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第三話

 白を基調とした天井の高い寝室の扉が開き、大地を踏みしだくような重くて鈍い足音がリルの耳に響いた。 「……あ」  天井にはきらめくシャンデリアの蠟燭の炎がたゆたう。  ガーレフが部屋に入ってきた。  リルは読んでいた分厚くて重たい本を急いで閉じた。真っ白な毛を包んだ襟を折り返したガーレフの外套姿が金縁の鏡に映り込んだ。 「どいつもこいつも野次馬ばかりだな」  繻子の帯をほどいて外套を脱ぐと、ガーレフはふっとため息をついてどかりと白いリネンの長椅子に腰を下ろした。肩幅は広く、身長の群を抜いた逞しい肉体があらわに鏡に映る。 「お、おかえりなさいませ」 「ああ、いたのか」 「は、はい……」  必要もなくびくつきながらリルは座っていた椅子を軋ませて腰をあげる。弾みで生成色の絹の座布団がずり落ち、ガーレフの視線が下に動いた。 「おい、落ちたぞ」 「……す、すみません」 「座ったままでいい。離れはどうだ?」  大理石の甲板と精巧な彫刻をあつらえた円柱のテーブルに肘をついて、ガーレフは長い脚を組んでリルを睨んだ。 「とても住み心地がよいです……」 「そうか」  リルはきらびやかな王宮から離れ、数か月前からこの離宮でひっそりと過ごしていた。離宮といっても、王宮の隅にある植物園の中につくられた素朴な建物で、前王妃がたびたび訪れ、この離れで最後を過ごしていたという。  リルを離れに置いた理由は簡単だ。王宮はなにかと敵が多い。身の回りの世話をするものもすべてが獣人で、人間のリルを迎えるにも抵抗して辞するものが多く出た。すでに番いになったので発情期のフェロモンを発してもガーレフしか反応しないので襲われることはないが、このままでは殺される可能性も孕み、リルの命が危ぶまれた。ガーレフはそう考え、僅かだが人間という存在に好意的なものを選んでここに集めた。 「あの。あ、ありがとうございます」 「なにをだ」 「皆さん、いい人たちなので……」  リルはぺこりと頭を下げて、礼を云う。ガーレフは無視するように、すぐに言葉を継いだ。 「今日はなにをしていた」 「えっと……。あ。いえ……はい……」 「なんだ。はっきりと申せ」  ガーレフは腕を伸ばして、近くにいるリルの節くれ立った手をつかんだ。王の紋章が彫られた指輪が光を放っている。ガーレフの大きな手のひらはリルの冷えきった指を包んで、黒い肉球が指の腹と掌からのぞいて見えた。ふにふにとした柔らかな感触に、リルは緊張が解けそうになったが気を引き締めた。 「……本を読んでいました」 「そうか」  静かな低音の品位のある声が降りてきて、青の瞳から鋭い視線を流す。ガーレフの瞳は暗くも鮮やかな青をまとって、重々しく威厳を保つ。誰も寄せつけぬ威風が双眸にきらめき、ガーレフに手を握られ、覗きこむように見つめられるとリルは応対にとまどった。 「あの……」 「どんな本だ?」  本といっても絵本のようなものだ。宮廷の礼儀作法などをみっちりと仕込まれた一日が終わり、気休めに目を通していただけにすぎない。どうしようかと考えあぐねいていると、ガーレフが顔を近づける。ぴんとたった髭がリルの頬をくすぐり、背中がこそばゆくなりうつむいた。 「え、絵本です」 「見せろ」 「は、はい……」  リルは慌てて繋いでいた手を振りほどいて、絵本を取りに行った。羊の革で装丁された背表紙を見せると、ガーレフは鷹揚に頷いた。本の内容は貧しい少年と、帽子を被った猫が旅をするもので、最後は猫と少年は大聖堂で死んでしまう。リルはやりきれない哀しさに胸が痛んだところでガーレフが帰ってきたところだった。 「この本は幼いころに読んだな」 「ほ、本棚にありましたので……」  寝室の隣に書斎があり、そこに書棚がびっしりとおさまっていた。一階は使用人の部屋、二階に応接間が二部屋と寝室、その隣に書斎がある。離宮の使用人はベータが多く、オメガはリルしかいない。 「ここには慣れたか? ヴィルはどうだ?」 「お、お優しいです」 「先ほど階下で会った。余計なことばかり喋ってなかったか?」 「……い、いいえ。そのようなことはなにも」  ヴィルとは虎獣人の師団長をしていたが、ガーレフの指令で、リルの随身につけられた。軍籍を離れ、離宮付きの護衛のして一階に常駐している。ヴィルはあっけらかんとした性格で、自分がリルの護衛についたことなど不満にはしていなかった。 「本が好きか」 「は、はい」 「本屋で働いていたのを思い出した。そんなに好きならば宮廷図書館に行くとよい」 「い、いいんですか……!」  ぱあとリルの表情が明るくなった。ガーレフは目を細めて小さく頷いた。 「ああ、よい。私が許可する」  図書館は王立とは名ばかりで、限られた王侯貴族しか入ることが許されない。リルの子どものころからの憧れで、いつしか入ってあらゆる書物を読んでみたいと幼心に願っていた。 「ありがとうございます」 「……礼を云うほどでもない」  ガーレフがリルの頭を撫でようとしたときだった。こつこつと堅牢な扉が叩かれ、ハクビシンの執事が入ってきた。盆に緻密な彫りがほどこされた水差しとグラスをのせている。 「……葡萄酒が来たな」 「はい」 「飲むか?」  ガーレフは円錐形のボウルに装飾をほどこしたステムをもち、濃くあざやかな葡萄酒を入れた。青色を帯びたガラスは、深紫が注がれると柔らかな味わいが生み出された。 「……申し訳ありません。酒は飲めないのです」 「そうか」  ガーレフは静かに杯を口に運んだ。水でも飲むような無表情な顔で悠然と飲み、芳醇な酒の香りがリルの鼻をくすぐる。リルは酒を飲んだことがなく、宮廷から出されている抑制剤に影響を与えてしまうのではと不安になった。 「あの……」 「なんだ?」 「こ、ここに。……いてもいいでしょうか?」 「よい」  ガーレフはゆったりと頷き、上物の葡萄酒を空になったグラスに注ぎ入れた。そして、あおるように乾した。 「でも……」 「おまえに帰るところはない」 「……はい」  窓に視線を泳がすと、月が冴えた光を放ち雲間から差しこむ細い月明かりが庭の泉を銀色に染める。 (そうだ。ここしかないんだ……)

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