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第30話
「近江谷先生……、」
「仕事だよ、萩野先生。また始まる前に泣く気?」
「……そうじゃなくて。はい」
瑞樹の手元には、いわゆる十秒メシのエネルギーゼリーがあった。京介が驚いて顔を上げると、瑞樹は半ば強引にそれを押しつけてくる。
「下手すると二日かかりますよ。これだけでもお腹に入れといてください」
「えっと……?」
「ただでさえ胸糞案件っぽいですからね。そんな様子じゃ乗り切れないですよ、早退するなら話は別ですけどね」
挑発するように言って、瑞樹は笑ってみせた。随分とまあ、頼もしくなったものだ。つられて笑って、京介はゼリーを受け取る。
「じゃ、ここは萩野先生に免じて」
「なんですかそれは」
「俺、着替えてくるから。ありがとね」
「どういたしましてー!」
お礼は三倍返しでいいですよ、なんて言う瑞樹を小突いて、京介は更衣室へと向かう。少し気分は晴れたけれど、体調の悪さは否めない。余計なことを考える前にゼリーを一気飲みして、更衣室へと向かう。本当に面倒くさい。自分の中にこんな感情が眠っていたことを自覚させられただけ、だというのに。
(さて、行きますか……)
いつも通りに着替えを済ませて防護服の準備をする。あとは作業の開始を待つだけ。始まってしまったらいつも通りに解剖をこなしてデータを取り、総括をしてしまえばひとまず休める。鑑定書も出さなければいけないけれど、それは寝てからでも間に合うだろう。
ぼんやりと思考を巡らせている間に、予定時刻が迫っていた。京介は一度ぐっと伸びをして、それから解剖室の扉を開ける。そこにはもうあらかた人が集まっていた。
「よろしくお願いします」
「急にすみません、明日まで持ち越しても良かったのですが……そうもいかないかもしれなくて」
教授と担当警官とおぼしき人が会話しているのを横目に、京介は解剖台の近くへと歩み寄った。解剖台の上には、白い布を掛けられた遺体が二体、静かにその時を待っている。
まずは対面し、黙祷を捧げてCTを撮る。その間に詳しい話を聞いて、終わり次第メスを入れる。これがいつもの流れだ。
仕事は仕事、自分の体調など二の次。そんな京介の思いは、遺体にかかっている布が取り払われた瞬間に消え去った。
「――っ!?」
見覚えのある黒い服を纏った、細身の女性。まだ母親に抱かれているだろう月齢の乳児。夏の日、公園での記憶が一気にフラッシュバックする。
いや、違う。まさか。一人で混乱する京介に追い打ちを掛けるように、淡々と説明が入る。
「母親が芦屋菜摘さん、二十六歳。乳児の方が優月ちゃん、十一か月です。今日未明、元夫が復縁をせまり口論の末に菜摘さんをナイフで刺して殺害。優月ちゃんはアパートの三階から突き落とされたとみられています。同時に姉の愛莉ちゃんも刺されており、現在意識不明の状態で救急部に搬送されて治療中です。……もしかしたら」
「……分かりました。万が一の時は、そちらも」
ずっと引っかかっていた違和感、紘人の家に飾られていた絵、気付きながらも何も手を打とうとしなかった自分。せめて紘人に違和感を伝えていたら、何か変わっただろうか。そんなことも忘れて、自分のことすらままならなくて、一体何をしているのだろう。
「それでは、黙祷を行います。――黙祷」
目を閉じた途端、天地がぐるりと回った。遠くで金属音が鳴っている。喉元にぐっと何かが突き上げてくる。京介は無意識のうちに、隣にいた瑞樹の腕を掴んだ。
「えっ、近江谷先生?」
「……ごめん、気持ち悪い……っ、」
「っ、待って。まずしゃがみましょう、ゆっくり……」
瑞樹に支えられて床にしゃがみ込むと、段々と周りが騒がしくなってくる。こんな時にやらかすなんて、そう思いながらも指一本動かない。そのまま京介の意識は沈んでいった。
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