7 / 15
飲む女と吊る老婆
いまどき紙なんて、と馬鹿にされることも多いが、俺はどちらかと言えば紙派だ。
長時間眺めていても目が疲れないし、言う程管理は大変じゃないし、それに紙は『改変』ができない。
送りっぱなしのメールみたいに、一度読者の手元に渡った文章は、絶対に消えない。
新聞も、ルポも、雑誌の切り抜きも。
ちらっとでも炎上してしまうとすぐに、ネット上の記事は消えてしまう時代だ。消したら増えるとか、魚拓とか、デジタルタトゥーとか、そういうもんもまあ、あるっちゃあるだろうがすべての情報に対して平等に存在しているわけもない。
実際に俺がちらっと検索した『浦辺永作』についてのサイトにも、リンク切れ表示がちらほら存在した。
世間を騒がせた連続殺人鬼とはいえ、アザミ団地児童誘拐殺人事件が発覚したのは十年以上前だ。
浦辺永作は全面的に罪を認め、死刑判決もすでに出ている。
センセーショナルな事件も、時が過ぎてしまえば世間の関心なんて米粒程も残らない。あとは都市伝説や『胸糞悪い事件、恐怖事件一覧』みたいなゴシップ的なまとめサイトに載るだけだ。
結局ネットからはウィキペディア以上でも以下でもない情報しか拾えなかった俺は、嫌々ながらも乱雑な書庫――という名の、親父の部屋の押し入れから目当ての資料を掘り起こし、せっせと居間に運んで机の上に積み上げた。
ちなみに俺の自室は寝床以外本や資料でいっぱいで、寝るとき以外はほぼ出入りしない。仕事は居間の机でやってしまうし、食事はダイニングテーブルで取る。広い家でありがたい、と思うのは多少乱雑に物を詰め込んでも、生きていくスペースが確保されているところだ。
自慢じゃないが整理整頓がくそほど苦手だ。
もうなんかこう、得意な事を羅列する方が難しいんじゃないか、と思わなくもない。
整理整頓がくそほど苦手な俺は、母さんがいなくなってから好き勝手に家を荒らした。
一応言い訳をしておくと、ゴミ屋敷になるような荒らし方はしていない。ていうか苦手だけどできないわけじゃないし、ヒトとして最低限の掃除くらいはできないと自己評価がガン下がりしてふと死にたくなったりするし、部屋綺麗に保っておくと幽霊でないとか聞いたから、まじで最低限の掃除はしよう……と、心掛けてはいた。
床に四つん這いの女がいたり、畳から顔半分生えるみたいに突き出してる男がいたり、へびみたいにくねくね這う女がいたりしなかったら、もうすこしちゃんと掃除できていたと思う。
まあ、最近は綺麗だよ、うん。……ナガルが片っ端から掃除していくから。
別に見られて困るもんも思い浮かばなかったから、俺の自室を含めて立ち入り禁止区域はない。故に気が付くと俺の部屋の本と資料が若干綺麗に整理されていたり、敷きっぱなしの布団が片付けられていたりする。
……嫁かよ。絶対言わないけど、嫁かよほんと。
ナガルには親父の部屋をあてがったけれど、本人は特別嫌がることもなくデカいベッドと高そうなパソコンと配信機材を運び込んでいた。
特に使っていなかったし、思い出の品なんかもない。そもそも俺は親父に関する思い出がない。母さんは戻ってくるかもしれないから、同居人には親父の部屋を貸し出すことにしている。
しばらく読まなそうな本をぽいぽい押し入れにぶっこんでいたくらいで、特に必要のない部屋だった。
……まさか、あの部屋の押し入れにぶっこんだ本がどうしてもいま読みたい、なんてことになるとは思わなかったからだ。
現在の部屋の主であるナガルは、なんと珍しく朝から出かけていた。
なんでも、地方の怪談会にゲストとして招かれたらしい。
タイラさんも一緒に行くー? と今朝いきなり声をかけられたが、いや行くわけないだろなんでだよ。
そういうのは事前に、せめて前日に聞けよ。
前日に言われても前々日に言われても行かねーけどさ! というわけで丁重に静かに首を振ってお断りした。
夜には帰ってくるからご飯は作るよーといつものように笑うナガルに、つい癖で『いってら』と声をかけてしまってキョトンとされ、二秒後に満面の笑みでディープキスかまされて『いってきま!』と言われたことまで思い出してしまったしにたい。しにたくないけど本の狭間に挟まってしばらくそこで自省したい。
はー……嫁と旦那じゃん……いやただの同居人だし、絶対にあんなのと恋愛関係なんか構築できねー自信あるけどよ……。
話が逸れたが、そんなわけで久しぶりにゆったり長々、俺は一人ぼっちの時間を取得したってわけだ。
俺は絶対に必要な時以外は外に出たくないけど、ナガルも結構な引きこもりだ。
時折ふらっと出かけたと思えば近所のスーパーだし、あとは家事をしていたり俺の仕事を横で眺めていたり、適当に動画を見ていたり部屋に引きこもって何かしていたり……何かってたぶん配信だろうけど。
そんなわけで、ナガルの部屋の押し入れから目当ての本を発掘するタイミングがなかった。
なんてことないよ、別にどうでもいいよ。そう言いながらも、あいつは親父さんの話をするときに雰囲気が変わる。その変化は、ナガルが唯一うっすらとにじませる感情のようなものだ。
流石にこっちも慎重になる。あいつは急に怒ったり怒鳴ったり切れたり喚いたりしないだろうけど、できることなら地雷は踏みたくないし、俺も俺で『タイラさん何してるのー?』とか言われたら気まずいと思う。
お前の親父が子供殺した事件についてちょっと調べようと思って。……なんて、どんな顔して言ったらいいんだよって話だ。
ナガルはたぶん、直接おれに聞けばいいのにって言いそうだけど。言いそうっていうか、たぶん言うけど。本人談とルポタージュじゃ、気まずさが段違いだ。
浦辺栄作は一時期、まさに時の人だった。勿論最悪な意味で。
初めは小さな事件だった。某所通称アザミ団地と呼ばれる大型集合賃貸マンションの一角で、一人の少女が消えた。
その失踪事件はひどく地味で、勿論テレビなどで報道されることもなかった。地元のテレビ番組だったらわかんないけど、少なくとも全国ネットでセンセーショナルに報道された形跡はない。
目の前で忽然と消えた――とか、そういうドラマティックな不可思議でもないかぎり、人間の行方不明はそんなに珍しいことじゃないのかもしれない。
ひっそりと少女が姿をくらました半年後、アザミ団地に近い地区に住む少年が消える。
それから半年に一回周期でゆっくりと、合計十人の児童が行方不明になった。
さすがに十人もいなくなれば、行方不明と言えど立派な怪事件だ。
アザミ団地はゆっくりと風評被害を受け、人食い団地だの神隠しマンションだの言われたい放題だったという。誰も死んではいないのに、その後なぜか自殺スポットになり、結局現在は廃墟となっているらしい。
そして児童誘拐の犯人が唐突に逮捕されたのが、いまから十年前の冬だ。
アザミ団地連続児童誘拐事件が、一転、連続児童監禁殺害事件になったのもこの時だった。
いまから十年前。俺は二十一歳で、センセーショナルな見出しとワイドショーの特番で浦辺栄作の名前を連日目にしたことを覚えている。
「……十三歳か」
息子である少年は当時十三歳。何もわからない子供、とは言い難い年齢だ。
一番詳しい事件ルポに目を通しても、浦辺永作の家族構成に関しては絶妙にあいまいな表記がしてある。
十年前といえば、人権がどうのこうの言い出した時期だろう。無神経と名高いマスコミも、流石に十三歳の養子の少年は扱い方に困ったのかもしれない。
血が繋がっていない殺人鬼の息子。
結構ドラマティックな字面だけど、被害者が多数存在しトラウマになるような事件内容が明確になっていることもあり、浦辺永琉の存在はタブーとなっていたのかもしれない。
浦辺永作はその後の裁判で全面的に罪を認め、自ら積極的に犯行手口を自供。裁判は異例のスピードで進められ、死刑判決が決定したのは去年だ。
その手口は残忍の一言だが――ここでは割愛する。
俺が知りたいのは子供たちがどうやって殺されたか、ではない。どうやって監禁されていたのか。浦辺永作はどんな生活をしていたのか。浦辺永琉は、どういう人生を送って来たのか、だ。
知ってどうする? と思わなくもない。
確かにナガルが皮肉を込めて言うように、『殺人鬼の息子だからと言って差別はするべきではない』というのが人間の建前だ。
別にそれ自体に怖いとか近寄らないでほしいとか、そういう感情は持っていない。ナガルが怖くて近寄らないでほしいのはシンプルにナガル自信が怖いからだし。
……でもほら、ママをどうにかしてくれるってことは、一応俺の味方なわけじゃん。
味方なのに、いちいちびくつきたくないし、あいつがなんであんな性格に落ち着いちゃったのか、もし過去を知ることで理解が深まることがあれば……と思った。
単純に知識は増やしておいて損はない。想像力は知識の上に成り立つもんだ。
――以上、これはすべて言い訳だ、ということも俺はちゃんと理解しているし、正直そろそろ嫌だけど認めよう、と思うタイミングだった。
理解? 深めてどうすんの。
知識? 知ってどうすんの。
そんなのもちろん『どうもしない』。単に俺が勿部ナガルの事を知りたい、と思って調べているだけだ。
最初はホントにビビってた。全身全霊で俺は勿部ナガルにビビってたし、明確に恐怖を感じていた。
でも一緒に住んでみればなんてことない。ちょっと変で考え方がぶっ飛んでるだけのイケメンだ。
……顔に流されてるだけじゃね? って俺も思うよ大丈夫。でも結局流されようがなんだろうが、今感じている感情がリアルでそれがすべてだ。
俺は悪意に敏感だ。人間が怖い。悪意が怖い。人の目が怖い。人の言葉と口が怖い。外の世界も、ママの居る家もぜんぶ、ぜんぶ怖い。
そんな怖いモノだらけの世界で、ナガルはストレートに『考え方がヤバい』だけの奴だ。
勿部ナガルには悪意がない。これっぽっちもない。愛情もないんだろうけど、それはまあ置いておく。
誰かの悪意に、ママの殺意に晒されるより、ナガルと喋っていた方がずっと、ずっと楽しい。
……楽しい。そう、俺はあいつと喋ったりメシ食ったり襲われんのから逃げたりするのが、なんでかすげー楽しい、と思っている自分に気が付いてしまったわけだ。
ナガルには悪意がない。そんであいつは嘘が嫌いだから、いつでもストレートにド直球に言葉をぶつけてくる。たまにぐっさり刺されるけど、『その言葉は俺には痛い』ときちんと投げ返せば、なんだかんだと言いながらも素直にナガルは謝った。
ごめんねータイラさんにそんなに刺さるとは思わなくってぇ。別に悪気があったわけじゃないんだよー普通に真実? みたいな? え? そういうのがダメ? 気を使えってこと? むりむりーおれそういうの微塵も使う気ないもん!
そんな風にけらけら笑いながらも、おれが本当にやめろと言ったことは(……エロイ事以外で)学習したロボットみたいに一切触れなくなる。
ロボット。うん。あいつはたぶん、壊れたオモチャで、まっさらなロボットなんだろう。
俺に嫌われたいらしいナガルの言動は、残念なことに俺にとって近年まれにみる心地よさを伴っていた。
…………見た目も好みなんだよ。すげー好みなんだよ。そんでさ、エロイ事は嫌がらせみたいにやめないとはいえ、性格もわけわかんねーとはいえ、基本は悪いヤツじゃないんだよ。
そんなん、好きになるなってのがキツイ。
「…………布団と布団の狭間で無になりてー……」
ものすごく嫌な結論をやっと認めたところで、憂鬱が加速するだけだ。
残念ながら勿部ナガルは普通の人間じゃない。能力も、仕事も、若干見た目も普通じゃないが、とにかく常人離れしているのはその思考回路だ。
俺の事が好きだというその口で、早く嫌いになってね? と笑う。
いやまじでほんとまじで、おまえの頭ん中どうなってんだ、と思う。
ナガルは確かに言ってたけどさ。『おれ、他人から好かれたりするの、嫌いなんだよね』ってさ、確かに、言ってたけどさ。
「……好き、とか、知られたら、まずい、よな?」
…………ただでさえハードル高い人生に、もう一個余計なハードル付け足してどうすんだよ。
だから俺は同居するなら女のこがいいんだ。俺って奴は、マジで、自分ではどうにもできないくらい駄目な奴で、得意な事を探す方が難しくて、そしてすぐに同居人に惚れるから。
「……きゅうけいしよ……」
頭痛くなってきたしなんか悲しくなってきたし、いろいろ自覚したら普通に恥ずかしくなってきたし、俺次あいつに襲われたらどんな顔して逃げたら正解なんだよって思ってきたし、そういや昼めし食ってないし。
色々理由をつけて本を閉じ、思考からも逃避して、俺はさっさとキッチンに移動する。キッチンっていうか台所って感じの古いスタイルだけど、最近はナガルがちまちまと片付けているせいで乱雑さはなく、すっきりとした空間になっていた。
……なんか、上からぶら下がってるけど。
最近ほんと、霊障ってもんにエンカウントする確率が低すぎて、この家が幽霊屋敷だってことを忘れてしまう。
ぶらん、ぶらん、と揺れる影は完全に首つりをしている老婆にしか見えない。見えないんだけど……顔がぬっぺりと長くて、老婆、か? という感じだ。
目がない。そこにはぽっかりと穴が開いているだけで、歯もない口もやっぱり穴のようだ。
ぶらん、ぶらん、と首つりした老婆は揺れる。
幽霊屋敷で育ったとはいえ、幽霊が得意かと言ったら勿論ノーだ。
しばらく老婆の揺れを眺めていた俺は、ふと我に返りその瞬間にぶわっと這い上がるように鳥肌が立つ。
つか、首、長くない? 首つりって首が伸びるっていうけど、あれほんとなの? あと手も長くない? 人間の手ってそんな膝の下まで伸びてなくない? その腰に巻き付いてるの何? ……ああ、それ、後ろから抱き着いてる子の、手じゃん?
「……………っ、………!」
叫びたいのに、声が出ない。逃げたいのに、身体も動かない。
息しなきゃ。人間なんだから、息しなきゃ。幽霊にビビって息ができなくて死ぬ、だなんて、絶対に避けたい死因だ。そう思うのに、うまく息が吐けなくて吸うばかりになる。
ひっ、は、みたいな声が出て、やっと半歩足を下げる――瞬間。
ぶち。
と音がして。
どしゃ。
とテーブルの上に何かぬるぬるしたものがぶちまけられた。
なにこれ。なにこれ。なに、これ?
え、内臓? この蛆虫たっぷりのもごもごしたもの、内臓? え、すごいスプラッタじゃん。俺がB級ホラー映画好きじゃなかったら吐いてたかもしんないよ?
なんてぼんやり引きながらも自我を保とうとするのに、つい、見上げてしまった。
そして、半分にちぎれて上半身だけになったまま揺れる老婆と、ニタニタ笑う蛇のような身体の女とばっちり目が合ってしまい俺は、本格的に金縛りに――。
「あれ、鍵開いてんじゃん」
…………なろうという時、ふいに聞こえた女性の声に身体がびくりと反応した。
動ける。そう思った瞬間、わき目も振らずに踵を返す。
あんなものと対峙していたら気が狂う。そうに決まっている。今日は台所は封印だ。ナガルが帰ってきたらきっと、どうにかしてくれるから。
「あ。タイラせんせーお疲れ様です。この家のブザー壊れてます? 五回くらい鳴らしたんだけど……あ、取り込み中でした?」
「じゃ、ないです! ぜんぜん! ぜんぜんとりこんでない! ありがとうございます!」
「……なにが?」
怪訝な顔をする銀髪の女性に、本気で腰を折りお辞儀をして全身全霊で礼を伝えた。
藍川さんは今日も身体にびったりとした服に、アニメキャラのようなライダースをひっかけている。そこらへんのラノベキャラよりもラノベにいそうで毎回ついつい目をひいてしまう。
玄関にすっとんできた俺の後ろには、さっきの女たちの気配はない。……追いかけては来ていない、らしい。
ひとまずほっとして、震える声をどうにか誤魔化しながら、どうしたんですか急に、なんてあまりにも普通な問いかけをかましてしまった。
どうしたもこうしたもナガルに用事があるから、彼女は訪ねてきたに違いない。急にもなにも、俺には連絡なんか入るわけがない。連絡先知らないし。
ほんとコミュニケーションスキル皆無すぎてすぐに発言の反省会を始めてしまう俺に対し、さっぱりしすぎた銀髪女性は『モノルいないんすか』と眉を寄せた。
「朝から出かけてますよ。なんか、怪談会とかに招かれたとかで」
「…………あ。ほんとだ、さっきラインきてる……え、うそ。せめて前日に言え……」
「わかります」
わかりみが深すぎてものすごくうなずいてしまう。
あー、とか唸りながら首の後ろをわしわし引っ掻いた藍川さんは、じゃあこれ渡しといてください、と言って書類らしき封筒を差し出してきた。
「頼まれてたやつ、って言えばわかるっていうかたぶんわかんないけど勝手にどうにかすると思います」
「……あの、ナガル、夕方には帰ってくるみたいだけど」
「みたいですね。わたしの方にも『待っててくれてもいいよ』って連絡きてました。バイク乗ってたから気が付かなかった」
なんと、今日はスポーツカーじゃなくてバイクらしい。ますますラノベすぎて若干わくわくしてしまう。
「藍川さんさえ良ければ、待っててもらってもいいですよ。なんのおもてなしもできねーけど」
ていうかできれば居てほしい。全力で居てほしい。久しぶりの霊障ぶっかまされたあとで一人でナガルを待つなんて厳しすぎる。
あと単純に俺は、ナガルを知る目的でこの人を避けて通れないような気がしていた。
ナガルが唯一、『藍ちゃん』として認識している人。友達でも家族でもなく、ナガルは『藍ちゃん』を信頼している。
俺の若干必死な引き留めが功をそうしたのか、それともたまたま暇だったのか、ナガルに直で会う必要があったのか……理由は知らんけど、藍川さんはそれじゃあお言葉に甘えて、とカッコイイブーツを脱ぎ始めた。
靴下もかっこいいな……できる女は見えないところもこうやって気を遣うのか……。
そう思って眺めてしまったのがバレたらしく、今日は穴が開いてないやつですよ、たまたまです、と少し笑われた。
……全体的なイメージは間違いなくクールなのに、笑うと少しかわいい。
敬語使わなくても、といつものように言いながら居間へ案内すると、普段ほとんど敬語なんで、と予想外の言葉を貰う。
「まあ、客商売なんで当たり前なんですけど、モノル以外にはほぼ敬語だからこっちのほうが楽っちゃ楽なんですよね。でも、あー……モノルの同居人か。じゃあいっか、うん。馴れ馴れしい方が楽しいかな」
「……なんか」
「うん?」
「ナガルも変な理由で敬語要らないって言ってたけど、藍川さんも変っすね。『敬語じゃない方が楽しそうだから』って、初めて聞いた」
「うっわ、アレと一緒にしないで。わたしは確かに変人だろうけど、モノルとは確実に別ベクトルだから。あと藍川さんって言われると仕事っぽいんであだ名で呼んで」
「藍さん?」
「うん。いいね、そのほうがいいかな、なんかいい。じゃあわたしもタイラくんって呼ぼうかな。タイラくん三十過ぎたくらいでしょ?」
「はあ、まあ、ドンピシャそのくらい……え。もしかして藍さんかなり年上……?」
「いいたくない」
年齢不詳の銀髪の女性は、楽しそうに笑って炬燵に入る。ふ、と上げた視線の先には俺が詰んだ資料の山があって、『やっべ片付けてねー』と焦ったものの、察しのいい女はすぐに目を細めた。
「……ま、調べるよね、そりゃ。わたしも調べたもの。何食ったらあんなくそみたいな性格になんだよって、普通は思うから、タイラくんの行動は普通だと思う」
「……え。あ、そう、です? ふつう? まじで?」
「ふつうでしょ。一緒に住む奴の名前と顔しか知らないって方が変じゃない?」
……俺、今まであんまり経歴とか気にしたことなかったけど。それって俺が人間よりも幽霊の方にビビってたからかもしれない。
「ま、殺人鬼の子供が全員あの性格になるわけないし、結局なんでモノルがモノルになっちゃったのかわかんないんだけどね。知らんし。慣れたし。もうどうでもいいかな」
「はあ。慣れるもんすか、アレ……」
「慣れるよ。人間は慣れる生き物だし。アレに慣れていいのかってのはまた別問題」
「でも、藍さんは慣れたんでしょ?」
「うん。わたしは慣れて良いって思ったからさ。モノルとは、たぶん結構長い付き合いになるなって思ったし、そしたら快適な友情のためには目を瞑る箇所が少しくらいあってもいい。わたしとアレの間に友情があんのか、自分でもよくわかんないけど」
友情だろう、と思う。少なくとも俺にはそう見える。
きっと二人の関係はもっと複雑なんだろう。そう思わせる空気があるが、一言で表すなら友情以外の表現が思いつかない。そんな感じだ。
俺は思い切って口を開く。
普段なら絶対に黙って適当に話題を見繕って口にだして都度反省する。けど彼女はあのナガルの友人だ。……多少変なことを言っても本人が変だから許されるような気がするし、何より、ナガルも彼女も『きっと怒らない』というよくわからない確信がある。
たぶん、彼女の空気はナガルに近いからだ。
怒られそうだから言わないけど。
「あの。……藍さんて、ナガルと、その、どういった関係で知り合ったんです?」
「ん? ああ……なんだ、モノルやっぱり何も話してないの」
「ていうかアイツが物事の詳細を話す事の方が稀というか」
「はは。ほんとだ。たしかに。てーか別に、劇的でもドラマティックでもない出会いだよ。わたしは過去に勿部ナガルに助けられた。普通に、あいつの仕事である除霊でね。それからなんとなく何回か仕事手伝ってるうちに、アシスタントみたいになっちゃっただけ」
うん、まあ、……普通だ。なんか省略されてる気がしないでもないけど、今のところそれ以上の情報は俺は聞く必要ないのだろう。
炬燵に手をつっこんだ藍さんは、目を細めて少し笑う。
「ていうかわたし、タイラくんの中じゃ『アヤシイ霊能者の使いぱっしりをしてるアヤシイ女』だったってことか。……よく部屋に招いたね?」
「アヤシイのはイコール危ない人じゃない、でしょ?」
「…………うん、そうだね。うん。なるほど、うん。……きみの、そういうところなんだろうね」
なにが? と思ったが主語を聞いたら後悔しそうだったからやめといた。これでも小説家だ。コミュニケーション能力が屑っていうのは、言葉の裏を読みすぎて失敗するってだけで、読み取る力がないわけじゃない。
藍さんのそのー、慈愛に満ちた視線が痛い。痛すぎる。いや確かに俺はナガルにやたらと気に入られている自覚はあるけど。その原因がなんなのかはわからんにしろ、何かしらがナガルに刺さってんだろうなぁとは思ってるし。
でも忘れてはいけないのは、ナガルは俺に『嫌われたい』ってことだ。
微妙な雰囲気で黙り込んだ俺に対し、聡い女はじーっと目を凝らした後にやめときなよ、と零す。
「得、ないよ。損しかない。悪いヤツじゃない、ってのはわたしだって重々承知してるし、みんなが思う程アレはヤバいヤツじゃない筈だって信じてるけどね。でもクソヤロウなのは確実だし」
「……聡い女は話が速すぎて俺はどんな顔したらいいかわかんないんすけど……」
「まっとうに恥ずかしがってくれてもいいけど? わたし、自慢じゃないけど友達いないから、コイバナなんか何年ぶりかわからないな。相手がアレってのが残念っていうかシンプルに駄目だけど。なんで見えてる火事に突撃していくかなぁ……あいつのチャンネルに群がってる顔が良ければそれでお金落とせちゃう頭空っぽのオンナノコ達ならわからんでもないけど。タイラくん、ちゃんとした大人なのに……」
「やめて……憐れんだ目で見ないでキツイ……」
「まーねー。落ちるのが恋だよね」
「こいとかいうのもやめてください」
じゃあなんだって言われたら恋なんだけどやめてください。わりと最近自覚したばっかだし『結構毎日好き好き言われてエロイことまでされて一緒に住んでんのにこれ以上何をどうしたら?』みたいな気持ちになってパニックになりそうになるんでやめてください。
「一応大人としてやめときなーって言っとくべきかな、と思って。わたしタイラくんのこと結構気に入って来たし。モノルにボロボロにされんの可愛そうだし」
「え、ボロボロにされること決定……? つかいままでアイツに近寄って来た女子とかボロボロにされたの……?」
「あー……ま、モノルの方から執着した子って記憶にないけど、モノルに執着してた子たちは大体末路一緒」
「……胃がいてえ」
「悩み相談くらいなら聞くよ。代金は酒で頼もうかな」
冗談めかして笑う藍さんの言葉に、俺はついつい反応してしまった。
「藍さん、お酒好きなんです?」
「……うん。実はさっきからね、あそこに羅列してある日本酒の銘柄が中々ね……通じゃない? って気になっててね……。あれ、ご家族とかじゃなくて、タイラくんの趣味でしょ?」
「はい、そうっすけど。もしかして日本酒飲む人?」
「だいすき」
「どれでも好きなの飲んでください!」
思わず食いついてしまう。
いや、その、酒好きっていうのは単純に嬉しい。お酒好きなんだよねって人間、大概ビールかカクテルかワインなんだもんよ。全部飲めるけど俺は日本酒が好きだ。大好きだ。
そんでもって藍さんはいま『相談に乗るよ、お題は酒で』と口にした。
ナガルはこの人の事を嘘をつかないから好きだ、と言っていた。藍さんは嘘をつかない。じゃあ今のも、絶対に社交辞令なんかじゃない。
「ていうか飲みます? いま飲みます? 飲みましょう? なんかもう全部しんどいそうだ飲もう」
「えー。いや、飲むのは楽しいし嬉しいけどタイラくんそれ現実逃避じゃない? 大丈夫? あとわたしバイク……」
「うちの庭無駄に広いんで置いてってもいいですよ。駅まではタクシーで千円圏内です。なんならタクシー代だします」
「え、そんなに……? そんなにタイラくんわたしと飲みた……あ、いや、コイバナがしたいの?」
「コイバナって言うな」
ちげーし。ちょっと悩んでるだけだし。俺の事好きらしいんだけど俺から嫌われたい男の事好きになったかもしんないんだけどどうしたらいいの? なんて他の誰に相談できるんだって話だ。
それに生憎、俺だって友人がいない。
ナガルと友人と言い難い今、藍さんが唯一まともに俺の話を聞いてくれそうな人だ。
「まあ、じゃあ……モノルが帰ってくるまでなら……」
しぶしぶ、みたいな雰囲気出してるけどお酒の方みてにこにこしてる。この人は間違いなくのん兵衛だ。
なんかつまみ……と思ったがそういえば台所にはアレが居た。絶対行きたくない。
ナガルがお腹すいたらつまむんだよーと言っておいていったナッツがある。どっかにある。それを探してからグラスを出して、俺はちょっと変な友人に呆れられながら説得されたい。
そんでできれば諦めたい。だって俺だって、やめとけよって自分でも思ってるから。
「……かんぱーい、って、誰かとやるの、ひさしぶり」
でも、嬉しそうに目を細める彼女を見ていると、俺の話なんかどうでもよくて、ただ単純に酒の味を二人で楽しむのもいいよな、なんて思ってきた。
友達がいないから。藍さんはそう言う。
普通は社交辞令とか謙遜であるはずのこの言葉も、きっと彼女の場合は嘘じゃない。
友達の居ない大人がふたり、カツンとグラスをぶつける。
若干どころか相当照れくさい飲み会は、小気味のいい音から始まった。
ともだちにシェアしよう!