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第36話

 紘人は一瞬きょとんとして、やがて破顔する。 「言われてみれば疑わしいことも色々あったかな。……でもさっき言ったとおり、俺の恋路に協力してもらった結果だから」 「……う、」 「陽菜との関係に嫉妬してくれた、ってことは、少し期待してもいいのかな?」  深くて甘い、けれどかすかに不安をにじませた声が染み入ってくる。ドキリと心臓が跳ねた。何と言えばいいのだろう。それでももう、胸中は明かしたも同然だ。京介は意を決して口を開く。 「俺も……、紘人さんのこと、好き、だよ。気付いたらもう、好きだった」 「気付いたら?」 「いつから、とか覚えてなくて……、えっと、」  言いかけて急に恥ずかしくなってきて、ぶわっと全身が熱くなる。思わず紘人の胸へと顔を埋めると、戸惑いがちな腕がそっと背中に回された。 「可愛いね、先生。誘ってる?」 「っ、そんなんじゃ……」 「冗談。はー、嬉しい。嬉しすぎて信じられない」  浮かれたようなほっとしたような、色々な感情が綯い交ぜになったような紘人の声が鼓膜を揺らす。導かれるように顔を上げると、うっすら潤んだ紘人の瞳と視線が交わる。笑いかけて応えたら、額へと触れるだけのキスを落とされた。緊張やらこじらせた感情やら、わだかまっていた物が一気に氷解してゆく。もう一度紘人に身体を預ければ、今度はしっかりと身体を抱き寄せられた。  一気に幸せに包まれた空間。それをからかうように、きゅう、と間抜けな音が響いた。その音の出所が京介の腹だと気付いて、また二人で笑う。 「先生、お腹空いてたの?最後に食事したのは?」 「……さっき、ゼリーもらって……、そんなところ、です」 「そんなんだから倒れちゃうんだよ!……しばらく食べてないならおまんじゅうは無理かな。何か作るよ、台所借りていい?」 「いいけど……、たぶん調味料くらいしか……」 「あー……」  紘人はやれやれという顔をしてみせる。想いを交わして早々に呆れられてしまった。気まずくて目をそらす京介のことを、紘人はおかまいなしとばかりに引き寄せて、もう一度抱き締める。 「本当、ほっとけないんだから。知れば知るほど危なっかしくて、一緒にいてあげたい、って思っちゃう」 「……物好きだね」 「仕方ないよ。全部ひっくるめて、俺は近江谷先生のことが好きなんだから」  一点の曇りもない眼差しで言われて、京介はただ頷くしかできなかった。紘人の笑顔がこんなにもまぶしく感じられたのは初めてかもしれない。今度はドキドキしっぱなしでおかしくなりそうだ。  人間の感情というものはこうも自由にならないものか。返す言葉が見当たらなくて黙っていると、ふっと浮遊感に包まれた。また抱き上げられたのだと知り、あわてて降りようともがく。 「そんなにしたら落っことしちゃうよ。寝室どこ?」 「しっ、寝室?」 「ん?俺、買い物に行ってくるから、その間休んでてもらおうと思って」 「あ……、そ、そうだよねありがとう!あっち!」  寝室と聞いて、ちょっと変な方向に思考がいってしまった自分を殴りたい。紘人に気付かれていないことを祈りながら、指で寝室の扉を示した。紘人は楽しげに笑って寝室へと向かい、扉を開ける。その瞬間、ぴたりと紘人の足が止まった。 「先生のとこ、ベッド大きいね……?」 「……うん。兄ちゃん二人がマンション購入祝いに、って買ってくれたんだけど……クイーンサイズはやりすぎだよね……」 「そ、そうなんだ……」  はは、という紘人の笑い声に続いて、英介さん友介さんありがとう、なんて聞こえた気がした。いや、きっと空耳だ。二番目の兄の名を教えた覚えはない。  甲斐甲斐しくベッドへと寝かされ、さらりと髪を撫でられる。心地よさに目を閉じると、優しいキスが降ってきた。意識がとろりとまどろみに落ちてゆく。 「鍵借りるね。車を置いて買い物に行ってくるから、ゆっくり休んでて」 「ん、分かった……。色々、適当に使っていいよ……」 「ありがと」  もう一度額に口付けられて、髪を梳かれる。ふわふわする意識の中で、愛しげに微笑む紘人の顔を見たような気がした。

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