11 / 19

第十話

◇  馬車に乗り、随身とともに薄曇りのなか図書館へ向かった。到着するとすぐにいつもの場所へ足を運ぶ。  廊下は静まり返り、細部まで細かな装飾をほどこされた真鍮の燭台の火がゆらゆらとはためいていた。扉を開くとアーミルの姿はなく、ハルンが写本を開いて一人で待っていた。すっかり出会ったころの怯えた表情はなくなっている。 「あ、リル待ちくたびれたぞ!」 「ハルン……」 ぼんやりと視線を落とし、リルは黙って椅子に腰かける。するとハルンが顔を寄せて声をかけた。 「リル、元気がないけどどうした?」 「……あ」 「ぼうっとして入ってきて、なにか云われたか?」  小首をかしげるハルンに、リルは心配をかけまいと首を横に振る。 「なにも云われてないよ。ちょっと食べ過ぎたんだ」 「それならいいんだけど……」  何か物言いたげだったが、リルは柔らかにほほ笑んで誤魔化した。そして、いつもの長身の姿が見当たらないことに気づいた。 「そういえば、今日はアーミル先生がいないけど……」  なんとなく、今日は顔を合わせたくないと思いながらも姿がないと不安になった。なにかあったのかと身を案じていると、ハルンは困ったような顔をして答えた。 「ああ、アーミル先生は急用で来られないんだ。伝令を遣わそうとしたんだけど、俺だけでも行ってこいって云われてさ。頼りないと思うけど次の章まで教えてこいってさ。俺のほうが不安になっちゃうよ」  口を尖らせるハルンとは対照的に、リルはほんの少し安心した表情になる。 「……そうなんだ。ハルンこそ、忙しいのに僕のために来てくれてありがとう」 「俺はいつも暇しているからいいんだよ。さ、時間も少ないんだ。やろうぜ!」  ハルンは大きな瞳を向けて、人なつっこく笑いかける。鬱々としたものが緩んで、リルはふっと気持ちが和んだような気がした。 「僕も期待に応えるよう頑張るよ。今日はハルン先生だね」 「先生とかやめろよ。恥ずかしいじゃん」  ぼりぼりと頭を掻くハルンを小突きながら、リルは写本を開いてせっついた。 「ハルン先生、早くやりましょう」 「……リルは意外と意地悪だな」  二人は笑い合いながらも本を手に取り、予定の章よりさらに次へと目指しながら勉学にいそしんだ。  時間はあっという間に過ぎ、外が灰色に暗く沈んでいたことに気づく。曇り空に雲が暗澹と動き、雨音が二人の耳を打った。 「しまった。夕刻からどしゃ降りだった」 「夢中になり過ぎたね」  二人は慌てて荷物をまとめて図書館を出るが、すでに外は雷をともなった叩きつけるような激しい雨が路面をぶつけていた。 「すごい雨だよ。ハルン、帰りは?」 「俺は歩きだよ。いつも先生の馬車に乗せてもらっているけど、普段は徒歩だ」 「……でもこの雨では危ないよ。途中まで送るから一緒に帰ろう」 「いや、いい。歩いて帰る」  ハルンはリルの申し出をぴしゃりと断った。 「そんな……。町を横切って行くんだからどっちみち気にする必要なんてないよ。雨の中を帰らせたら僕こそ怒られる」 「……いや。でも」 「気にすることはないよ。ヴィルがいたら絶対にそうすると思うし」 「……そうか?」  ぴくんとハルンの髭が一本動いて、リルは大きく頷いてみせる。 「うん。風邪を引いて、ハルンと勉強できないのはいやだ。一緒に乗って行こう」 「……わかった」  回廊を進み、リルたちは外へ出た。 「さっ、濡れるから乗ってしまおう」  なにか思い惑うようにぎこちなく見つめるハルンに気づかず、リルは入口の前に止まっていた馬車へと乗り込んだ。雨はどうっと激しく降り、どんよりと重く垂れ込めた雨雲が遠くまで続いていた。 「……すごい雨だね」 「うん」  すでに辺りは暗く、大粒の雨がぱらぱらと土にぶつかる。山襞に囲まれた村からは小さな明かりが点滅して見えた。  馬車は人の少ない往来を通り、深い杉木立に囲まれた道を走っていく。屋根を叩く雨音が二人の耳朶を揺すり、いつの間にか闇が雨の音を満たしていた。  どうしてかリルが話しかけても、ハルンは口を|緘《かん》して語らない。息が詰まるような沈黙が車内に広がった。 大きく馬車が揺れたとき、不意にハルンが口を開いた。 「リルはアーミル様と結婚するのか?」 「え……」 「すでに噂になっている。宮廷はアーミル様と婚儀を挙げるって持ち切りだ」 「……そう」 「それは本当か?」 「……うん」  リルの声は細く、すぐに雨の音に紛れた。 「……そうか」 「陛下の命令だから」  同性婚は認められてはいるが、実際の婚姻は男女かつ獣人同士だ。人間と婚儀を挙げるものなんていない。アーミルはそれを承知でガーレフから話を受けたのだろう。リルはハルンの尊敬する師を巻き込んでしまうことを申し訳なく思った。 (僕のせいで、名が汚れてしまうのだろうか……)  リルは瞼を伏せ、馬車の揺れに身をまかせた。降りつづける雨音に耳を傾ける。種がちがうだけで差別的な待遇を受けることはどこに行っても慣れた。それでもチサンやヴィルのような心優しき人たちもいた。が、実際に婚儀を交わすとなるとその噂が伝播して親しい人にまで迷惑をかけてしまうことが忍びない。空気は雨気を帯び、いたずらな感慨に耽る。ガーレフの言葉は無駄だという圧で、抵抗すらできなかった。 (陛下の役に立ちたい……。でも……)  恐怖が襲う。ガーレフのためだが、アーミル・ブルエン家の後ろ盾を得て宮廷に力添えができる。それがいまのリルの役目だ。それを全うするしかない。  ……陛下はそれで満足してくれるのだろう。  斜交いに糸をひく雨を横目にリルは決心を固めようとした。そのときだった。 「リル、ごめん」  ぎしりと床板が軋んだ。 「え……」  視線を向ける前に、目と口を塞がれ、眼前が真っ暗に塞がれた。ハルンが、覆いかぶさるようにリルに襲った。

ともだちにシェアしよう!