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第6話

 まとめ上げた鑑定書にサインをして京介は時計を見上げた。時刻は十五時を少し回ったところ。努めて平静を装いながら、京介は立ち上がって研究室の主のところへと足を向ける。 「山崎教授、今日はもう何もないですか?」 「そうだね。飛び込みの依頼もないし、帰っても大丈夫だよ」  初老の紳士は穏やかに微笑んで言う。法医学者よりも小児科医のほうがお似合いなのでは、とは誰もが覚える印象だろう。会話の度に人の心をほわんとさせるのは、もはや教授の天賦の才だ。  緩んだ頬を隠さないまま、京介はデスクへと戻ろうとする。その瞬間、全てを打ち壊すような叫び声が研究室中に響いた。 「近江谷先生っ!」 「……なに、萩野先生」  予想通りの人物に、京介はきゅっと眉根を寄せる。今日は何だ、解剖写真のデータがないのか、鑑定書を突き返されたのか、それとも。起こりうる可能性をあるだけ予想していると、瑞樹はずい、と京介の方へと身を乗り出してきた。 「デートですか?」 「は?」 「一昨日のおにぎりを作ってくれた彼女と」 「……」  瑞樹の瞳は真剣そのもの。いっときの冗談だと片付けていた京介は、これ見よがしにため息を吐いた。 「ソレイユの季節限定ケーキを買いに行くだけだけど?」 「そんなぁ!彼女はどうするんですか!?」 「勝手に俺に彼女を作らないでくれる?おにぎりのことだって……、」  あのおにぎりは、彩花堂で紘人にもらったものだ。事実を言った方がいいのか言わざるべきか、迷った結果言いよどむ形になってしまう。瑞樹の目が怪しく光ったように見えたが、京介は気付かない振りをして帰り支度を整えた。 「お先に失礼しまーす」 「ああっ!近江谷先生、話は終わってませんよ!」 「俺から言えることは終わってんの」  ひらりと手を振って、京介は研究室を出る。さすがに今日であれば、パティスリー・ソレイユは開いているだろう。先日食べ損ねた分は、今日取り返してやらないと。  海沿いにある彩花堂とは対照的に、ソレイユは住宅街の一角に店舗を構えている。ちょうど京介が初期研修を終えて法医学研究室の扉を叩いたあたりに開業したこの洋菓子店は、通う頻度も相まってすっかり馴染みになっていた。一面がガラス張りになっている店舗は、いつも季節のモチーフで賑やかに飾られている。 「よかった、開いてる」  リベンジ成功。店先のシャッターが下りていないことを確認した途端、京介の歩みは自然と早くなる。  夏らしく海とひまわりで飾られた入り口。自動ドアをくぐれば、ふわりと甘い匂いが漂う。ケーキのショーケースに、焼き菓子の棚。通い慣れた店の落ち着きに、京介の口元も緩む。そのまま一直線にケーキの方へ向かうと、ショーケースの向こうにいた小柄な女性が振り返った。 「いらっしゃいませー、って、近江谷先生。お仕事終わりですか?」 「はい。せっかくだから夏の限定品を一つと……、焼き菓子も買おうかな」 「ありがとうございます!ゆっくり選んでくださいね」  ケースの向こうの女性はぱっと顔を輝かせる。まんまるの大きな瞳が印象的な童顔をした、まさにケーキのふんわり感を体現したようなこの女性は、『ソレイユ』が開業したときから働いている。それ以上のことは、京介は知らなかった。 (知る必要もないし、な)  個人情報を知ったところで、店員と客という関係が崩れることはない。自分の名前と職場が知られていることについては、ポイントカードと間違えてうっかり名刺を出してしまった延長の話。確かに、名刺に『法医学研究室』なんて記載があったら、たいていの人は突っ込みたくなるだろう。  夏の季節限定ケーキであるオレンジタルトを箱詰めする店員を横目に、京介は焼き菓子の棚へと足を向けた。定番のクッキーやマドレーヌに、季節商品としてなのか常温保存できるゼリーも並んでいる。しょっちゅう来ているはずなのに目移りしてしまうのは、美味しいのもだけれどバリエーションも豊富だからだろう。遠くで自動ドアが開閉する音や店員の声を聞きながら、京介は焼き菓子の前でたたずむ。  今日はバターサブレとフロランタン、くまの形をしたマドレーヌ。近々英介一家が来るだろうから、姪っ子二人の分も見越して多めに買っておかないと。カゴにお菓子を放り込む間にも、お客さんは出入りしているようだった。繁盛しているなぁ、なんて頭の片隅で思っていると、耳が店員さんの声を拾う。 「あれー、紘人じゃん」 「!」  最近引っかかって取れない名前。思わず顔を上げて振り返ると、ショーケースの前に立っていた人と目が合った。 「近江谷さん!」 「あ、ど、どうも……」 「えーなに?紘人、いつの間に近江谷先生と知り合ってんの?」  興味津々という雰囲気の店員に、ぱっと顔を輝かせる紘人。なんだかいたたまれなくて、京介は思わず視線を逸らした。

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