧誘とか新聞の集金とか、家に来る人との会話とかを聞いてもちゃんとした大人だし、おれなんかよりぜーんぜんまっとうだし。三十一歳だっけ? えーと、八つ上? もうほんとね、ちゃんとした大人って感じなんだ。
それなのになんでかなぁ、おれがハイハイこっちねーって笑いながら浴室に連れ込んでさくさく服脱がせて風呂の給湯ボタンおしてシャワーの下にぶっこむまで、タイラさんはほんと、ほとんど抵抗らしい抵抗ができてなかった。
パニクったハムスターみたいにわたわたしてるだけなの。……マジでアクシデントに弱い。あと、怖いモノに対する恐怖がデカすぎると、精神疲労であんま頭働かなくなっちゃうんだろうなぁ。
ほんと、出会ったのがおれで良かったね? 少なくともタイラさんの財産を巻き上げようとか、脅そうとか微塵も思ってない。
……ほんと、出会ったのがおれで最悪だったね? おれはさ、直す気なんかさらさらないけど、自分の性格がクソで屑で笑っちゃうほどヤバいことくらいは、わかってるからさ。
ご愁傷様タイラさん。でもタイラさんがかわいいのが悪いんだ。
その怯えた目を逸らされると、両手で頬を掴んで視線をおれに戻したくなる。
身体ごと半歩引かれると、腕を掴んで力任せに引き寄せてなんで逃げるのーって笑いたくなる。
怯えるタイラさんはかわいい。怖がるタイラさんはかわいい。心霊スポットで蒼白になって死にそうになってるタイラさんも、おれが怖くて怖くて震えちゃうタイラさんも、マジで性癖にぶっささるんだ。
「も……、むり…………、ふ、……あっつ……」
息も絶え絶えなタイラさんは、すでに一回おれに嬲られてチンコ扱かれてお湯の中に射精した後だ。
せーしってタンパク質だから、お湯の中で出すと固まっちゃうんだっけ? おれほんと、そういうどうでもいいことばっか知ってる。エロイ雑学は、ユーチューバーの基本じゃん?
「だーめー。ちゃーんとタイラさんが茹っちゃわないようにお湯の温度温めにしたんだからさぁ、熱いなんて嘘だよー。ま、あんだけアンアン喘いでたら体温ぶち上っちゃうのかもしんないけど。……冬で良かったねぇ、お風呂場の声ってさ、窓開けてると結構聞こえちゃうよねー?」
「……っ、おま、ほんと、せいかく、わる……っ」
「ふふ。知ってる。でもさ、タイラさんもそこそこだよー。おれが言葉でどかどか殴ってべしべし嬲るとさ、股間おっ勃てて恥ずかしがって射精すんじゃん? わーへんたーい。まぞー」
マゾも変態も今は多様性っていう便利な混沌の中にぶっこまれちゃいそうだけど。ま、嬲る言葉遊びならどんなことを言っても問題ないでしょ。どうせ二人きりだし。
……あ、嘘。もう一人いる。
さっきから、ものすごい声で唸ってる『ママ』が浴室のスリガラスに写ってる。
やっぱりアレとおれの相性は悪いらしい。
おれはアレを思うようにさっぱり除霊できないけど、アレはアレでおれにはあんまり近づいてこない。
そこで見てろばーかばーか、といつものように優越感に浸りながら言葉にせずに罵倒して、おれはタイラさんの両脇に手を入れてよいしょっと持ち上げる。
「……っ、わ、ちょ……何……す、」
「えんちょうせーん。ていうかタイラさんさっさとイキすぎでしょー。もうちょっと頑張ってもらわないとーおれが楽しくないじゃん?」
「ひとを早漏みたいに言うんじゃねーよ……」
「早漏じゃないの? 誰に対してもちょっぱや射精じゃないの? じゃ、おれがテクニシャンってこと? タイラさんのきもちいーところぐっちゃぐちゃにする天才ってこと?」
「やめろほんと言葉にすんのやめろ思い出して死にそうにな――あ、ちょ、……やめろ、って言って……っ」
「やめろーって言われてうんわかったやめるねーってなるって思ってないでしょじゃあその言葉無意味じゃないー?」
「やだ! もう無理! しぬ! せ、せめて部屋で……っ」
「ん。その譲歩はちょっといいね。ここは嫌だからお布団でえっちしよ、ってことだよね? うーん、その、ここは嫌なのお願いっていうの、なんかぐっと来ちゃうなぁなんでかなー。……でも、だめ」
なんと準備のいいおれは、事前に手の届くところにボディーソープのボトルを用意していた。さすがおれ、無駄なところばっかり手際がいい!
ぬるいお湯の中でやだとか無理とか喚くタイラさんはガン無視して、手のひらにとったボディーソープの中身をぬるっとタイラさんの身体にぬりつける。
そういや前に一回泡の子とやったことあったなぁ。なんでだっけ? 向こうが酔った勢いだったか、誰かの付き合いでそういう店行ったのか、除霊したけどお金ないから身体でーとか言われたんだったか。忘れちゃったけど、ぬるぬるして面白かった記憶だけはある。
水に濡れただけの肌は、ちょっと滑りが悪くて気持ち悪い。おれは水がきらい。好きじゃない。でも、ぬるっとした泡は別だ。やわらかくてなめらかで、すごく楽しい。
「このボディーソープねーちょっといい奴なんだよー? タイラさんそういうの気にしないで使ってると思うけど、ぶっちゃけ高いの。おれが買ったんじゃなくて貢物だけどーほら、だめ。逃げちゃ、だめ。こっちきて」
おれが目を離した隙にお湯から上がろうとしたタイラさんを、無理矢理引き摺り戻す。
手を強く握りすぎたかも、ちょっと痛そう。でも、タイラさんは痛いの好きだからいいよねと思うことにする。喉に歯を立てられるのも、チンコに爪を立てたれるのも好きな人なんだから、このくらい平気だ。
タイラさんはガリガリで、勿論体力なんてもの存在しない。
よろっと当たり前のようにおれの方にもたれかかって来た細い身体を支えてから、逃げられないように背中からホールドした。
目の前には項垂れる細いうなじと、濡れて乱れている結った髪と、火照った色の耳がある。
タイラさんは骨が綺麗だ。贅肉がないからそう見えるだけかもしれないけど、指の骨とか鎖骨とか腰の骨とか、とにかくごつごつしていて気持ちいいし楽しいしかわいい。骨がかわいいとか意味わかんない、はは、でもかわいいんだからかわいいとしか言いようがない!
そんでこの日初めて気が付いたけど、タイラさんは耳もきれいでかわいい。
「離……っ」
「だーかーらー。おれに何を要望されても絶対に無理だーって、知ってるでしょ? なあに? そういうプレイ? おれ、タイラさんが嫌がれば嫌がるだけ興奮するよー?」
「……じゃあ、積極的にアンアン喘げばおまえ飽きるのか……?」
「ん? いや別に? たぶん普通にエロいタイラさんもいいよねーって思うだけ」
「…………どうしろって言うんだ……」
「どうもできないよ? タイラさんはどうもできない。だっておれの腕の中にいるんだもん。あのね、捕まるまえに逃げなきゃだめだよ。もうおれが掴んじゃったらだめなんだ」
形のいい薄い耳を後ろから舐める。
タイラさんの腰がびくっと揺れる。うは、かっわい、耳も性感帯なの? タイラさんほんとえっちだよねーだいすきだ。
「さっきはチンコいっぱい扱いたから、しばらくお預けねー。したかったら自分でオナってもいいけど、おれは次はこっちを弄りたいんだよね」
「こ、こっち、って……っ、ぁ、や……」
「ふうん。やっぱタイラさんは乳首もきもちいーんだ」
ちょっとコリってつまんだだけで、一瞬で甘い声が零れる。
男も乳首は性感帯になるって聞いたけど、結構開発しないとダメって話じゃなかった?
タイラさん、オナニーすらできる環境じゃなかった筈だし、じゃあ乳首でエロイことしてたのは大学時代の恋人って人かな。知らんけど。どうでもいいけど。いまのタイラさんはおれとお風呂でえっちなうなわけだし。うん。
ぬるっとした石鹸に助けられながら、おれの指はちょっとだけ立ち上がった乳首のまわりをなぞる。
くるくる回ってから、引掻くように先端に爪で擦ると、タイラさんが首を逸らして息を飲んだ。ぷるぷる震えながら、浴槽に腕をついて片手の甲を口に当てる。噛んでんのかな、押し付けてるだけかな、どっちもでエロいことには変わりない。
……声、殺してんのもかわいいね?
でもおれは、もっとアンアンしてほしいなぁ。
タイラさんのちょっと掠れた声、すごく耳に気持ちいいから。
「タイラさん、わかるー? 人差し指でさ、ピンって弾くと、タイラさんの腰揺れんの。ふは、えろーい。えーこれきもちいー? おれ乳首責めうまいー? もっとつまんでほしい? こりこりしてほしい? それともー……押しつぶしてぐりぐりしてほしい?」
「…………っ、ふ……」
「お、いま想像した? 想像しただけでちょっとえっちな気持ち上乗せされちゃった? タイラさん、おれのことコワイのに乳首虐められてコーフンしちゃうんだねぇ。いいね、人間って感じ。すごいグッとくる。ていうかチンコまた勃ってない? さっき出したばっかなのにえっちじゃん?」
「だれの、せい……っ、おまえだって、硬いの当たってんだからな……」
「ん? ああ、おれのチンコ、タイラさんのケツに当たってる? まあそりゃ、コーフンしてっからね、おれ。ダイジョーブ、こればっかりはタイラさんの言葉信じてるから、いきなり女の子にするみたいに準備ナシでつっこんだりはしないよー。別におれ、タイラさんの中で擦りたいって思ってないし」
「ぁ、待っ、や、……っ、やだ、それ……っ」
「んーつまんでコリコリすんの好きなんだねぇーかんわい……」
こりこり、容赦なんて一切なくタイラさんの両の乳首を虐めたおす。
ついでに後ろから左の耳を噛むと、『ひゃっ』みたいなすっとんきょんな声が上がって腰がびくんと震えた。背中がふるふるしてるのがわかる。ぴたってくっついてるからね。
「……耳、後ろから噛まれんの、すき?」
ひたすら乳首ばっかりを弄っているうちに、タイラさんは結構無理なくらい興奮してきちゃったらしい。
もうだめむりーってなると、この人は容易に理性を飛ばす。なんていうかなー、そういう風に性格が曲がっちゃったのかもしんないけどさ。見たくないものを見ないための、防衛本能? なのかも。
理性ぶっ飛ばしたタイラさんは、若干だけ素直になる。口ではやめろとか嫌だとかダメとか言いながら、おれが『これ好き?』って訊くとちょっとだけ頷いたりする。
タイラさん、耳噛まれんの好きだって。ふふ、じゃあいっぱい噛んじゃお。
おれはタイラさんに嫌われたいけど、痛い事をしたいわけじゃない。ずっとずっと気持ちいいことをして、タイラさんに怖がられたい。だからおれは、タイラさんの綺麗な耳に歯を立てて、きもちいい? って訊く。
タイラさんはだんだん前かがみになって、ついには浴槽のへりにどうにかしがみついているみたいな体勢になった。
よいしょっと抱えなおして、湯船の中に引っ張り戻す。
膝立ちも結構きつい。風呂の中でタイラさんを抱えるように座っても、結構余裕がある。一軒家のお風呂って広くていいなーって初めて思った。おれの家も一軒家だったけど、おれはほら、なんでか風呂が嫌いだったから。
膝の間にタイラさんを抱えるようにすると、くったりともたれかかってくる。
ぷっくりと立ち上がった乳首が丸見えだ。別に見た目に興奮したりはしないけど、でもエロイなーとは思う。そもそもおれ、女の子の胸とか尻にそこまで興奮しないし。それよりタイラさんの嫌そうな声や我慢できない甘い息とかのほうが興奮する。
「……なが、……っ、ちくび、ばっか、……も、やめ……」
「えー? いいじゃん、あと一時間くらい頑張ろうよー。そしたらおれもきっとのぼせちゃってさぁ、お布団に戻ったら襲う元気無くすかもよ? 体力削るチャンスじゃん?」
「おまえ……このあとまだなんかヤる気なの……」
「え、毎日寝る前はワンチャン狙ってるよ? 寝る前におれから逃げるタイミング窺うタイラさん、かわいいんだもん」
「だもんとか言うな二十三さ……、ぁ、ばか、だから、乳首、摘まむなって、言っ、」
「んーふふふ。えろいね、いいね。腰、びくびく動いてるじゃん。タイラさん乳首だけで射精できんのー?」
「い、いやそれは、さすがに……したこと、ねーけど、」
「ん、そっか。じゃあ試してみよ?」
「…………む、むり……」
「えーいけるって。何事もチャレンジだよ? ファイト! タイラさんならできるって! すげーえっちだもん!」
「スポーツの応援みたいに言うんじゃねーよ……」
「じゃあどうしたいの? やめろ以外のおねだりないの? ねーねーおれねー結構ねーべたなやつが好きみたいなんだよねー。タイラさんさー結構さー空気読むじゃん? じゃあわかるよね?」
「…………いいたくない……」
「えー。じゃあ自分でする? いいよ? おれこっから見てるし乳首弄ってるから、タイラさん自分でチンコ扱いて射精してもいいよ?」
「…………………………」
うわ、嫌そう。ていうか屈辱って感じ。すごい。すごいかわいい。最高。最高にかわいい。
嫌がるけど、でも我慢できないんだよね? 大人で男だもんね? 我慢するなんてきついもんね? 一人でトイレで出すのも無理だもんね?
ね、ってもっかいねだって耳を噛むと、タイラさんは口元に手を当てて震える声でちいさーくちいさーく『……いかせて』と言った。
んー。んー……ま、いっか。もっと大きな声でもっと卑猥に言ってほしいけど、こういうのってやりすぎるとしらけるしね。
「ん。……じゃ、いかせてあげるね?」
タイラさんが自分でおねだりしたんだから、おれは悪くないよね。うん。チンコの先っぽだけぐりぐりしても、耳を噛みながら乳首こりこりしても、おれは悪くない。だっていかせて、って言われたし。
……タイラさん、いっぱい虐められて達くの、だいすきだもんね?
って感じでこのあと三十分くらい散々焦らして弄って嬲って虐め倒して寸止めして、ぱんぱんに膨れたアレの中身をお湯にぶちまけたタイラさんは、流石に目を回して倒れてしまった。
冬のお風呂で倒れるなんてのはさすがのおれもヒヤッとするからやめてほしいよね。おれのせいなんだけどね! はは!
はー……うん、ちゃんと生きてるし血管とかそういうアレじゃないっぽいし大丈夫。ほんとにただのぼせてちょっと脱水みたいになっただけっぽい。
濡れたタオルで身体を拭いて、乾いたタオルでまた拭いて、さっさと抱き上げておれの部屋のベッドの上で毛布巻き付けて横にポカリだしといた。
叩き起こすのもよくないかな。そう思って先に汚れまくった浴室を掃除することにする。終わるころにはタイラさんも目を覚ましてることだろう。たぶん。そしたらご飯つくろ。そういや今日はなんも食べてない。
空腹で無茶したからかも? うーん今度からは、お風呂入る前に水と食べ物用意しとこう。
しかしタイラさん、ぬるぬるでよかったなー。
泡ぶろってなんかそういう素みたいのあったっけ? ああいうの、好きそうかも。風呂はいまでも一人で入るのは嫌いだけど、タイラさんとならいくらでも長風呂できる。たのしい。最高。
鼻歌歌いながら、あータンパク質最初に救わないとこれ詰まっちゃうんだっけ? と思い出して洗濯槽のゴミ取りようの網を片手に、ざぶん、とお湯の中に手を入れた時だ。
お湯は白く濁っている。たぶんタイラさんの精子じゃなくて、おれがぶっこんだ入浴剤とかボディーソープとかのせいだ。
底が見えないお湯の中で、誰かがおれの手を掴んだ。
「…………へぇ」
お湯の中から、ゆっくりと浮かんできたのは長い髪だ。黒い、長い、女の髪。
その中からゆっくり、ゆっくり、女の顔が浮かびあがる。
それは紛れもなくさっき、浴室の外で奇声を上げていたアレ。……『ママ』だ。
「なんだ。……あなた、おれに、干渉できるんじゃないの」
ママの顔は無だ。表情がない。相変わらず目が小さくて、口が気持ち悪い程横に伸びている。能面のような、いびつな無表情。わかるのは、憎くて憎くて仕方ないことだけだ。
「おれさ、あんたはおれのことが憎いのかなぁってずっと思ってたの。でも、ちょっと違うのかもね。おれとか、タイラさんとか、主語はそんなに大切じゃないのかもね」
ママは能面を崩さない。憎しみで無になった顔を崩さない。半開きの口から、あーーーーーー、という声が零れる。
お湯の中でおれを掴む手は、爪をたてながら湯の中に強く引っ張る。
「キシワダトワコ」
ぴたり、と、腕をひっぱる力が止む。
あーやっぱり、正解だった、とおれは笑う。
「あなたのこと、調べたよ。まあ、全部はわかんないし、たぶんまだ語る程の言葉は足りないんだけどね。でも、あなたの名前は、たぶん、キシワダトワコ。三十年前に行方不明になった、この家の前の前の隣人だ」
能面のような顔に特に変化はない。が、お湯の中の腕ががくん、ととんでもない力で引っ張られた。
うは、びっくりした!
ちょっとひっぱりこまれそうだった! よくふんばったおれ! タイラさんに貸してもらいっぱなしのジャージ、濡れたらやだもんねーと思って湯の中に入らなかったんだけど、これ絶対正解だったね。ありがとうタイラさんのジャージ。
「家の因縁を調べても、家系の因縁を調べてもなんも出てこないわけだよ。だってあなた、ただの隣人だもの。でも、あなたがそうなった理由はまだ、よくわかんないんだよなぁ……これは藍ちゃんの続報待ち。藍ちゃん、すごいでしょ? あの人ね、調べもの、うまいんだよ」
藍ちゃんの本業は探偵だ。
探偵って言うと恥ずかしいから調査会社って言えっていつも言われるけど、ハードボイルドなアニメキャラみたいな外見してる藍ちゃんのほうが悪くない? って思う。
おれはむかーし、藍ちゃんを助けて、藍ちゃんはそれからずっと、おれを助けてくれている。
友達って言われて思い浮かぶ顔はひとつもない。藍ちゃんは友達じゃなくて藍ちゃんだからだ。おれにとって、藍ちゃんという名前は職業であり、存在そのものだ。
今回も藍ちゃんはため息一つでおれにはできない方法で、たくさんの調べものをしてくれた。
あんまわかんなかったよ、と言われたけど、まあまあだ。
だって『ママ』の名前はわかった。こいつはママなんかじゃない。キシワダトワコだ。
まあでもこのくらいじゃ無理かなーとか言いつつ、おれはケツポケットに入れている塩の袋を取り出す。
ジップロックで小分けにして持ち歩いている『除霊グッズ』だ。七つ道具とかほしいけど、残念ながらおれには塩しか必要じゃない。
濡れた片手でどうにか塩を取り出し、つまみ、えいやっと浴槽の中にぶっこむ。
ワンチャンいけないかなぁ。無理かなぁ。
「……ま、無理だよね。だよね」
ぼこっと一瞬で沈んだ顔が見えなくなった瞬間、おれはお湯から解放された腕をひっこぬく。
うえー爪のあとつんてんだけど。さいあくだ。ちょっと血滲んでんじゃん。あとでタイラさんが目を覚ましたら、恩着せがましく看病してもらお。
「トワコつよーい」
わは。と笑うのは別に強がりじゃない。
本当に何もわからない一切わからないみたいな霊障が多い。理由なんか、わかる方が稀だし、死んだ人間の名前が残っている方が稀だ。
そんな中、藍ちゃんはドンピシャ正解を引き当てた。流石本業。ていうかあの女、ヒントがありすぎる。
いつも同じ制服(タイラさんは気が付かなったみたいだけど、あれはデパートの制服だ)。
いつも同じ香水の残り香(ま、生臭い臭いのほうがつよいんだけど)。
いつも同じ方向を向いて立つ(キシワダトワコはキシワダトワコの家にいつも背を向けている)。
こうしてわかった情報をもう少し集めていけばもしかしたらまじでおれの力でもいけるんじゃない? トワコやれるんじゃない? って思うけど。
「……あ。タイラさん起きたかなー?」
いますぐどうにもならないものをどうにかする努力は面倒なので、おれはさっさと現実にシフトした。
トワコ、ほんと強いからさ。あんな強いやつ、なかなかいないからさ。……あんなつよいのは、まあ理由があるんだろうしさ。
別に知りたくないけどタイラさんをトワコのもんにしたくないから、仕方ない。藍ちゃんに当たりだったよって言わなきゃなーと思いながら、とりあえずおれは固まった精子掬ってお湯の栓を抜いた。
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