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第八話

 人通りの少ない路地にはいり、馬車がぴたりと止まった。入口は看板などなく、注意しないと通り過ぎてしまいそうになるほどつつましい門扉が佇む。  リルとヴィルは許文を提出してあったので、扉を抜けるとすぐに護衛がヴィルの顔を見て、礼儀正しく挨拶を交わして中へ通した。  図書館の中は白を基調とした内装と金の優美な装飾がほどこされ、四十万冊もの貴重な蔵書を誇る知の殿堂が広がっていた。吹き抜けの天井は高く、ガウェイン家と戦友たちの紋章が埋め込まれている。  リルたちは最上階へゆっくりとのぼる。天窓から美しいステンドグラスを通して陽光が入り、万華鏡を覗いているかのような虹色の光を床に放っていた。質素な外観とは裏腹に建物の中に神秘的な空間が広がり、吹き抜けを囲むように回廊に書架が並んでいた。リルは背表紙を眺めながら階段をあがる。  二人は最上階の「特別閲覧室」の扉の前に立った。木扉を開けると、部屋は薄暗く、隅には綿ぼこりがたまっていた。ここは限られた貴族しか入れないと噂され、実際に足を踏み入れたものは少ない。 「今日はちょっと暑いですね」 「そうだな。少し開けるか」  部屋に入ってすぐに、ヴィルが窓を細く開けるとゆるい風が窓から吹き入り、カーテンをはためかせた。リルは柔らかな風に頬をゆるめて、ヴィルに頭を下げる。 「ありがとうございます。今日もいろいろと本を手にして頑張ります」 「あまり自分のために無理はするな。俺は隅っこで寝ているから、なんかあったら起してくれ」 「はい」  親指で部屋の片隅に佇む椅子を指差し、ヴィルはすぐに腰かけて寝入った。リルはあまりにもはやく眠りについたので笑いそうになるのをこらえる。眠っていても、耳はぴんと張っていて、どんな音も拾ってしまうので役目はちゃんと果たしていることは知っている。  ヴィルという心優しき護衛の横を通り過ぎ、リルは書架の森に入った。歴史、社会学、哲学、文学など読む本は幅広い。古書店にいたこともあり、リルはあらゆる分野の本を手にとって読む。離れに籠っていたのが嘘のように、いまは図書館という智に囲まれて半日を読書でつぶして楽しんでいる。ここにいると渇いた心が満たされていくような気がした。  自分もなにか役に立ちたい。そんな思いでこの国のことを知ろうとした。そのせいか、五百年もの血塗られた歴史を紡ごうとする、ガーレフが負う重責がありありとわかった。  この国は政治、経済、軍事など多方面で大きな影響力を持つ。そしてあらゆる書物に記すよう先代の王より命を受け、図書館は知の殿堂と呼ばれるようになった。そのなかでも経済と医術では隣国のなかで卓越した技術と知識を持つ。それを巧く活かし、ガーレフは大国としての責務を果した。他国家との衝突をうまく避け続け、平和を保ちつつあるのは重鎮たる王の賜物だった。冷徹でありながらも、虎視眈々たる構えで国を治めるガーレフの評価はどの層からも高い。 「……ええと歴史書について読んだから、次は医術についてだな。うん、あと薬草についても頭に入れたいな」  リルはぶつぶつ云いながら書架をうろついてはつま先立ちで本を手に取る。医術を中心に書物を探そうと決めていたがどうも本が多くて定まらない。基礎医学に解剖学、病理学、免疫学に病原微生物など幅広い。 「たっく、読み過ぎなんじゃねぇのか」  熱心に立って読んでいるところに、いつの間にかヴィルが横で大きなため息をついていた。 「……す、すみません」 「エロい本とかねぇのかよ」 「後ろの書架に、東の国からつたわったという四十八手の書物がありましたよ」  穏やかな声がリルたちの頭上に落ちた。振り返ると、ため息をついている男がいた。ヴィルに冷たい視線を投げている。長身の男だ。途端、ヴィルの声が明るくなった。 「よお、アーミルじゃねぇか。ひさしぶりだな!」 「ヴィル、お久しぶりです」 「おうおう、相変わらずいい毛並みだな」 「お褒めの言葉、いつもながらありがとうございます」  男はユキヒョウだった。身丈の図抜けて高い男が、柔らかな毛に斑点をのせて穏やかな笑みを灰色の瞳に浮かべていた。 「お、なんだ。ハルンもいたのか」 「こ、こんにちは……」  アーミルという大柄な男の後ろからひょいと顔を出す鼠らしき背の低い少年がいた。 「ハルン、ご挨拶をなさい」 「必要ないさ。小僧には怪我をしたときに随分と世話になったしな。それより二人してどうしたんだ?」 「ええ、ちょうど必要な書がありましてね。弟子のハルンも一緒に連れてきました。……ヴィル、こちらのお方は?」 「陛下の番いさまだ。リル、アーミル・ブルエンだ。初代の軍医総監だったけど、いまは引退して医術師だ」 「はじめまして、しがない藪医者です。私、アーミル・ブルエンと申します。どうかお見知りおきを」 「……よ、よろしくお願いいたします」  アーミルは折り目正しく挨拶をし、リルはぎこちないおじぎをして返す。 「リル様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」 「は、はい……。アーミル様は医術に長けてらっしゃるのですね」 「ええ。わからないことがございましたら、なんなにとお申しつけください」  アーミルはあどけない微笑を口許に浮かべ、穏やかな声で云った。リルはしばし悩むと、思いついた表情でアーミルを見上げた。 「それではおすすめの医学書などございますか?」  リルの言葉にアーミルは腕を組んで考え、左手に並ぶ書架に足を進めた。古びた写本を取り出し、長くて逞しい腕を伸ばしてリルに差し出した 「こちらの入門書はいかがでしょうか」  羊皮紙の写本を差し出され、リルは手にする。しげしげと見入るように眺め、はっとして慌てて頭を下げた。 「あ、ありがとうございます」 「医術がお好きですか?」 「はい。色々な本を読みました。医術だけは難解なところがおおくて難しいですね。どこから手を出したらよいのか……」  リルは困ったように笑うと、アーミルは柔らかなほほ笑みを口許に浮かべた。 「それならば私がお力添えいたしましょう」 「……え?」 「ちょうど時間を持て余しておりましたし、ヴィルもそばにいればご安心かと」  どうしていいのかわからず、リルはヴィルに視線を送り助け舟を求めた。ヴィルはうれしそうに頷く。 「おっ! いいじゃねぇか。どうせ暇なんだろ。家庭教師に丁度いい」 「陛下にはお伝えしますので、リル様がよろしければ進んでお教えいたしましょう」  ハルンが、アーミルの長丈の裾をつかんで困ったようにもじもじとしている。 「アーミルさま、本当によいのですか……」 「ああ。いいんだ」  アーミルはハルンの大きな耳を撫でながら、深く頷いた。国一番の医術師から学べるなんてこれ以上ない機会だ。とヴィルが戸惑うリルの横で笑っていた。

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