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緑の女と笑わぬ玩具
二日酔いってやつは、いつも後悔とともに襲ってくる。
飲んでる最中三回くらいは『もうやめとこうかなぁ明日しんどくなるだろうしなぁ』って思う。一応、思う。
思うのだけれど、結局酒のテンションに流されてその場の快楽を優先させてしまうのだから、俺の二日酔いは完璧に自業自得だ。
アルコールってやつはたぶん、俺の中で軽やかに暴れ回った後、死んでどろどろの毒に変わるだ。
手足の先が驚くほど重い。
横になっていればまだマシなのだけれど、ちょっと頭を持ち上げて縦になるともうだめだ。急に地球の重力ってやつに負けてオエッて胃の中のものをぶちまけそうになる。
阿保みたいに飲んだ。がばがば飲んだ。
緊張してたのもあるし、単純に楽しかったのもあるし、恥ずかしさを誤魔化したかったせいもある。いや、くそみたいな話題を選択したのは俺の方なんだけど――でも後半は昔読んだミステリの話とか、内容は覚えてるけどタイトルが思い出せない本の話とかで盛り上がった……ような記憶はあった。
藍さんこと藍川さんは、博識な女性だ。
ちょっとコワイというかとっつきくいテンションだけど、どんな話題にも適切に言葉を返してくれるから楽しい。久しぶりにナガル以外の人間と話した俺は、言葉を吐き出しその分補充するかのように酒をかっくらった。
まあ、そりゃ二日酔いにもなる。
……あとあんま寝てないし、筋肉痛がしんどくて正直まったく笑えない。
そりゃ、好きなのかなぁマジかぁ、みたいなテンションだったけどさ。酔っ払った俺、一体何考えてやがんだよ。ほんとに。今日の俺の気まずさを考えて行動しろよ。ほんとにさ。
やってしまった。
酔ったテンションで我慢できなくて盛大にセックスをした。もうあれはまごう事なきセックスだ。それっぽいエロイ事とかそういう言葉で誤魔化せないセックスだった。
なんて言って誘ったのか正直覚えていない。確かに俺がなんか言ってどうにかしておねだりしたと思うんだけど、詳細は酒に浸された脳みその中で溶けて消えてしまったらしい。
……すっげー気持ちよかったことしか覚えていないんだけど、ナガルに問いただす勇気は勿論、ない。
「……あー……たばこ…………」
ちらっと見上げた時計はもう昼で、いい加減水飲んでトイレ行く以外の行動を起こせるくらいには回復したんじゃないの……と思って身体を起こす。
まだ内臓が別のいきものみたいな感覚だけど、まあ、吐くほどじゃない。昨日の夜から占領していたナガルのでかいベッドからのそのそと這い出して、床に座ると机の上から煙草を拝借する。
ナガルは煙草を吸わない。じゃあなんで煙草とライターと灰皿が一セットあんのか聞いたら、なんでも幽霊によっちゃ煙草の煙を嫌うから必要な時に焚くのだ、と言った。
……たけー銘柄無駄に燃やしやがって。と思いながら、一口吸い込む。
すー、っと肺に入ったニコチンが、ふーっと白くなって吐き出されるイメージ。
ようやく、頭がすっきりしてくる。同時に後悔の念が強くなって今すぐベッドに戻って潜り込んで何もかも放り出してしまいたくなる。
といっても、今のところ俺とナガルの関係にはなんと何の問題もなかった。
当のナガルは朝からいつも通りケロっとしていて、二日酔いで喋ることすら困難な俺をひとしきり馬鹿にして笑い、当たり前すぎる説教をかまし、水のペットボトルを用意したのち、ちょっと買い物行ってくるねーと軽やかに出て行った。
特別距離を置いたり、特別距離が近づいたりするようなことはない。微塵もない。
そりゃそうだ。ナガルにとって俺は喋るオモチャみたいなもんだ。一般的な関係性に当てはめるなら、セフレが違いんだろう。
俺がセックスをねだったところで、子供ができるわけじゃない。新しいプレイしてみたくらいの気持ちの筈だ。
『もータイラさん家以外で酔っちゃだめだからねー? 外で知らん人相手にチンコちょーだいなんておねだりされたら、さすがにおれもドンびくからねー?』
なんて非常に遺憾すぎる言葉をかけられたわけで。
幸いなことにナガルは、『鎌屋平良は酔うとチンコを挿れてほしがる男』だと認識しているらしい。
……いやなんだよそれ。なんだそのエロゲ向けお手軽設定。とんだ淫乱野郎じゃねーかよ!
と、反論しかけた言葉は飲み込むしかない。
あさイチで口を動かすことすら億劫だったし、何よりもこの最高に恥ずかしい思い込みに反論すると、『じゃあなんでチンコほしがったの?』っていうすげー説明したくない疑問にぶち当たってしまうからだ。
言いたくない。つか、言えない。言えるわけがない。おまえに惚れちゃったみたいでさーあはは、なんて言えるわけがない。
自信があるんだ。
絶対にドン引かれるし、ものすごーく嫌な顔をされる、自信があるんだよ。
だから言えないし言わない。俺がうっかり勿部ナガルなんていう日本の中でも指折りレベルのヤバい人間に惚れてしまったことは、墓まで持っていくくらいの気持ちでいた。
中ほどまで燃えて短くなった煙草を眺め、うーんと唸る。
いやでも、いつもと変わらないといえば変わらない。ようなきもする……。
俺はいつも同居人に勝手に惚れて、でも大体ストレートの男だったしママの件が最優先だったし、ゲイだってことばらして告白して断れて出ていかれても困るから、基本的にはひっそりと心に秘めて生活した。
自分から告白なんかしたこともない。学生時代の恋人は同じ嗜好の人間の集まりの中で出会ったし、なんとなく付き合い始めたって感じだったし。そういうバーとかで口説かれなきゃ、自分から誰かと関係を持つこともなかったし。
……じゃあ今までと一緒じゃん?
ていうかセックスとかキスできる分、もしかしてマシなんじゃ?
「………………いやマシなわけあるかよ」
自分が馬鹿すぎて思わず声に出して突っ込んでしまった。
マシなわけあるか、むしろ最悪だ。なんで俺は好きな男に好きって言えないのにセックスしてんだよ。しかもアイツそこそこうめーし。得意じゃないからーとか言いながら別に痛いようなプレイする奴じゃなかったし。
キス好きなのか知らんけど、行為の最中山ほどキスしてくるから、理性ぶっ飛んで何度か好きって言いそうになっちまう。
放り出されたくない。手放したくない。ここにいてほしい。その一心で言葉を飲み込む俺ってばちょっとなんか可哀そうというか哀れすぎて自分でもなんかこう、うん……。
いやそもそも、あんなのに惚れんなって話なんだけど。
なんで俺、あんなのが好きなんだ。マジで。
昨日藍さんにも五回くらい訊かれたしそのたびにわりと真面目にやめとけってと言われたけど、自分でも何が性癖に刺さったのかわからない。顔か? 顔なのか? 顔はまあ、そりゃ好きな部類だけど――でも、あの性格だぞ?
本人も言っていた。ナガルの性格を知って、尚ナガルを選ぶ人間は少ないってさ。そりゃそうだ、なんたって勿部ナガルだ。
でもナガルはメシがうまい。掃除だって洗濯だって、楽しそうってわけじゃないけど普通にこなす。俺の駄目なところに関しては嫌味を十個くらい連射してくるけど、まあ、そりゃ俺が悪いコトの方が多いし。
よくも悪くも、アイツは素直なんだろうな。
だから俺は、ナガルと喋ると楽なんだ。
……趣味『心霊スポット凸』のユーチューバー兼除霊師だけど。けらけら笑いながら悶えまくる幽霊さんたちに『えーい!』なんて気の抜けた声で塩ぶちまけるいみわかんねー野郎だけど。
いや、やっぱ、ちょっと、考えなおした方が良いような気もしてきたな……一緒に暮らして単に情が移ってるだけじゃね……?
酒が抜けた頭にニコチンぶっこんで若干冷静に理性を取り戻しかけたわけだが、残念なことに結論を出す前に思考は遮断された。
ぴんぽーん。
と、玄関からチャイムの音が響いたからだ。
昨日藍さんが『壊れてんの?』と言ったチャイムは普通に生きていた。どうもあの時は霊障真っただ中で家の中の音がおかしくなってたっぽいなにそれそんなことあんのくそコワイやめてほしい。
今日は朝からナガルが日課の除霊をこなした後だ。庭の方にママが立ってるのは見えるが、あそこにいるときは大体家の中には出てこない。存分に庭を楽しんでいてほしいと思う。
すっかり短くなった煙草を灰皿に押し付けて、消火。はいはい、と一応声を出しながら玄関によろよろと向かう。
藍さんかな? バイクいつでもいいって言ったし、まあ週末には取りに来るって言ってたけど、急遽使うことになったとか、そういうこともあるよな、うん。
そう思いながら鍵開けて無警戒に玄関開けた俺は、己の警戒心のなさを盛大に呪う羽目になった。
宗教勧誘じゃない。セールスでもない。近所の人でもない。
そこに立っていたのは小柄な若い女性だ。
「あ! 平良先生、お久しぶりです~! あの、ごめんなさい急に、お休みでしたか?」
作ったような甲高い声で語尾を上げるのが彼女の特徴だ。俺の現在の担当編集である吉津女史は、仕事の途中なのだろう、今日もキャリアウーマンに憧れたようなすっきりとしたシャツとお洒落なパンツを纏っている。
彼女自体に思うところは特にない。
比較的仕事は普通だし、よくも悪くも印象に残らない。特別な功績もなければ、眉を寄せるようなミスは思い当たらない。ちょくちょく行き違いや確認ミスはしでかすけど、大問題になるまえにどうにかなる。そんな感じ。
そういやこの子、俺の事ゲイだって飲み会で言っちゃってたんだっけ、と一瞬頭をよぎったが、……まあいいよ、うん。
その若い子の飲み会の中で、マイナーホラー作家がゲイだなんて情報覚えて帰る子の方が稀だろうし。それはいい。よくないけど今はどうでもいい。
ああ。なんで俺、居留守使わなかったんだ?
つーか吉津さんは、なんでそんな、緑色の女背負ってんの?
「すいません、さっきご自宅にお電話したんですけど、えーと、勿部さんが出てくださってー。いつでも来てーと言っていただいたのでつい……近場に用事があるのでちょっと、お仕事がてら一年のご挨拶に、と思っただけなんですけど……」
吉津さんは時折、ふらっと顔を見せるときがある。勿論事前に確認の連絡が来るのだが――ナガルはどうせハイハイイイヨーと言った後に忘れてしまったんだろう。
記憶力は良いはずなのに、あいつは面倒なことは基本的に覚えようとしない。
ナガルはどこまで買い物に行ったんだ? いつから居ない? もう一時間はたつんじゃないか?
いつも通りコケティッシュな仕草で笑う吉津さんの首に、ありえないくらい長い腕が巻き付いている。腰には、やっぱり長い脚が、しがみつくように絡みついていた。
なんだろう、これ。……カマキリ? みたい? 腕も足も長すぎて細すぎて、どう見てもバランスがおかしい。
バランスのおかしい緑の棒切れみたいな女が、吉津さんにおんぶするようにしがみつきながら、頭を左右にぐらんぐらんと揺れしている。
なにこれ。なんだこれ。なんなんだ、これ。
吉津さん、なんでそんなん背負ってんの? 俺はなんで確認もせずに扉開けちまったの? ていうかこれ、招いちゃってだいじょうぶなの? 追い返さなくて平気な奴なの?
この前会った時はそんな女、背負ってなかったよね?
それ、どっから連れて来たの?
「あ! 先にお渡しするんだった! こちら編集部からのお歳暮です~本当はお菓子なんですけど、平良先生はお酒をお召し上がりになるからって編集長が特別にー鮭とばにしたんですよー。どうぞ、今年もお世話になりました!」
「あ、……はい、ええと……お世話になり、ました。……ありがとうございます」
「……先生、もしかしてお体の調子がすぐれませんか?」
「え? いや! ぜんぜん! あ、ちが、えーと、実は、ふ、二日
酔いで、さっきまで寝てて……」
「二日酔い! えー平良先生お酒お強いのかと! 先生でも酔っ払うことってあるんですね!?」
「いや、うん…………と、トモダチと、飲んでて、つい、ペース見失っちゃって……」
「おともだち」
うわ、その、居たんですねお友達、みたいな顔は俺でもちょっと悲しくなるからやめてほしい……。わかるけど。俺だってそう思うし今友達って言う時に相当照れくさくて気持ち悪い発音しちまったけど。
俺と吉津さんが玄関先で談笑している間にも、なんか変な色した棒切れみたいな女は、ぐらんぐらん頭を揺らしている。
いや……人間の頭、そうは曲がらない。もとは人間じゃなかったのか? なんでそんな、人間を真似した何かみたいな動きしてんの。
――ほんとに、ソレ、人間だったの?
「っわー。タイラさんふっかーつしたのー?」
思わず緑の女を凝視してしまった俺を現実に引っ張り戻したのは、聞きなれたまったりとした声だ。
「思ったより早かったねぇ。おれ、夕方まで駄目かなーと思っておかゆの材業買ってきちゃったー。すごーい気が利くーすごい感謝されていいー」
勿部ナガルは吉津さんと緑の女の後ろに、いつのまにかのっそりと立っていた。
いつもどおりの壊れたオモチャみたいな笑顔で、いつも通りがくん、と首を傾げて、最近見慣れたスーパーの袋をぶんぶん振り回している。
「あ、勿部さん、お久しぶりです! 先ほどはどうも、お邪魔しています」
話しかけられてやっと吉津さんに気が付いた様子で顔を眺め、そのあと明確に緑の女に視線を移し、もう一回吉津さんを眺めた後ににこっと笑って首を傾げた。
「……誰だっけ?」
「え、え? あ。あの……さ、先ほどお電話した――」
「んー? ……あー。なんとか編集部のなんとかさん!」
「いや全部ナントカじゃねーか『正解でしょ!?』みたいな顔すんのやめろ……」
「えーだって、覚えても仕方ないものは忘れていくスタイルなんだもん。ごめんね? おれさ、ひとの顔とか名前とか属性とか人生とか、基本的に覚える気がないからさ。ってことでハイハイ、ちょっとごめんね。前通るね」
デカい身体を器用に玄関に滑り込ませて、ナガルは俺の手をぎゅっと握る。人様の前でなんだよって振り払おうとした時。
「あ、用件終わった? 年末のご挨拶ってやつ? 人間ってほんと律義だねぇじゃあそういうわけでー」
元気でね、とにっこり笑ったナガルはなんと、引きつる顔で固まったままの吉津さんの前でピシャリ! と玄関の戸を閉めて鍵をかけてしまった。
いやいや。
いやいやいやいやいや!
「お、おまえ、何やってんの!?」
慌てて鍵開けようとする俺の手は、握られたままのナガルの手に引っ張られてしまう。玄関が遠のく。うっかりよろけて、ナガルに抱き留められそのまま拘束される。
「いやー言わせてもらうとねー何考えてんの? はタイラさんの方だよ? なに? なに普通に玄関とか開けちゃってんの? もう最悪開けても良いけど見るからにやばいってわかってんならさっさと閉めなよ」
「……やっぱ、見えてんじゃねーか」
「タイラさんの方が目はいいよ。タイラさんこそあんだけはっきり見えてんだから、ちゃんと自覚もって自衛してよねー」
ああ、さっき手を握られたのは、ナガルが『見る』ためだったのか。そういえば俺の手を握っているとより一層目がよくなる、ってそんな事言ってたな確か……。
「つか、おま……見えてんなら、除霊……っ」
「えー。なんで?」
「なんで、ってそりゃ、」
「おれの除霊は仕事だからやってるんだよ? そりゃあさー藍ちゃんが家におっさんの幽霊が出るのたすけてーって言ったら除霊するよ? 藍ちゃんだからね? でもあの人は藍ちゃんじゃないし依頼人でもないじゃん」
「そりゃ、そうだけど……だいじょうぶ、ってこと、なのか?」
「え、なにが? あ、彼女がってこと? 無事かって? あは、知らないよーそんなの。ユーレイなんて、自然とか動物みたいなもんだもん。何しだすかなんかおれ、わかんない」
「…………………」
「あ、珍しくタイラさんちょっと引いてるね? 何か懐かしいね? 最近結構なにしても動じなくなっちゃってたもんなーふふふ。でもさあー仕方なくない? だっておれ、めにつく人ぜーんぶ助けてたら、おれが疲れちゃうよ」
確かに、そうだ。その通りだ。
俺だって吉津さんと親しい間柄でもない。そりゃ仕事の付き合いがあるからよく会話はするけれど、彼女の好物も家族関係も知らない。なんなら下の名前もうすぼんやりとしている。
そんな彼女の除霊を、彼女に代わってナガルに依頼するかと言われたら、――しない、よな、と思うから。
そんな義理はないし、ナガルの除霊代金は結構かかることを知っているし、ていうか俺だって毎日ママのせいでそれどころじゃないから。
……でも、それでいいのか? ほんとに?
除霊できなくても、なにか体調に変化がないか聞くとか、怪しまれない程度にアドバイスするとか、できないのか? ナガルは巻き込まないこと前提で、……いっそ腹割ってなんかやべー女が背中に巻き付いてんだけどなんか心当たりないの? って言っちまうとか――。
「ふーん?」
玄関のスリガラスを前に考え込む俺の耳に、ナガルの声が滑り込む。
その普段と違う響きに、まずは違和感を覚える。なんか、なんだ? いつもとちがう。いつもの、曲のない歌のような声じゃない。
もっと重い。もっと冷たい。――そう、冷たい声だ。
「そんなに、」
「なが――」
「あの子が、」
「…………」
「しんぱい?」
………………こわい。
え、いや、こわいこわい、こわいってなんだよ!
耳から、全身に鳥肌がたつ。こわくて顔なんか上げられない。じっと見つめてるままの玄関扉に、今度はドン! っと何かがぶつかったような衝撃があった。
続けて二回。ドン! ドン! という音。ああ、これ、もしかして、ドア、叩いてんの?
なにが? ママが? 吉津さんが? それとも、あの、緑の女が?
「……開けちゃだめだよ。ぜったい、だめ。そりゃあね、おれだって別に人間の不幸がおいしいでーすってわけじゃないから、タイラさんの罪悪感とかちょっとくらいはわかるよー? 知ってて見ないふりをするのって、すごく疲れるんだよねタイラさんは。でも、開けちゃだめ」
「…………か、のじょ、は……」
「あー。無事なんじゃない? なんか普通にけろっとしてたし。あんだけ明確に憑りつかれてると大体は身体に不調がでるんだけど、そういうの鈍感な人は全然平気だったりするからさー。ま、明日死ぬってわけじゃないでしょ。罪悪感消したいならちょくちょく体調気遣ってあげたらいいんじゃないの? おれならスルーするけどね」
見るな聞くなと言われ、俺はおとなしくナガルに引きずられて玄関を離れた。
ドン、ドン、と玄関を叩く音はまだしている。普通にしている。けれど俺は玄関よりも、冷たい鉄のような雰囲気のナガルの方が十倍くらい怖い。
ダイニングテーブルに買い物袋を投げ出したナガルは、はーっと息を吐きながら小鍋に水を張る。
「タイラさんさぁーもっと自覚したほうがいいよ? 結構ぎりぎりで生きてんだよ、あなた。『ママ』はさ、まだ余裕でこの家とタイラさんをロックオンしてんの。あんなの一秒見ただけで寿命削れてると思っていいんだからね? そんな状態で他人の心配なんかしても死に近づくだけだよ、まじで。おれの努力水の泡になるじゃん? ほんとやめてほしいんですけどー」
「……ごめん」
「んー。謝れる大人はいいよね。反省して改善してくんないと意味ないけどね?」
「あー……の、ナガル、えーと……昨日もその、泥酔してすいませんでした……」
「え? なに、急に。謝りついで? さっきのはおれおこだったけど別にタイラさんがぐだんぐだんに酔っておれのチンコご所望したことに関しては特に怒ってないよ?」
「…………チンコご所望って言うな……」
「事実じゃーん」
「……じゃあ、なんで機嫌わりーんだよ」
「え」
ぴたり、とナガルの動きが止まる。
いつもぐらぐらと揺れるように動く男だ。座っていても落ち着いている感じがしない。その男が本気で息さえ止めたように動かなくなった。
……本気で人形みたいで怖すぎる。
別の意味で引いている俺の前で、人間だったことを思い出したかのようにナガルは瞬きを繰り返す。
「え? まじ? おれいま、機嫌わるかった? えー、うそー!? まじで!? ほんと!?」
「いやなんで俺に確認すんだよ自分のことだろ」
「だっておれ機嫌とかよくわかんないもん! うっわまじか、おれって機嫌とか存在すんだ! 感情はまあ、若干あるかなーと思ってたけど、気分とか機嫌とかそんなんないって信じてたなぁ……」
いやまあ……確かに、どんな日でもずっとフラットな機嫌の人はいるけどさ。いるけど、そういう人は自分の感情とかをキチンとコントロールして気分を保っているんじゃないかな? と思う。
ナガルはどうやら違うらしい。
そもそも、そんなものが自分に備わっていたことに本気で驚いているようだ。
お前ほんとに人間なのか? ちょっと、心配になってきたしこんな奴に惚れてる自分も心配になるからやめてほしい。
妙に驚き感動しているナガルは、すっかり機嫌を持ち直したらしい。なんだったんだよ今の超コワイ数分間は。何が地雷だったんだ。まさかナガルが吉津さんに嫉妬……なんてわけないだろう。
まったく理由に心当たりがない。
「あ、そっか、それでタイラさんちょっとビビってんの? なんで引いてんのかなって思ってたらおれのせいかーわーごめーん。ぜんぜん自覚なかった。ぜんぜん自覚ないからさー今度おれの機嫌悪そうになったら言ってよー今みたいに。そしたらたぶん、ちょっとは改善できるはず」
「え、言っていいのか?」
「え、ふつうはまずいの? だっておれ、自覚ないんだから外から指摘してもらった方がはやいじゃん?」
「そりゃそうだけど」
「あー。機嫌悪かったせいかな? 忘れてた!」
なんだ財布でも忘れたのか。そう思っていた俺は、ナガルの骨ばった両手に頬をがばっと挟まれる。
そのまま顔を上に持ち上げられ、唐突にぐっちゃぐちゃなキスをかまされた。しかも息継ぎがうまくできなくて酸欠間近になった俺に、打って変わって甘い声でどろりと囁く。
「ただいまぁ、タイラさん。あ、おはよーもした? してないっけ? じゃあもっかい……」
「まっ、死ぬ……っ」
「えーだいじょうぶだよ殺さないってばー。ね、ただいまーって言われたら、どう返すのか知ってる? 知ってるよね? 二日酔いのタイラさんのために蕪のおかゆ作ってあげるやっさしーおれにーほらーレスポンスー」
「すっげー恩着せてくるな……」
「もらえるもんは貰っときたいじゃん?」
にっこり笑う。その顔は、いつものすこしぽやぽやした、壊れたオモチャみたいな笑顔だ。
安心して身体から力が抜ける。いつの間にか扉を叩く音はなくなっている。ナガルの言う通り、詫びがてらちょくちょく、吉津さんには連絡をいれようと思いながら。
「…………おかえり」
照れくささを誤魔化すみたいに自分からキスをかましてしまい、秒で後悔し、しかもちらっと見たキッチンの窓にさっきの緑の女が張り付いているのが見えてホントにもうなんか、しばらく家から一歩も出たくなくなった。
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