28 / 41

第28話

「あれ、近江谷先生」 「こんにちは!」  連れ立って来ていたのは、紘人と陽菜だった。ざわ、と背中が寒くなるような心地がする。海咲は二人と一人を交互に見て、あら、と声をもらした。 「お二人とも、京介くんのお友達?」 「……友達というか、よく行くお菓子屋さんの人。紘人さんが和菓子屋さんで、陽菜さんが洋菓子屋さん。えっと、こちらが海咲さん。うちの兄の奥さんです」  当たり障りなく説明できただろうか。若干不安になる京介を置いて、紘人と陽菜はいつも通りの人なつこい笑顔で会釈する。 「やった、当たりじゃん紘人」 「ちょっと陽菜……。あ、初めまして。和菓子屋『彩花堂』の、五条紘人と申します」 「『パティスリー・ソレイユ』という洋菓子屋をやっています、小坂陽菜です」 「紘人さんと陽菜さんね。いつも京介くんがお世話になってます。せっかくだから、三人でテーブル席使う?」 「いや、デート中でしょ、お二人。俺が入ったら邪魔だろうし、兄ちゃんから受け取るもの受け取ったら帰るし」  自分で言っておいて、京介はざらりと胸の奥に澱のようなものが沈んでいくような心地を覚えていた。自分の中の『常識』の蓋が、なんとか感情の噴出をおさえる。微妙な空気を打ち破ったのは、陽菜の楽しげな声だった。 「全然邪魔じゃないですよ、先生!だって今日紘人と来たのだって……」 「っ、陽菜!余計なこと言わなくていいから!」 「えー?」  珍しく慌てた様子の紘人に、陽菜がからかうように笑う。やはりこの二人の間には入りがたい。京介はむむ、と眉根を寄せた。はっきり診断が着かない案件を抱えている時のような、息苦しいような気分。 「お席、どうします?」  見かねたのか、海咲が助け船を出してくれる。すると、京介が動くより先に紘人が割り込んできた。 「空いてたらテーブル席でお願いできますか?京介くんも一緒に」 「っ、ちょっ、」 「はーい。ちょっとお待ちくださいね」  海咲はさっきまで京介が使っていたカウンター席を片付けて、窓際のテーブル席を用意し始めた。なおも楽しげに会話を続ける紘人と陽菜の声を遠くに聞きながら、京介は一人動揺していた。 (初めてファーストネームで呼ばれた……!)  我ながら些細なことで心を乱されている。恋煩い、という瑞樹の言葉が耳の奥で響いたようだった。 (面倒だな、俺も)  京介はひっそりため息をつく。今まで女性とは何度か付き合ってきたけれど、ここまで相手のことで情緒が乱されることはなかった。それが初めて、三十二にもなって、よりにもよって同性に心をぐちゃぐちゃにされている。甘くて苦いような、不思議な気持ち。大人になってからの麻疹みたいに、この歳での恋心もだいぶこじれて重症化するのだろう。 「……先生、大丈夫?ぼんやりしてるけど」 「ごっ、ごめん、紘人さん」  促されて席について、向かいに座る二人を見る。やっぱりお似合いだなぁ、と思いながら運ばれてきたガトーショコラを口にする。正直、あまり味が分からない。 「ところでさ、先生。今日ごはん食べた?」  いつものように紘人が聞いてくる。不意に振られた問い掛けに、京介は取り繕う間もなく答えてしまう。 「っ、これが一食目……」 「ちょっと、お菓子はごはんじゃないっていつも言ってるじゃん。これから暇?時間あるなら、ごはんも一緒に食べよう?」 「なんで俺が紘人さんと陽菜さんのデートを邪魔しなきゃいけないんだよ」 「紘人とはデートじゃないですよ、先生!今日はここの喫茶店で確かめたいことが……」 「陽菜!余計なことは言うなってさっきも……!!」  楽しそうで何よりだ。京介は自分を納得させてコーヒーを飲み下した。いつもは爽やかに感じられる苦みが、やけに重く感じる。また出そうになるため息を抑え込んだところで、後ろから声を掛けられた。 「京介、せっかく来てもらったのにバタバタしてて悪いな。これ取りに来たんだろ?」 「英介兄ちゃん」  そこに立っていたのはエプロン姿の英介だった。手には北海道物産展が開かれていたデパートの紙袋が握られている。中身を覗けば、写真に写っていた通りの品が行儀良く収まっていた。 「ありがと。確かに受け取ったよ」 「そりゃ良かった。で、さっき小耳に挟んだんだけど、お菓子はごはんじゃないよなー。二人が京介のごはん、世話してやってんの?」 「兄ちゃん、ちょっと……」  さっきの会話を聞かれていたことを知って京介は赤面する。紘人もどこか動揺しているように見えたのが不思議なところだ。そんな二人にかまわず、楽しげに会話を続ける人がいる。紘人の隣に座っている陽菜だ。 「世話っていうか、餌付けしているのは紘人の方ですよ」 「……なるほどなぁ」  英介は紘人と京介の顔を交互に見て、にやりと笑った。続けて陽菜とも視線を交わして、うんうんと意味深にうなずいている。なんだか自分だけ場違いなような気がして、京介は財布から五千円札を出して立ち上がった。 「兄ちゃん、これで俺と二人の分と会計しといて。おつりはいらないから」 「はいよ。いやー、二人ともごめんね、愛想のない弟で」 「そんなことないですよ!」  英介の茶化しに、反射的に紘人が立ち上がる。ややあって、陽菜がこらえきれないとばかりに吹き出した。またいたたまれなくなって、京介はさっさとこの場を立ち去ることに決める。 「じゃ、また……、そのうち」  京介はそれだけ言い残して、さっさとルーシーをあとにした。紘人の声が追いかけてきた気がしたけれど、まあ幻聴だろう。 「……さて、と」  恋心というものは、どれだけ経てば上手く昇華できるのか。紘人への想いを噛み砕いて流してしまうのに、時間が協力してくれるだろうか。  ――この気持ちに整理をつけるまで、彩花堂に行くのはやめよう。  どこかでやらかしてしまうことを考えたら、それが最善のように感じられた。

ともだちにシェアしよう!