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第20話

「俺、医者になろうと思った理由が人体に興味があるから、もっと言えば『どうして生物は死ぬのか』ってことを知りたかったからなんだよね」 「……え?」 「よくある『病気の人を助けたい』とかじゃないんだよ。引いた?」 「いや、全然。……言われてみれば、らしいな、って感じはする」  ふふっ、と紘人の笑い声が溶け込む。心の奥で固まっていた何かがゆるりと溶けていくような心地がする。 「大学四年の時に法医学自体には触れていたんだけど、それまででさ。国試終わって初期研修、ってタイミングでは救急医志望だったんだよね」 「救急?」 「変な話、一番生と死の狭間じゃん、救急って。一瞬の判断やバイタルの変化がどう人を生かす方向にいって、どう死に近付くのか。そこをどうやって救命に繋げるのか。他科も回ったけど、やっぱり救急の緊張感と立て続けの判断が一番好きだったな。でも、」 「でも?」  京介は一息吐いて、天を仰いだ。ここから先は、あまり他人に語ったことがない。 「……体力が追い付かなくてしょっちゅう倒れていたから、限界感じて断念した」 「あぁー……」  妙に納得したような紘人の声が響いた。この話を聞いた数少ない人たちは、十中八九同じ反応をする。京介は自嘲気味に笑って続ける。 「一応頑張ろうとは思ったんだけどさ……。『救急の眠り王子』なんてあだ名をつけられて、やらかす度に兄ちゃんに迎えに来てもらってたら、さすがに無理だと思って。で、進路に迷っていたときに法医学教室に空きが出た、って案内を見て」 「それで行ったんだ?」 「うん。法医学は『どうしてこの人は亡くなってしまったのか』をご遺体からどれだけ正確に読み取れるか、って学問なんだよね。それが、ちょうど医者になろうと思ったきっかけとも一緒だった、って気付いて」 「なるほどね。うん、本当、近江谷先生らしい」  優しい紘人の声に、胸の中で溶かされたものがあたためられて、身体いっぱいに広がっていくような心地がした。じわじわ温かくなってゆく、ゆるやかに心地好さが侵蝕してゆく。紘人の顔を覗き込めば、いつもより上気した頬のまま穏やかに微笑まれる。 (――っ、)  なんだ、この感覚は。気管をきゅっと握られたように、息が詰まる。 「ご、ごめん。話しすぎた。早く寝た方がいい、よね?」  ごまかすように立ち上がると、つられるように紘人も布団の上で上体を起こしてベッドに腰掛けた。慌てて布団に戻そうとすると、紘人はお構いなしとばかりに京介の腕を掴む。 「あ、えっ?」 「近江谷先生、ひとつだけお願いしてもいい?」 「なに、を……?」  少しとろりとした目のまま問われ、京介は首を傾げる。 「人恋しいんだけど、ぎゅってしてもいい?」 「え……っ、」  思いがけない提案に、一瞬固まってしまう。それでも、京介が帰ってしまえば紘人はしばらく一人きりだ。いつもお世話になっていることを考えれば、これくらいの『お願い』は聞いた方がいいのだろう。 「……この貧相な身体でよければ」 「ふふ、ありがとう」  言うやいなや、紘人は掴んだ腕を優しく引き寄せて京介のことを腕の中に収めた。人間の平熱より二、三度高い体温に反して、鼓動は力強く落ち着いている。腕を回さずとも分かるしっかりとした胸板は、頼もしいの一言に尽きる。なんとなく身を任せたままでいると、不意に紘人の手が背を撫で上げた。 「っ!?」 「先生、ほんと細すぎ。またご飯食べに来なよ?」 「わ、分かった……」 「名残惜しいな、先生。でもうつしても悪いし、俺もう寝るね」 「うん、」  そうしてくれ。色々な意味で。  京介はそっと心の中で呟く。想像もしていなかった方向で心を乱されたけれど、今日のところは一件落着となるだろう。  ――そう、思っていたのに。 「……ん」  離れる直前。紘人の顔が、ふっと京介の首元に寄せられる。そのまま鎖骨のあたりに、音を立てて柔らかいものが触れて、離れる。 「ひっ、紘人、さん……!?」 「……!」  事象と行為の名称を紐付けるのに、わずかなタイムラグが生じる。  キス、された。一気に、身体中の血液が沸騰する。紘人はといえば、熱で染まった頬を更に紅潮させて、慌てたように布団の中へと戻ってしまう。 「ご、ごめん、あの……」 「だっ、大丈夫だから……、その、ゆっくり寝ろよ」 「う、うん……」 「じゃあ、おやすみ。おじゃましました!」  階段を駆け下りて、そのまま彩花堂をあとにする。冷たい空気が、今はありがたかった。しばらく冷めないだろう熱が、ぐるぐると全身を巡っている。 (次会ったとき、どんな顔すりゃいいんだよ……!)  抱き留められた時の頼もしさ、心地好さ。驚きが九割だった首元へのキスについても、恐ろしいことに嫌悪の類は一切感じなかった。いや、意識する方が馬鹿なのか。これはただの事故で、明日には何事もなかったことになっていて、紘人も忘れてしまっているに違いない。 「――あぁもう!」  今更、荷物に入れっぱなしの鍵のことを思い出す。ほとぼりが冷めるまで彩花堂に寄るのはやめようと思っていたが、そうは問屋がおろさないらしい。  明日までに、今日のことは忘れよう。一人で固い決意をして、京介はそっと首筋を撫でた。

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