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第六話
そんな日を繰り返し青若葉がひときわ美しくなり、日を追うごとに緑を増していく日のこと。リルは二頭立ての馬車に乗ろうとして、執事のチサンに背後から呼び止められた。
「今日も、リル様は宮廷図書館へいくのでしょうか?」
「は、はい……」
ぎくっと足を止めて、リルは声をしたほうを振り向いた。丸眼鏡の奥から茶色の眼を光らせて、真面目な硬い表情で立っている。灰褐色に襟付きの洋装は皺一つなく、ハクビシンの執事はリルを諌めるような視線を送っていた。
「陛下の周辺も騒がしくなっておりますゆえ、早くお帰りいただくようお願いいたします」
「いいじゃねぇか。陛下だってこねぇんだから」
「ヴィル殿、陛下に向かって失礼ですぞ!」
「はいはい。これは失礼いたしました」
すでに馬車に乗り込んでいたヴィルがやれやれと横やりをいれた。リルはちょっとどうしたらいいのかわからないという困惑の色を浮かべる。性格が違う二人の間にいつも挟まれ、なす術もなく立ちつくしてしまう。
「あ、あの……」
「そんなにネチネチと苛めるなっつうの。聞いていると尻が痒くなるんだよ」
「わ、私はヴィル様のことを思って云っているのですぞ!」
額からの鼻筋にある白いスジをぴくぴくと痙攣させ、チサンはおろおろと困ったように口ごもる。
「いちいち遅刻だの、礼儀や作法など色々と揚げ足取っているだけだろ。どうせしばらく陛下はここには来ない。小閑を得るひまもないほど政務が忙しいんだろ」
「ヴィル殿、口を慎みなさい。陛下に失礼ですぞ」
「ああ、失礼だったな。だから俺はもうしゃべらない」
ヴィルは口を閉じた。
ガーレフがリルの図書館への立ち入りを許可してから、ガーレフは離れに顔を出さなくなった。
ある辺境伯一族が、ザーレンスという川に合流する地点にある集落に移築したという一報が入り周辺が騒がしくなったからだ。その場所は司教の支配下にあったが、あっという間に一族が領邦君主権を獲得して一気に周辺の情勢が緊迫していた。
さらには王党派と議会派の派閥に亀裂がはしり、国王討伐の企みが下火ながらに暗躍していると、ヴィルから世間話のようにリルに話を聞かされている。
「ヴィル、チサンさんは僕のためを思って教えてくれているのです。だから悪く云わないで」
「へいへい。すみません」
「はいですぞ!」
「たっく、チサンだって親は人間だろうが」
「だ、だからこそ心配しているのです! リル様がどこかで不自由な思いをなさらぬよう礼儀作法を身につけ、堂々と生きて欲しいのです!」
チサンはぐすりと洟をすすりながら、いまにも泣き出しそうな顔で云った。母親が人間ということで色々と肩身が狭い思いをしたらしい。リルのそばにいると母を重ねてしまい、あれこれと世話を焼いている。
宮廷の礼儀作法や振る舞いをしらないリルをみっちりと教え込み、どこに出ても恥ずかしくないように育て、紹介や挨拶のし方から正餐会や舞踏会、旅行、冠婚葬祭など上級社会に合わせた社交儀礼を事細かにリルに教えた。王の公妾が人間だということが周知され、すべてが妾のせいだと皆がささやいた。そんな中、王宮まで風当たりが厳しくなったことを一人こもって落ち込む、味方のいない限りなく孤独なリルに、チサンは力になりたいと思った。不器用ながらも厳しいが、リルはチサンに感謝しきれないほど尽くされている。
運命の番いが人間の男、しかもオメガであることはこの国にとって屈辱的なものにちかい。獣人とちがって、人間の男のオメガは子供を産めるが大抵難産で、多くの子は授かれず、生まれたとしても人間の赤子は幼いうちに亡くなると決まっている。チサンはまるで亡くなった母親を重ね、つねにリルの身を案じていた。
「……一応、ヴィル殿という随身をつけておりますが、くれぐれも寄り道などしないようにお願いいたします。夕刻にはお食事もご用意しておりますので、遅刻なさらないようお気をつけてくださいませ」
「は、はい」
「それと何卒失礼のないよう、礼儀正しく振る舞うようお願いいたします」
「か、かしこまりました……」
「はやくしねぇと、暮れになっちまうぞ!」
「ヴィル殿はもう少し言葉遣いをなんとかしてください」
「へいへい。ほら、しめっぞ」
幌馬車の扉を叩きつけるように閉めて、ヴィルは御者台に合図を出した。
「司書殿にも、くれぐれもよろしゅうお伝えください。夕食はリル様の好物を用意しておきますので。ではいってらっしゃいませ」
「チサン、早く帰るように気をつけます」
リルが深くおじぎをすると、御者が手綱を鳴らし馬車がゆっくりと動き出した。
馬の足音が響き、春の柔らかさが包む田園風景が流れはじめた。ここから馬車で数刻ほどの距離にあるこの国で最大といわれる王立図書館に向かう。
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