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第32話
「近江谷先生!」
「なっ……ん、で……?」
扉の向こうでほっとしたような笑顔を浮かべているのは、当直医でも英介でもなく、この二か月あまり接触を避けていた人。二の句が継げなくなっている京介を尻目にその人――、紘人は一直線に京介のもとへと歩いてきた。少し後ろへ下がってみても、距離などたかが知れている。あっという間に息遣いが感じられるほど近付かれて、京介はうっと息を詰めた。
何を言えば――、京介は回らない頭のまま考える。だけど、考えがまとまらない以前に、一言たりとも言葉が出てこない。
「ひっ……、ろと、さん……?」
「……良かった」
脱力したような声が鼓膜を震わすやいなや、京介の視界が一気に暗くなった。やや遅れて鼻腔をくすぐる甘い香りに、抱きしめられたのだと知る。
「あ……えっ……?」
「先生、また痩せたでしょ?だから倒れちゃうんだよ」
「うっ……」
図星をつかれて、京介は今度こそ返事ができなくなる。本当なら聞きたいことだってあるのに、それすら許されない雰囲気。ただ、確かめるように背をさする紘人の手が、どうしようもなく心地好いのは事実で。
わだかまっていたものがひとつ、またひとつとほどけてゆく。思わず身を委ねると、紘人の鼓動が近くなった。自分のものよりも速い心拍が、穏やかに身体の芯へと響いてくる。
「英介さんに言われて迎えに来たんだ。帰ろう」
「なんで……?あの、紘人さんの手を煩わせるわけには……」
「一人で歩けなさそうな人が何言ってんの?」
穏やかな、だけど有無を言わせない声色をした紘人の声が降ってくる。そんなことない、と反論しかけた言葉は、音になることなく京介の胸の中へと落ちた。迷いながらも無言で頷くと、全身がふわりと浮くのを感じる。
「へっ!?」
「わ、軽っ!お医者さんなんだから、もっと健康的にならなきゃ」
咎めるようなからかうような紘人の言葉に、混乱が更に大きくなる。抱き上げられているのだ。それも、いわゆるお姫様抱っこという形で。
そりゃあ紘人は、日頃からあの巨大な寸胴鍋で小豆を炊いたり、見るからに重そうな粉の袋を運んでいたりするのだから力はあるのだろう。認めたくはないが、あの鍋に水と小豆を入れた重さは京介とさほど変わらない、のかもしれない。紘人はなんなく京介の身体を抱え直して、当直室の扉を開けた。
「行こっか、先生」
「だっ、大丈夫、歩けるから下ろして……」
「二か月も会わせてくれなかったんだから、これくらい許してよ。ね?」
「そうですよ、近江谷先生。どれだけ周りを心配させたと思ってるんですか」
「……はぁ!?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、当直室前の廊下に仁王立ちしている瑞樹の姿が目に入った。どうして、と京介が疑問を口にする間もなく、瑞樹は楽しげに笑う。
「大丈夫ですよ、近江谷先生。今まだCT撮ってる最中ですし」
「それとこれとは話が別だよな!?」
「山崎教授からお達しです。近江谷先生はこれから半月、強制的に有給を消化してもらいます。存分に養生してくださいとのことです」
「……」
「若旦那、出口は突き当たりの階段を降りてすぐです。駐車場は目の前ですが、分からなかったら連絡してくださいね」
「ありがと。このお礼はまた」
紘人と瑞樹が示し合わせたような会話をしているのを、京介は一人理解できないまま固まっていた。そうして次の瞬間、目の前の景色が流れる。
「わっ!?」
本当に、紘人に抱きかかえられたまま移動している。職員専用エリアだから外来患者と会うことはないけれど、平日の夕方だ。かつての同僚に見られてしまう可能性は十二分にある。頼むから誰にも会いませんように、必死に顔を隠しながら願う京介に追い打ちを掛けるように、瑞樹の声が聞こえた気がした。
「お幸せに、近江谷先生!」
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