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第15話

(……今日は行けなかったな、)  鑑定書にサインをしたときには、時計の針はてっぺんを回っていた。特に珍しいことではないけれど、今日みたいな日こそとびきりのお菓子を食べたかったというのに。 「ま、明日でも食べれるし……」  パソコンの電源を落としながら京介は呟いた。小さいはずの声は、誰もいない法医学研究室に存外響く。お疲れ様でした、と一言付け加えて、京介は立ち上がった。  しんとした大学内で、附属病院の救急受け入れ口のランプが煌々と光っている。京介が近くを通り過ぎる間に救急車が一台やってきて、バタバタと人が動くのが見てとれた。忙しいだろうな、と思いながら京介はそのまま大学をあとにする。  大学と自宅マンションは歩けない距離ではない。疲れた日はタクシーを使うことを検討する程度、地下鉄で一駅といったところ。道路を行き交うタクシーを横目で見ながら、京介はそのまま徒歩で帰ろうと決めた。静まり返った街の中、思い出すのはさっきの検死のこと。 (今日のはひどい案件だったな……)  隠れた部分の火傷跡に、CTを撮ってみて分かった無数の刺し傷。三歳という年齢では抵抗云々の話ではない。頼る相手が親くらいしかいない子供は、何を思って殺されたのだろう。  慣れろとは言わないけど隠して。瑞樹に言った言葉は、そっくりそのまま京介も日々言い聞かせているもの。 「……慣れないよなぁ」  ぽつりと独り言を吐いて、京介はようやくあたりを見回した。都会の真ん中だからこそ、人通りが少ないだけで随分と寂しく感じる。そこで向かっていた先が、自宅ではないことにも気付いてしまった。 「……なんで、」  顔を上げた先に見える、レトロなたたずまいの和菓子屋。深夜の彩花堂には、当然ながらのれんなど出ていない。どれだけ菓子を求めていたのか、と京介は一人で苦笑した。  うっかりここまで来てしまったのだから、店先を覗いていくくらい許されるだろう。明日はきっと、どこかで時間を作って来るつもりだから。  星空の下、ひっそりと彩花堂はたたずんでいた。かろうじて扉のガラス張り部分からショーケースの姿は見えるけれど、何が並んでいるかなど全く分からない。誰かがいる様子だって、もちろんない。和菓子屋は朝が早いのだから、当然のことなのだろう。 「帰ろ」  一通り夜の彩花堂を眺めてから、京介は自宅方面へと足を向ける。その瞬間、後ろからガチャリと扉の開く音がした。思わず振り返ると、作務衣姿の紘人が裏口から顔を覗かせていた。 「近江谷先生?」 「紘人さん……?」 「どうしたんですか?あ、ちょっと待ってて」  紘人はそう言うと、そばにあるゴミ集積所の扉を開けてから裏口からいくつかゴミ袋を出してきた。慌てて手伝おうとすると、紘人にやんわりと止められる。 「重いよ?先生の腕だと折れちゃいそう」 「女子じゃないんだから……」 「ふふ」  紘人は笑ってゴミを目的の場所に収めて扉を閉めた。ひとつひとつを置くときにものすごく重量感のある音がしていたから、本当に京介では持ち上がらなかったかもしれない。同じ男なのに理不尽だ、と少し面白くない気分になる。 「先生は今仕事終わり?」 「あ、うん……」 「先生?」  返事をするだけして黙ってしまった京介に、紘人は案じるような目をして近寄ってくる。そうして首を傾げ、少し考えてから口を開いた。 「あのさ、遅いけどちょっと時間いいかな?」 「えっ?」 「夕ご飯。先生、まだでしょ?」 「……」  確信を持ったように言われて、京介はうっと言葉に詰まる。そういえば、最後に食べたのは昨日の昼だ。昨日の夜は面倒になって、今朝からは検死案件で胸糞悪くて食事をする気になれず、そのまま退勤。こうなったら明日まで食べても食べなくても一緒だと思っていたのに。 「うちの夕食の残りだけど食べていきなよ。試作品もあるし」 「そんな、急に悪いんだけど……」 「いいっていいって。母さん、今日は友達の家でお泊まりだし、そんな死にそうな顔色をした先生をそのまま帰すわけにはいかないしね」  全て見透かしたように言って、紘人はにこりと笑った。彼の表情は穏やかなのに、逆らえる気がしない。断る理由もなく、京介はただ頷いた。それを承諾の意と取ったのか、紘人は裏口の扉を開けて京介のことを手招きする。

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