23 / 41

第23話

 蒸気の立つ音が、二人の間をすり抜けてゆく。黙っていると、昨日の出来事がじわじわと脳内を侵食してきた。だめだ、また余計なことを考えてしまう。何か話さなければ、と思いついたときに、真っ先によぎったのはリビングにある写真立てのことだった。 「……紘人さん、」 「ん?」 「紘人さんってさ、最初から店を継ぐつもりだった?」  家族写真に直接言及するのは憚られて、当たり障りのなさそうなところから質問を投げかける。昨日、紘人も京介に『どうして医者になったのか』と聞いているのだから不自然ではないだろう。紘人はゆるりと顔を上げ、まっすぐ京介のことを見つめた。 「うん。物心がついたときから、『俺はこの店を継ぐんだ』って漠然と思っていたんだよね。他に考えたことはなかったかな」 「そうなんだ。継ぐ前はどうしてたの?」 「あー……、うん」  せいろからの蒸気のせい、だろうか。紘人の表情が一瞬翳ったような気がした。だけど次の瞬間には、紘人はいつも通りの柔らかい笑みを浮かべていた。 「えっと、専門学校を出てから京都の和菓子屋に就職して。なんていうのかな、すぐ店を継ぐのも荷が重いし、修行がてら、ってとこ」 「へえ。京都ってなんか本場って感じ」 「そうかな?」  紘人は曖昧に笑った。なんとなく、京介は違和感を覚える。  確かに、家が開業医という同級生にも、後期研修を終えてもすぐ実家に戻らずに修行といってそこかしこを転々としている人がいる。そういうタイプは、本当に修行をしているか、実家との折り合いが悪いか、パートナーについていっているかの三択にほぼ絞られる。和菓子業界はどうなっているのか詳しいことは知らないけれど、あの写真のことを鑑みると単純な修行ではなさそうな気がする。 「……」  次の言葉を探せないで京介が黙っていると、代わりにタイマーの電子音が鳴り響いた。紘人はほっとしたように立ち上がって、せいろの中身を確認する。 「先生、おまんじゅうできたよ。食べてく?どうせ朝起きてから何も食べてないでしょ?」 「うっ……。食べたら帰るからちゃんと休めよ。何度でも言うけど病人が何やってんのさ」 「近江谷先生が来てくれると思ったら黙っていられなかったんだよ」  当然のように言い放って、紘人は慣れた手つきでせいろを下ろしていく。その後ろ姿を、京介は複雑な気持ちで眺めていた。それでも、深く考えたところで行き止まりはすぐ見えている。もやもやを押し込めるように頭を抱えたところで、ふわりと甘い匂いが濃くなった。 「どうぞ。先生、何度も黒糖まんじゅうを買ってくれてるけど、蒸したてのタイミングに当たったことないよね」 「ん……?そういえばそうかも」 「蒸したてが一番美味しいよ、熱いから気をつけてね」  紘人はせいろから直接まんじゅうを拾い上げて京介の手のひらに置いた。その熱さにうっかりまんじゅうを取り落としそうになりながらも、京介は一口ぶんを割って口の中へ放り込んだ。ふわふわの生地と黒糖の優しい甘みと、まだ熱いあんこがいっぱいに広がる。思い悩んでいたことがふっと霧散していくようで、単純だなと思いながらも頬が緩む。 「……おいしい」 「ふふ。本当、先生って美味しそうに食べるよね。可愛い」 「可愛いはないだろ。まだ熱あるんじゃないの?」 「つれないなぁ」  からりと明るい笑い声が鼓膜を揺らした。なんだか胸の奥がざわりとした感じがしたけれど、気づかないふりをして残りのまんじゅうを味わいつつ口へと運ぶ。にこにことこちらを見る紘人の視線も感じたのは、気のせいで済ませたい。これ以上長居してしまうとまた余計なことを考えてしまいそうで、京介は本来の目的をさっさと終わらせることにする。 「はい、これ。昨日預かってた鍵、返すよ」 「返さなくてもいいのに。どうせまた来るでしょ?」 「来ないとは言わないけど、家主に無断で入ることはないから」  半ば無理矢理鍵を押しつけて、京介は立ち上がった。甘い匂いの空気がまとわりつく。 「……確かに受け取ったよ。もう帰っちゃう?」 「あー、うん。せっかくお店を休みにしたからには、ちゃんと休んでもらわないと」 「それもそうか。これ以上先生に迷惑かけちゃうのも悪いしね」  紘人はせいろを持って作業台の方へ向かった。まだ熱いまんじゅうを、あろうことかフィルムシートに包み始めている。そうして見慣れた箱を出してきて、全部詰め込んでしまった。 「今日もありがとう。お礼にもならないけど、黒糖まんじゅう、いつもの個数ね」 「たかりに来たみたいになってるんだけど……。あ、飲み物は買ってきたから渡すよ」 「えぇ?気を遣わなくていいのに」 「その言葉、そっくりそのままお返しするよ」  このままだとまた帰るタイミングを逃してしまう。京介は今度こそ紘人のことを寝室へと押し込んでから帰ることにした。紘人の背中を押して、二階へと向かう。体格差を考えると京介が紘人を動かすことは不可能だけど、まっすぐ部屋に入ってくれるあたり素直に休む気になったのだろう。昨日のことを思い出しかけて、紘人がベッドに腰掛けたところですっと廊下に出る。 「じゃ、また何かあったら連絡して」 「うん。ありがとね、先生」  あとで施錠くらいしてくれるだろ、と思いながら京介は彩花堂をあとにした。鍵を返しに来ただけなのに鍵を持ち帰っては何の意味もない。ひとまずの目標を達成したところで、京介はひとつ大きな深呼吸をした。時刻はまだ午前十時半、まっすぐ家に帰るのもなんだかもったいない。ここは遅刻扱いで職場に戻ろうかとも考えたのだけれど、スマホには一足先に『今日は戻らなくて大丈夫ですから!教授も一日休めって言ってました!』と瑞樹からのメッセージが入っていた。後輩に考えを見透かされていることがちょっと面白くない。  一日休むことになるのは申し訳ないから、明日何かお菓子でも持って行こう。よぎったときにはもう、京介の足は坂を下り始めていた。最近彩花堂に行く頻度が増えたのと引き換えにあまり行かなくなった、パティスリー・ソレイユ。しばらく訪れていなかった分、買うものはたくさんありそうだ。やがて見えてきたソレイユの建物は、所狭しと赤と緑の装飾が施されている。

ともだちにシェアしよう!