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第二話

「男なのね。その男が運命の番いということなのかしら?」 「あ、あの……」  真っ正面から突き刺すような視線が投げられ、リルは気まずくなってうつむいた。問いかけるような、確かめるような、探る声にリルは戸惑いの色を浮かべる。 「悪いか」  ガーレフが振りむいて、鋭い爪を引っ込めた手をリルの細い腰へと回す。周囲は林がゆらめくようにざわめきが走った。 「人間は奴隷よ」 「そうだったな」  思い出したように男は突き出た下顎に手をかけ、ガーレフはめんどくさそうに頷いた。 「この男を、支配なさるということですか?」 「ああ、そうだ。だからこのものは娶らない」  ガーレフはさも当然のように云った。リルは視線を落としたままその言葉をしっかりと胸に刻んだ。 「肌だって、奴隷のように剝き出しで薄汚れています。支配する必要もございません」  しまった……、とリルは思った。 (僕はここにいるべきではない)  彼女の暗く沈む声は、リルにとってここがどこなのかを示した。女はじっと前を見据え、しげしげとリルの顔を見た。柔らかな被毛もなく、目鼻立ちもはっきりとせずに乏しい。なんの特徴もない顔立ちに、女を含めた皆が眉を寄せている。 「よくここにはいれたわね」 「……すみま、……せん」  リルはおどおどと頭を垂れた。  誰もがリルを見ている。貴族、元老院議員、後ろに控えていた宮廷近衛隊までもが、食い入るような眼差しで注視していた。リルが深く頭を下げると、うなじがあらわになり、舌打ちが頭上から鳴った。 「まさか。……お嚙みになさったのですか?」  汚らわしいというつぶやきが、細い声で聞こえた。 「ああ。すでに私の番いだ」  憮然とした表情でガーレフが云うと、彼女はぎょっとした体を固くした。ざわざわと空気が揺れ騒ぐ。獣人たちの顔に驚愕の色が浮かび、皆が怒気のこもった目でリルを睨んだ。 「……ゆるせない」  つぶれそうな声が、のどに絡んで裏返っている。 「……」 「許せないわ。番いですって? 女でありながら、かつアルファという性を備え、陛下にふさわしくあるが為に生きてまいりました。それなのに、宮廷の礼儀作法も知らないこの人間の、しかも男を妾にするのですか?」  早口でまくし立てられ、声は怒りにしぼり出すような哀しさがこもっていた。リルは顔を上げる。彼女は双眸から丸い涙が落ち、立ち尽くしながらこちらを睨んでいた。 (やはりここは僕が来るべき場所ではない……)  リルは彼女の気持ちを理解していた。 「そうだ」 「……いや。いやです」  女な絹糸のような細い声でつぶやいた。  この国の獣人はアルファにて固められ、ベータは人間に多い。オメガは辱めを受けるため、世捨て人のように身を隠して暮らしていることは常識だ。そんなものが、ここにいるなんて、ありえない。 「もう気がすんだか」  冷酷な視線を投げて、ガーレフは突き放すような態度で云った。 「……っ」 「この男を宮廷にいれて、公妾として置いておく。それがいやならば、おまえとの婚儀は解消する」  ガーレフは指を絡めてリルの手のひらを握った。鋭い爪が指先を切った。 「……ッ、……いいわ、わかりました。婚約破棄ということね。そうさせていただきますわ。それ相応のものは要求させていただきますわ」 「わかった」  ガーレフは心得して頷いたが、なんの痛痒も感じない表情でリルの腰に手を回す。引き寄せよせられたリルはよろよろと柔らかな胸元に頭をぶつけた。 「あ、あのっ……ッ」 「離れなさい」  女はリルの頬をはたいた。針で突かれたような痛みが走り、乾いた打擲音がその場に響く。 「シンシア、やめろ」 「あら、陛下がかばうのですね。人間が喋れば、せっかくの王宮の空気が淀みます」 「……ッ」  じんじんと叩かれた頬が熱い。鉄の味が口の中にひろがり、ちくちくとした痛みを抑えることもできずに、リルは手のひらを丸めた。 「本日のところは帰ります」  彼女は笑顔をみせ、ガーレフの前で挨拶をした。顔を上げて、リルにもう一度だけ鋭い視線を送った。 「一つだけよろしい? 番いになったということは、閨に入ったのね?」 「陛下に無礼だぞ!」  脇にひかえていた宰相が横やりを入れようとし、ガーレフが左手でおさえ首を横に振った。 「よい。気にするな」 「……」 「したさ」 「そう。わかりました」  中央宮廷から西翼にある寝室は、情事の痕跡を残したまま、リネンのシーツがくしゃくしゃにめくり上がって、つい先ほどの情交を残していた。リルはなし崩しに絡み合ったことが生々しく脳裏によみがえる。なんども口づけをし、吸い合い、ガーレフの長くざらついた舌にあらゆる場所を愛撫されたがそれっきりとすぐに知ることとなる。 「うなじにくっきりと咬み痕があるものね。おふたりは幸せでしょうこと」  それだけ云って女は無言で背を向けた。 「陛下、これより失礼いたします」 「ああ。よい返事をまっている」 「……あのっ」  リルは長い黄褐色の髪を垂らした背中に声をかけた。 「傀儡め」  立ち止まり、くるりと振り向いて女は一言云う。そしてすぐに立ち去った。大扉が閉じられると、リルはガーレフに顎をとらえられる。 「……こちらを向け」  申し訳ないようなその表情は王の威厳が満ちている。 「……っ」  唇に湿った音が鳴った。長くざらついた舌が口腔をまさぐる。  皆が見ている。  幾人もの客人が取り囲むようにこちらに視線を送っていた。威厳と尊厳を手にした王が、リルという人間の男に虜になっている様を皆が目にした。誰もがこの尊大な王陛下が、運命というものにあらがえないことを知ったのである。  その翌日に嫁がされるはずの妃が、公妾によって宮廷を追い出されたという噂が国中を飛び交った。

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