37 / 41

第37話

 トントンという規則正しい包丁の音と、鍋の中身が煮立つ音。かすかに漂ってくる甘い香りに、京介はゆるりと目蓋を開けた。  外はすっかり暗くなっている。結構な時間寝てしまったようだ。こんなに深く寝入ったのも久々かもしれない。 (もしかしたらまだ、夢の中なのかも)  ぼんやりと考えながら、京介はベッドから身を起こした。寝室のドアを開けてリビングに出ると、美味しそうな香りが濃くなる。キッチンへ目をやると、すぐに紘人と目が合った。 「あ、先生。起きたんだ、具合はどう?」 「……ん、平気。ってかごめん、色々やらせちゃってるよな」 「全然。むしろ、これから堂々と先生に構えるの、すごく嬉しい」 「……よくそんなこと言えるね」 「本当はまだ事実だって信じられないよ。あ、もうできるから座ってて」  京介が手伝いを申し出る前に、紘人はやんわりと釘を刺してくる。しぶしぶソファーへと腰を下ろすと、紘人は笑ってコンロの火を止めた。まったりと甘い香りの中に、爽やかな柑橘の匂いが混ざる。 「何作ってるの?」 「柚子ハチミツ葛湯。先生、しばらくちゃんとしたモノ食べてないでしょ?これなら消化もいいし身体も温まるしね」 「ふーん。そういえば、葛湯って飲んだことないかも」 「そうなんだ。口に合えばいいけど」  紘人は慣れた手つきで鍋の中身を茶碗に移してゆく。さすが本業だ。京介はまだぽやんとしたまま、その姿を眺める。自宅に紘人がいるというのが、やっぱり信じられない。今更のように緊張で固まる京介の目の前に、茶碗と木製のスプーンが置かれる。透き通った葛湯の上に、柚子の皮の千切りが散らしてあった。 「どうぞ」 「……いただきます」  茶碗の中身をひとさじすくって口に入れる。柚子の香りと甘味の裏に、生姜の風味がした。優しくて温かい味に、京介の頬もふっと緩んだ。 「おいしい」 「良かった。……ふふ、」 「何笑ってんの?」 「ん?先生、美味しいものを食べた時、幸せそうに笑うんだよね。やっぱり可愛いなって思って」 「可愛いはないだろ」 「可愛いよ」  紘人はさらりと言ってのけて、当たり前のように京介の隣へと座ってきた。自分のものより少し高い体温に安心する。行儀が悪いと思いながらも、京介は紘人の方へともたれかかった。不意をつかれて紘人の方が跳ねる。それでもそのままの体勢でいると、遠慮がちな手が京介の頭を撫で始めた。心地良さに、とろりと目蓋を閉じたくなってしまう。 「先生、眠い?」 「ん、眠くないけど……。そうだ、」  このままだと本当に眠ってしまいかねない。京介はすっかりにぶくなった思考回路をフル稼働して、疑問を記憶から引っ張り出す。 「紘人さん、いつの間に俺の兄ちゃんと連絡取ってたんだよ。その……、さっき迎えに来てくれた時さ。病院から連絡がいくとしたら、上の兄ちゃんのところだと思うんだけど」 「うん。実はね、陽菜と一緒にお兄さんの喫茶店に行った日があったじゃん?」 「……あったね、そんなこと」  京介の脳裏に、その日の記憶が鮮明に蘇る。紘人と陽菜の関係を邪推し自らの恋心を認め、気持ちの整理をつけるまで二人には会わない、と決めたまさにその日。なんだかいたたまれなくなって、京介はごまかすように手元の葛湯をかきこむ。 「お兄さんの喫茶店ってさ、何度か雑誌に載ってるじゃん?『店主の近江谷さん』って注釈のついた写真を見て、ああ先生のお兄さんなんだな、って思って」 「あー、うん、確かに血縁を感じる顔はしているけど……」 「それでもう気になりすぎちゃって。けどなんか一人で行くのも恥ずかしくて、陽菜に頼み込んで一緒に来てもらったんだよ。……先生には誤解させちゃったみたいだけど」 「うっ……」  しっかりバレているじゃないか。京介は気まずさとともに茶碗の中身を一気に流し込んでから、抗議するように紘人の肩へと頭を押し付ける。 「あの時たまたま先生にも会えて、お兄さんとも話せて。先生が帰った後にお兄さんの方から連絡先を渡されて、『京介をお願いします』って頭を下げられたんだよね」 「……は?」 「ほら、週の半分くらい一緒にごはん食べてたじゃん。その話をしたら、ね。お兄さんがどこまで意図しているかは分からないけど、よろしくされちゃった」  へへ、と紘人は照れたように笑う。あの兄のことだ、京介の本心にも気付いた上での『よろしく』なのだろう。なんということだ。全部知った上で、英介は紘人に迎えを頼んできたというのか。今度どんな顔をして英介と会話をすればいいのか――。  そこまで思い至ったところで、ふともう一人の人物の姿が浮かぶ。紘人が迎えに来てくれた時、知り合いのように話していた後輩の姿。……まさか。

ともだちにシェアしよう!