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第22話

「……あ、山崎教授!おはようございますー、萩野です」 「!?」  相手は聞き間違えでなければ法医学研究室の主だ。慌てて瑞樹のスマホを取り上げようと腕を伸ばしたら、瑞樹に軽く手首を引かれて転びかけてしまう。女性に力で負けるのは、なんというか屈辱だ。 「今、近江谷先生と会ったんですけど、なんか恋人が体調不良だって言ってて。……はい、……はい」 「おいこら、萩野……!!」 「分かりました、伝えておきますね。失礼します」  京介の言葉など聞いていないとばかりに、瑞樹は通話を終えてニヤリと笑った。どうやら確信が決定事項になったようで。 「近江谷先生、有給休暇取っておきましたから」 「てめ、余計なことを……」 「いいじゃないですか。有休使えって教授から言われてたの、知ってるんですからね」 「……」  さも当然というように言い切って、瑞樹は笑った。色々と突っ込みどころがある上に、今日の休みは確定してしまったらしい。ここであれこれ反論しても、逆に瑞樹に遊ばれて終わりという気がする。 「……ありがたーく休ませて頂きますね、萩野先生」 「どういたしまして!」 「本当に覚えとけよ。じゃ、また明日」 「はーい」  今にも歌い出しそうな雰囲気の瑞樹が、満面の笑みで手を振っている。それを苦々しく一瞥し、京介はひとつ深呼吸をした。外気に冷やされた吐息が凝結して、白く立ち上る。  いきなり一日暇になってしまった。京介はひとまず元来た道へと足を向ける。本来の通勤時間に自宅への道を進むのは、とてつもない違和感だ。 (っていうか、恋人じゃないし。萩野先生ももう少しマシないいわけを考えろっての)  さっきの瑞樹の言葉を反芻しながら、京介は足を速める。大体にして男同士、しかも紘人には陽菜というお似合いの相手がいる。昨日の行動の真意など分からないけれど、まあ、ぼんやりした意識の中で誰かと間違えたか判断を誤ったかのどちらかだろう。そうだ、きっとそうなんだ。 「……ただいま、っと」  家を出て一時間もたたないうちに玄関のドアを再度くぐって、京介は一息つく。そうして紘人宛に『今から行きます』とだけメッセージを送って、再び出掛ける準備を整えた。今日は鍵を返すだけだし必要なものは昨日あらかた差し入れしたから、と思いながらも、なんとなくの精神で飲み物だけ買ってから彩花堂へと向かう。ちらほらと周りの店が営業を開始する中、彩花堂はひっそりと佇んでいた。 「……来てしまった」  店先にのれんは出ておらず、代わりに『臨時休業』の札がかかっていた。静かな店の前を通り抜け、京介は裏口へと回る。少しレトロな呼び出しベルが視界に入ったけれど、京介は持っていた鍵で扉を開けた。 「……おじゃまします」  昨日の夕方ぶりの紘人の家。メッセージが返ってこなかったのをみるに、紘人は通話を終えてから寝直しているのかもしれない。これは寝室に突撃して良いものか、それともポストに鍵を入れて帰るべきか。しばし玄関で迷っていると、一階の奥の方からガタリと音がした。 「ん?」  そういえば、いつもまっすぐ二階に上がってしまうから一階のことは知らない、立ち入って良いものだろうか。だけど万が一、紘人が一階で倒れていたら大変だ。色々言い訳をつけて、京介は音の出所へと足を向けた。 (……あ、)  狭い廊下を少し進むと、一気に視界が開けた。  すぐ目についたのは、広い作業台。こまごました道具が綺麗に並べられていて、横には木枠や漉し器が積まれている。作業台の奥には大きなコンロがいくつかあって、その上には寸胴鍋が置いてあった。厨房だ、と認識したのと同時に、探していた人の後ろ姿も見つける。 「紘人さん!」 「あれ、近江谷先生。早かったね」 「早かったね、じゃないよ。病人が何やってるの」  とがめるように言うと、紘人はばつが悪そうに笑った。目の前には、湯気の立ち始めたせいろが積まれている。明らかにさっき火を入れたものだ。 「先生が来てくれるっていうから、黒糖まんじゅうを蒸しておこうと思って」 「あのさあ……、嬉しいけど、先に身体のことを考えなよ。おかみさんから聞いたけど、試作品作りもほどほどにしないと」 「それは先生がちゃんと三食食べるようになったら考えるよ」 「……」  言い返せないところを的確に突かれて、京介はうっと言葉に詰まる。今その話を出すのはずるい。釈然としないまま、京介は紘人の隣へと立った。湯気に乗って甘いまんじゅうの香りが漂い始める。これは本当に、通話が終わったところで準備を始めたのかもしれない。 「むぅ……」 「どうしたの、先生?」 「なんでもない」  蒸し始めたまんじゅうを中途半端にするわけにはいかない。京介はあたりを見回して、すぐ目についた椅子を持って紘人へと差し出した。 「とりあえず病人は座っていなよ」 「大げさだよ。でもありがと、本当に優しいよね、先生」 「そんなことない、から」  紘人に微笑まれて、京介は思わず顔をそらした。なんだか頬が熱い。妙に高鳴る心臓には気づかないふりをして、一つ息を吐く。そのあと意識して息を吸い込めば、甘い匂いの蒸気が気管から肺を満たしていった。そうだ、部屋も暑くなってきたのだから、顔くらい熱くなったっておかしくない。

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