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第16話

「ここ入って、左手の方に階段があるから。上がったところの部屋で待ってて。洗面所とトイレは向かいだから、必要ならどうぞ」 「あ、えっ……、おじゃまします」  他人の家に入るなんて大学生の時以来だろうか。そわそわと落ち着かないまま、京介は裏口で靴を脱いで廊下へと足を踏み入れた。きし、と床板が音を立てる。どことなく造りの古い家は、田舎の祖父母の住まいを思い起こさせる。 「……ここか」  上がってすぐ、のれんで区切られただけの部屋には明かりがついたままだった。ローテーブルとソファーがあるところを見るに、居間のようだ。  家主が来ないのに座っているのもいかがなものか。洗面所で長めに手洗いをしてみても、紘人はまだ上がってこない。独特の居心地悪さを覚えながら、京介はそっと部屋の中を見渡した。 「……あ、」  部屋の一角に、写真立てが並んでいる。創業当時の彩花堂、二代目に代替わりしたときの家族写真、最近のものと思われるスナップ写真。もちろん、紘人の姿もちらほらあるけれど、最新とおぼしきものは製菓専門学校の卒業写真だ。陽菜と仲良さげにツーショットで写っている一枚を最後に、その後の家族写真にすら加わっていない。 「……?」  どこか覚える違和感に、それとはまた別のもやもやした気持ち。居心地悪さと一緒に飲み込んでひとつ息を吐く。勝手に人の家の物を物色するのはやめよう、そうよぎったときに写真とはまた別の物が目に付いた。  明らかに幼児が描いたであろう、画用紙を色とりどりのクレヨンの線が埋め尽くしている絵。数人描かれた人物の上には、これまたたどたどしい平仮名が書かれている。 (まま、あいり……って、あの子か)  例の親子を思い出す。あの日以来、それにお礼のお菓子を紘人経由でもらってからも会うことはなかった親子連れ。今もつつがなく生活しているだろうか。可愛らしい絵をしげしげと眺めていると、後ろで床の軋む音がした。 「っ!」 「あ、ごめん。驚かせちゃった?」 「いや、こっちもぼんやりしてて……」  振り返ると、夜食の用意を済ませたらしい紘人がお盆を持って立っていた。なんと返事をしていいのか迷っていると、紘人は一旦持っていたものをローテーブルに置いて隣にやってくる。少し高めの体温が感じられる距離に、じわりと心拍が上がる。 「この絵、昨日手紙で届いたんだ。こないだ迷子になっていた女の子のところから」 「ああ、あの子」 「お母さんの手紙だと、これが俺でこっちが近江谷先生だって。可愛いね」 「……」  紘人が指差すのは、後ろに二人並んでいる人の絵。全開の笑顔という感じの紘人に黒縁眼鏡の京介とは、三十分程度会っただけの割に的確に特徴を捉えている。なんとも微笑ましい絵だ、ある一点を除いては。 「俺ら、二人とも『パパ』なんだね……?」 「そうみたい。大きい男の人はみんなパパだと思ってる、って手紙に書いてあって」 「……ふーん」  紘人の言葉に、京介はまた疑問を覚える。果たして、五歳の子供が世の大人の男性全てを父親だと思うだろうか。あの日会った『愛莉ちゃん』は、それくらいの区別が付かない子供のようには思えない。  この拭い去れない違和感はなんだろう。様々な可能性を考えてみても、その先の行動が現実的ではない。泥沼にはまりそうな思考を引き上げたのは、どこかのんきにも聞こえる紘人の声だった。 「とりあえず、食べられそうだったら冷めないうちにどうぞ」 「あ……、」  促されるままにソファーに座る。目の前にあるのは親子丼だろうか。小さめの丼の上に、ふわふわの卵でとじられた鶏肉と玉ねぎがのっている。添えられているのは、ワカメと焼麩の味噌汁に、今朝写真で見たジャックオーランタンの練り切り。しばらく忘れていた空腹感が少しずつ顔を覗かせる。 「いいの?」 「良くなかったら出してないよ?」  紘人に微笑まれて妙な緊張を覚えながら、京介は箸を取った。丼を持ち上げてから一口分をそっと掬うようにして、鼓動と一緒に飲み込む。薄味でだしのきいた風味が口いっぱいに広がり、ふわりと鼻腔を抜けてゆく。 「……おいしい」 「そりゃ良かった」  ちまちま食べ進める京介を、紘人はどこか楽しげに眺めている。 「どうかした?」 「ん?先生のひとくちがちっちゃくて可愛いなって」 「……可愛いはないだろ」 「ふふ」  紘人はひとつ笑って、京介の頭を撫でた。突然のことに、かっと顔に血液が集まってくる。それでも振りほどくのはなんだか失礼な気がして、京介は抗議の意味も込めて紘人の顔を見上げた。柔和な瞳と視線がかち合う。 「紘人さん、あの……」 「先生、ちょっと元気になったね。良かった」 「えっ?」 「さっき、本当に死んじゃうんじゃないかって顔色と雰囲気だったから」  ぱっと手を離して紘人は言う。そうか、俺のことを励まそうとしてくれていたのか。今までの紘人の行動に合点がいったとばかりに、京介はそっと丼を置いた。 「まあなんていうか……仕事で嫌な案件があっただけなんだけど」 「そっか。俺には詳しくは分からないけど、先生のお仕事ってしんどい事件に関わったりもするんでしょ?」 「ん……、でも、それが仕事だからね。後輩に偉そうなこと言っても、結局俺もまだまだだなーって思うよ」  ぽろりとこぼれる、胸の内のやわらかいところ。普段弱音を吐くタイミングがない分、うっかり泣きそうになってしまう。ごまかすように再度箸を取ると、紘人が何か考え込むように見つめてきた。 「近江谷先生」 「……ん?」 「つらいことはつらいって言っていいんだよ。俺は医学のことは分からないけど、先生の話を聞くくらいは出来るし」  紘人の手がまた京介の頭を撫でた。男らしく骨張った指が、意外と繊細な手つきで髪を梳いていく。感じたことのない心地好さに、胸の奥にほわりと温もりが灯る。 「それはちょっと申し訳ない……、けど、ありがと」  くすぐったいような気持ちがわいてきて、ごまかすように残りの食事をかきこむ。気付けば、練り切りのかぼちゃお化けまでしっかり平らげてしまっていた。普段の京介からは信じられないほどの、きちんとした一食。 「ごちそうさま。一日ぶりなのに食べ過ぎちゃった」 「この量で!?っていうか、一日ぶりってまさか食事のこと!?」 「遅いし眠くなりそうだから、片付けたら帰るよ。流しは?」 「隣の部屋だけど……」  食器類をまとめて立ち上がろうとする京介を、紘人の視線が絡め取る。流しに行かれちゃまずい理由でもあるのだろうか。首を傾げると、紘人は余計難しそうな顔をした。 「……なに?」 「先生、そんな生活してたらいつか倒れちゃうよ。……そうだ、」 「ん?」  天才的なひらめきを得たとばかりに、紘人は目を輝かせる。 「先生、夕食だけでも良いから食べに来なよ。作る手間なんてそんなに変わらないし」 「いや、さすがにおかしいだろ」 「そうかな?知ってしまった以上ちゃんと食べてほしいって思うのは自然な成り行きだし、先生の話も聞いてあげられるし」  至極当然といったように、紘人は身を乗り出してくる。反射的に同じ距離を後ずさって、京介はうっと顔をしかめてみせる。  確かにありがたいといえばありがたい。だけど、兄ならともかく紘人は完全に他人だ。そこまで世話を焼かれるのは、申し訳ないを通り越して意味が分からない。どう返答しようか、ぐるぐる考えているうちに紘人が追い打ちをかけてくる。 「母さん、最近俺がいるのをいいことに友達のところで過ごしがちなんだよね。一人の食事も味気なくてさ」 「……それで?」 「ん?母さんがいない日に話し相手で来てくれたら俺も楽しいし。忙しいなら、前みたいにおにぎりだけ持っていってくれてもいいしね」 「……」  決定事項かのように話す紘人に、京介はますます返答に困る。一方で、このままお言葉に甘えるのも悪くないのでは、という考えも湧いてきていた。確かに学生時代や初期研修医時代は、友人持ち回りで食事を作ることは珍しくなかった。紘人もそれくらいの感覚で申し出てくれたのかもしれない。ならば。 「何卒、よろしくお願いします」 「そんなにかしこまらなくてもいいのに」 「むむ……」  あっさりとした紘人の物言いに、自分の方が深く考えすぎてこじらせているような気さえしてしまう。紘人としては、本当に近場の友人をご飯に誘っているくらいの認識なのだろう。変にあれこれ思案を巡らせている方が、かえって馬鹿らしいのかもしれない。 「材料費くらいは払わせてよ?」 「気にしなくて良いのに」 「俺が気にするの」  京介の妥協案に紘人は苦笑して、まとめてあった食器を持って立ち上がった。慌てて京介が腰を上げる前に、紘人はさっさと流しへと食器を運んでしまう。 「遅いし泊まってく?」 「帰るよ。徒歩圏内だし、面倒になったらタクシー使うし」 「ん、分かった」  時刻はもうすぐ丑三つ時。正直眠かったけれど、これ以上長居するわけにはいかない。帰り支度を整えると、紘人が先に階段を下りていってドアを開けてくれる。 「気をつけてね」 「ありがとう。おじゃましました、おやすみ」 「おやすみなさい」  軽く手を振ってから、京介は自宅方向へと足を向けた。なんだか、一歩一歩がふわふわしているような心地がする。  浮かれている、のだろうか。職場外に新しい友人ができたようで。らしくない、と思いながらも無意識のうちに口元が緩みそうだ。  職場を出てきたときの重苦しい痛みは、とうに溶けてなくなっていた。代わりに広がるあたたかさに、京介は星空に向かってほうと息を吐いた。

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