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第21話

 あまり眠れないまま京介は次の朝を迎えていた。一晩経つというのに、抱き寄せられた感覚や首元に触れた唇の柔らかさが張り付いて離れない。 「くそっ……」  洗面台の前で、京介はひとつ舌打ちをした。どうして一人で動揺しているのだ、過去に彼女がいたときに相手に触れても、ここまで引きずることはなかったのに。諸々の思いを流すように、冷水で思い切り顔を洗う。 「……鍵、返さないとな」  紘人の体調は良くなっただろうか。心配半分、緊張半分で京介はスマホを手に取った。よく考えてみれば、紘人から連絡が来ることはあっても自分からメッセージを送るのは初めてだ。当たり障りのない文章をなんとかひねり出しながら、液晶画面とにらめっこする。 「『おはようございます。体調はどうですか?借りていた鍵を返すのにそちらに伺いたいのですが、お時間はありますか?』……こんなもんか」  さっと誤字がないかだけを見直して、京介はすぐに送信ボタンを押した。今日の仕事は何だっただろうか。なんなら鍵だけポストに突っ込んできてもいいはずなのに、会うタイミングを見計らっている自分に、京介は自嘲気味に笑う。  法医学研究室はもちろん忙しいが、他科に比べると比較的休みが取りやすい部署ではある。ほとんど手つかずの有給休暇のことを思いながら、京介はスマホをポケットにしまった。今日は学生への講義もないし、余裕があれば午後くらい休みをもらってもいいだろう。とりとめなく考えながら、京介はさっと出掛ける準備を整えて家を出た。晩秋の空気が冷たく刺さる。なのに、バッグに入っている鍵のことを考えると、なんだかドキドキして全身が熱くなるような心地がする。 (いや、おかしいだろ……)  どこか落ち着かないまま、京介は大学への道を早足で進んでゆく。今までに知らなかった焦燥感のような浮遊感のような、妙な感覚。それを振り払うように思い切り頭を振ったタイミングで、後ろからいきなり肩を叩かれた。 「おわっ!?」 「おはようございます、近江谷先生。朝からどうしたんですか?」 「……萩野先生、」  振り返ると、どこか楽しげにこちらを見る瑞樹と目が合った。京介は面倒くさいという感情を隠そうともせず、盛大にため息をついてみせる。 「何でもない」 「そうですか?さっき何かめっちゃ悩んでましたよね?」 「気のせいじゃない?……あ、」  適当にごまかしていると、ポケットの中でスマホが着信を告げる。まさかと思って画面を見ると、メッセージではなく音声着信。発信者名には『五条紘人』の文字が並んでいる。京介は瑞樹が隣にいることも忘れて通話ボタンを押した。 「もしもし、紘人さん?」 『あ、近江谷先生』  電話越しに名を呼ばれる。昨日よりも声に元気が戻っているような感じがした。少しほっとしていると、くすくすと笑い声が耳に届く。 『あんなにかしこまった文章、今更じゃん。もっと気楽にメッセージ送ってくれていいのに』 「うっ……慣れたらね。それより、体調はどうなの?熱は?」 『微熱くらい。店は休むことにしたから、一日家にいるよ』 「ん、分かった。行くときに連絡、します」  それじゃ、と告げて通話を切断する。午後休をもらわなくても昼休みに抜けるくらいでいいだろうか、などと考えていると、不意に横から視線を感じた。そちらを向かなくても分かる、興味津々といった瑞樹の目。今視線を合わせたら余計な詮索をされかねない、と京介の直感が訴えている。 「何、萩野先生」 「紘人さん、ってあの穏やか系イケメンの和菓子屋さんですよね?どうしたんですか、なにか訪問のご予定でも?」 「……昨日、教授のお使いに行ったじゃん。その時に紘人さんが風邪引いたって聞いたから差し入れしに行ったんだよ。で、帰りに裏口の鍵を返し忘れちゃったから、今日返しに」 「ふーん……?」  言い訳するように並べた言葉を追いかけてくるのは、ご機嫌そうな瑞樹の声。嫌な予感がする。そのまま瑞樹を無視して研究室へ向かおうと一歩足を踏み出したが、それより早く手首を掴まれて引き留められる。 「ちょ、離せって!」 「それは自分の筋力のなさと体幹の弱さを恨むんですね、近江谷先生」  不敵に笑う瑞樹に、感じていた嫌な予感が確信に変わる。そんな京介をものともせず、瑞樹はもう片方の手でさっと自分のスマホを取り出し、どこかに電話をかけ始めた。

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