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掴む男と落ちたい化け物
葬式は嫌いだ。
線香の香りも、黒ばかりの着物と洋服も、ひそひそと声を潜める雰囲気も。白ばかりが目立つ花も、全部、全部大嫌いだ。
なんで死んだの? どうして死んだの? いい人だったのに。まだ若いのに。
そんな声ばかりが遠くから聞こえてくる。おまえらが何を知ってんの? そんな風に言うならもっと泣けば? 俺の中の最悪な部分がべったりとした不快な泥みたいに浮かび上がって、誰も彼もにぶつけたくなった。
白い花に囲まれていたのは、白い顔の親父だった。
――ああ、そうだ。俺は、親父の葬式を覚えている。蒸発したのか死んだのかわからない、なんて言いながら、親父の白い顔を、息を止めたその顔を、今でも夢に出る程覚えている。
川に――溺れて――身を投げたんじゃ――借金が――使い込みの噂――女性を囲って――心中――こんな冬にどうして――奥さんと子供はどうやって――お金は――家は――。
途切れ途切れに聞こえる声は、どれもこれも不快だった。
俺の隣で呆然と前を見つめる母さんは、泣いていなかった。ただ、呆然と絶望していた。
母さんは、親父の死因を教えてくれなかった。だから俺は耳に入る噂話程度の言葉を拾い集め、ただ不安を募らせるしかなかった。
今思えばあの式場にも、あの女はいた。
キシワダトワコはいた。
のっそりと遺影の横に立つ不気味な『ママ』の存在は、母さんの口から言葉を奪っていたのだろう。
川で、溺れて。
……俺の父さんは、家族を、俺たちを、キシワダトワコから守ろうとして。
楔に、なり損ねて。
…………………いや、馬鹿かよ、だからってなんでお前が代わりに飛び込まなきゃなんねーんだよ。
いやいやいやいや!
なにライトに死のうとしてんだよ!!
「……っ、ざけんな、くそが……ッ!」
肺が痛い、腕が痛い、なんなら久しぶりに本気で走った足も痛いし、雪の山道に這いつくばってるせいで身体の前面がもれなく痛い。
落ちてる物質を上から掴んだことある?
残念ながら俺はない。勿論重力とか重さとかそういうの、頭ではなんとなくわかってたけど、実際に体験すると腕がもげそうって事を知った。
ていうか肩外れたんじゃないか俺。すっげーいてえ。外れてなくても、筋肉だか筋だか、どっか痛めたと思う。そして現在進行形で痛めている最中だ。
俺が伸ばした右手の先には、勿部ナガルがぶら下がっている。
百九十くらいあんだろ、こいつ。いくら細くても、自分よりタッパでかい男を片手で持ち上げることなんか不可能に近くて、現状を維持するだけで精いっぱいだ。
つか、よくぞ俺はこいつの手を掴んだと思う。
落ちるナガルに引っ張られて、思いっきり地面に身体ぶつけたし、ちょっとアバラあたり折ってるような気もする。痛いし息がしんどい。……でも、この手を離すより痛い方が断然マシだ。
「……うっわぁ。えー……? いや、ちょっと、タイラさーん、こまるー。手離してもらわないとー困るんですけどー」
まったりと、あまりにもいつも通りの声が眼下から聞こえて本気でむかついた。マジで、本気で、心底俺は激昂していた。
「うるっせークソヤロウ、さっさとどうにか登ってこい!」
「やーだよー。おれが助かったら意味ないじゃんー? おれはさっさと放り投げたんだからさぁ、タイラさんがしがみ付いてたらダメなんだってばー。ほらほら、さっさと放り出してよー」
「馬鹿か! 馬鹿だな!? いや馬鹿だわ忘れてたおまえほんとそう言うとこだよ! んな軽々しく人様の命放りだせるわけねーだろ!」
「えええ……いやいけるいける。タイラさんならやれるー。同居人の命勝手に削ってたじゃん? あれとこれ、何が違うの? ね? 一緒じゃん? じりじり死ぬか、一気に死ぬか、それだけじゃん? しかもおれはほら、おれの命でトワコ殺せるよーたぶん。さいこうじゃん? ね、ぶんなぐらせてよトワコー。あいつ嫌いなんだよータイラさんが一番嫌いなの、トワコじゃんー」
「おま……、トワコ、居なくなって、でも、おまえも居なくなったら、一番はおまえじゃなくなるだろうがよ!」
「え、そう? そうかな? 自分の為に死んじゃった人とか、タイラさんそんなさっさと忘れなくない? トラウマになっちゃうんじゃない? うん、そうだよーたぶんそうなる。なんか、楔いいじゃん? いまこそおれの命の使い時じゃん? おれあったまいいーって思ったけど、タイラさんのトラウマになる的な意味でも完璧なタイミングじゃん!?」
「くそみてーなトラウマ植え付けようとすんな馬鹿野郎!」
だめだほんとクソヤロウすぎて涙出て来た。
腕が痛い、肩が痛い、ちぎれそうだしどっかしらちぎれてんだと思う。重くて重くて痛くて重くて、支えられてなくて、ずるずると少しずつ、ナガルの体重に引っ張られて滝つぼのほうに引き寄せられていく。
左手と俺の身体じゃ、ナガルを支えきれない。持ち上げるなんて以ての外だ。どうにか自力で這い上がってきてもらうしかないのに、当のナガルは離せ離せと煩い。
死んでも離さない。ぜってーに離さない。
その心意気だけはあるが、実際に俺の身体がどれだけ踏ん張れるのかはわからない。ついでに、このくそ馬鹿野郎を説得できる自信もない。
勿部ナガルは化物だ。たぶん、人間とは別の生き物だ。
それはわかっていたつもりだったけど、まさか、あんなに爽やかにいきなり死のうとするなんて、予想できるわけがないだろうがよ。
「なんで、そんな……おまえの、命って、そんな、軽いもんなのかよ……」
「うーん……? やー、べつに、重くも軽くもないと思うけどー。使えるなら使い時じゃない? って思っただけでさー」
「死ぬの、怖くないのか」
「別に? おれ、死ぬのが嫌で生きてるわけじゃないしなぁ。死ぬ理由も特にないから生きてたって感じかな。だからほら、理由が見つかって正直ハッピーなんだよね。化物の命でもさぁ、誰かのために消費したら人間カウントしてもらえるかもじゃん? あは、別に、死後の世界とかに何の期待もしてないけど!」
「…………」
生きる理由がない。かといって死ぬ理由もない。だからなんとなく生きていたナガルは、死ぬ理由を見つけてテンションぶちあがってる……ってことで合ってんのかこれ?
なんだそれ。意味がわからなすぎてまた腹が立ってきた。
なんだそれ、ほんと、なんだよ、俺の事は無視か。俺なんてどうでもいいのか。自分がハッピーなら後はどうでもいいのか。俺が泣くのが、そんなに嬉しいのか。
なんだそれ。……俺の、鎌屋平良のトラウマになりたい、だなんて、俺はそれ喜んでいいのか悲しんでいいのか怒っていいのか、もう全然わかんねーよ馬鹿野郎。
「ねータイラさーん。おれさぁ、ほら、こんなじゃん? ふふ、人でなしってーの? だからさーぁ、タイラさん誤解しちゃってるかもしんないから、一応言っとくね?」
「……なに、」
「おれねータイラさん好きだよ。けっこーちゃんと好き」
ひっ、と息が詰まった音は、聞かれなかっただろうか。いや今は、そんな些細なことを心配している場面ではないんだけれど。
思いのほか柔らかな声は、場違いな空気を存分に纏って下からふわふわと立ち上る。
「タイラさんがさー人と喋るときちょっと時間かかんのってさ、嘘つくのが苦手だからだよね。どうやって言葉ひねり出したらいいのかなって、どう言ったら間違えずにきちんと伝わるかなって、ビビっちゃって考えちゃうから時間ばっかりかかっちゃうんだ。おれ、そういうとこ好き。時間無駄にしまくってんのはたるいなーもうちょいどうにかなんないのかなーって思うけどさー、嘘つくより全然いい」
「……おまえは、嘘が、嫌いだから?」
「うはは、そう! 大っ嫌い! いつでも本当のことだけしか言いたくないし聞きたくない! 面倒だもん、おべっかもお世辞も回りくどい嘘も全部全部面倒だもん。だからタイラさんのこと好きなんだってのは、本当だよ。別におれもさぁ、やったー死ねるラッキー☆ なんて思っちゃいないよ、ほんとだよ? たださ、ほら、目に見えるもの全部助けてたらおれが疲れちゃうけど、藍ちゃんとタイラさんはたすけなきゃでしょ?」
だから手を離してね、と笑った気配がした。
もう痛くて寒くて意識がぶっ飛びそうで、自分が何を見ているのかもわからない。
それに――さっきから、何かが俺の足を掴んでいる。
この場に人間はいない。ナガルと俺しかいない。だから俺の足を掴んでいるのは、遅れて登場した心強い助っ人なんかじゃない。たぶん、きっと、ナガルを引っ張り上げてくれる優しい誰かなわけがない。むしろその逆なんだろう、ほら、ずり、ずり、と、何かがおれの足から腰のあたりに這い上がってくる。
ザアア、と、服の上を擦るこの音は、ああ、うん、髪の毛か。女の長い、髪の毛の感触だ。
「……こまる」
冷たい息が、背中に落ちる。
誰かの口がぴったりと、肩甲骨のあたりに貼りついて、はあああ、と息が零れる。鳥肌なんて立てている余裕はない。寄るな触るなと喚いて振り落とす余裕もない。俺はいま、絶対に離しちゃいけない奴を掴んでいるんだ。
「おまえが死ぬと、俺が、困る。だから軽率に死ぬとか言うな馬鹿。死のうとすんな馬鹿。死んだら解決じゃんとかあほなこと抜かすなクソヤロウ」
「わぁ……えええ? なんか熱烈に求められてんのに、解せない感じ……てーかタイラさんってそんなにおれのこと好きだったの? うーん、じゃあ、やっぱここでパーッと死んで、タイラさんの心に消えない傷を叩きつけちゃうのがベストなんじゃ……」
「どうしておまえはそうやって屑みたいな思考回路してんだよッ!」
「え、屑だからだよ? おれ、タイラさんの一番になりたいもん。あなたの人生のなかで、一番、ダントツ、他の追随許さないくらいのトラウマクソヤロウでいたいもん」
「もううるせーよ黙って登ってこい、腕が、……ッ」
「……うわ。タイラさん、やばい、まじ、離して、ほんと、トワコ、背中に、いんじゃん! 離せ! あなたが飲み込まれたら意味がない! タイラさんは生きるんだから!」
「離さねーっつってんだろッ!」
耳の後ろをナメクジみたいなもんがはいずり回って、あ、やべ、これ舌だ、って気が付いた時に一気に恐怖と嫌悪が足から這い上がった。
しかもナガルが暴れ始めた。離せ、とうわごとのように叫ぶ。……勿部ナガルってそんな風に叫べたの? 怒鳴れたの? ちょっと予想外だよおまえ、それ。
あー……だめ、痛い。ナガルそれ、俺の為に怒鳴ってんだよな? って思ったらよくわかんないけど力が抜けちゃって、ずるり、と真下に落下した。
落ちる。
薄れゆく記憶の中で、俺を罵る声が聞こえた気がした。
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