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第8話

 触られたところに自分の手を添えながら、京介は曖昧に頷いた。ぼんやりする頭のまま支払いを済ませてお菓子を受け取る。今日はもう、さっさと帰ってゆっくりしたい。そうよぎるのに、京介の視界にはまだ紘人の姿が映り込んでいる。 「……何ですか、紘人さん」  向こうから話しかけてきたわけではないのだから、気付かないふりをして店を後にすることもできたはず。だというのに、京介の口は半ば無意識に紘人の名を紡いでいた。  問い掛けられた側の紘人は一瞬きょとんとした顔をして、すぐに表情をほころばせた。人懐こい大型犬のようだ、と京介はまじまじと紘人の顔を見上げる。 「そういえば、近江谷先生って何の先生なのかな、って思ったんですよ」  へへ、と笑う紘人になんだか心の奥の方がふわりとほどけるような心地がする。案外緊張していたのだろうか。身体の中に溜まっていたものを出すように、京介はひとつ息を吐く。  陽菜にはすでに職場まで知られているのだから、隠していてもバレるのは時間の問題だ。そもそも隠そうが隠すまいが、京介にとっては些細なこと。京介はまだ手元にあった財布の中から名刺を取り出して、紘人の前に差し出す。 「そこの大学の医学部、法医学研究室。助教の近江谷です」 「えっ、お医者さん!?格好いいですね!」 「でしょー?こんな綺麗な人が司法解剖とかしてるの、ギャップ萌えってやつじゃない?」 「なんで陽菜が得意げなんだよ……」  会話に割り込んできた陽菜と、呆れたようにため息を吐く紘人。またもやもやした、明確に言語化できない気持ちが全身を包む。そもそも、綺麗って何だ。京介は無意識のうちにすっと顔を背ける。 「……それじゃ、また来ます」 「はーい、ありがとうございました!」  いつも通り、陽菜の明るい声が背中を追いかけてくる。今日はついでとばかりに、別の声も重なった。 「彩花堂でお待ちしてますね、近江谷先生!」 「――っ、」  かっ、と顔が熱くなる。京介は真正面を見られないまま振り返って、形だけの会釈をして早足でその場をあとにした。鼓膜の後ろに心臓を持ってきたかのように、心拍が妙に近くにある気がする。 (せっかくの安寧の時間が……!)  帰路につく間に考えるのはお菓子のことではなくて、さっきのソレイユでの一件。あの女の人は店員ではなく店長で陽菜という名前だということ、紘人と仲が良いこと。触られた肩にまだ熱が残っている気がすること、――それから。 (あぁもう、)  きっと、色々な情報を取り込みすぎたせいで頭の整理が追い付いていないのだろう。家に帰ってゆっくりしたら落ち着くに違いない。  無理矢理自分を納得させて、京介は早足で自宅への道へと進んでいった。

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