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忘れられた歌
翌日、アンリはショックで高熱を出してしまった。男娼が風邪を引くなんて、他の店なら自己管理を怠ったとして折檻 を受けてもおかしくない。
だが、この店の店主はそうではない。自分がそういう辛い思いを散々してきたからこそ、自分の雇った男娼たちに同じ苦しみは背負わせない。
「今日は休みなさいね」
額のタオルを変えてくれ、エティエンヌは労るように髪を撫でてくれた。弱っているからか、なぜだか懐かしい気持ちになって涙が浮かぶ。殴られた目元が沁みるから、出来れば涙を流したくはないのだが。
「ごめんなさい」
そう、アンリは口にしたはずだが、頬も腫れていてまともに喋れたかは分からない。
「馬鹿ね。謝ることないでしょ? それに、ブリックス卿のこと、今まで放置していた私に非があるわ。貴方が耐えられる程度なら大丈夫なんて後回しにしちゃって……。ごめんなさいね」
腫れた頬にそっと手が添えられる。
「本当に生きてくれていてよかった……」
声が涙ぐんでいる気がするが、視線だけ動かして見上げた店主は悲し気な微笑を浮かべているだけだった。
「痛み止めも飲んだし、もうおやすみなさい」
アンリは微かに頷いて、おとなしくまぶたを閉じた。処方された痛み止めに眠くなる作用が含まれていたのか、それとも安心感からか、驚くほど心地よい眠りへと落ちていく。
昨日、アンリはブリックス卿から酷い暴行を受けた。乱暴に貫かれながら、顔や体を何度も殴られ、恐怖と激痛で気付いたら意識を失っていた。
でも、今アンリが生きているということは、異変に気付いた誰かが止めに入ってくれたのだろう。そうでなければきっとアンリは今頃……。
はじめて明確な輪郭を伴って目と鼻の先まで近づいた死の気配を思い出して身震いしながら、アンリは悪い夢を見ませんようにと願った。
遠のいていた意識がかすかに浮上し始めた時、どこかで聞いたことのある耳心地の良い低音が、聞き覚えのある歌詞を口ずさんでいた。
(これは、なんだっけ……?)
此間 、セドリック卿に連れられて見たオペラを除いて、久しく音楽から遠のいていたアンリだ。街中か、店の中か、どこかで偶然耳にしたことのある曲だったとしても、とっさにタイトルを思い出すことは出来なかった。
(ああでも、この曲……)
胸の内で熾火 となって燻りつづける恐怖心が、柔らかな風に吹かれて消し飛ばされるような安心感をもたらす、不思議な曲だった。寒い日に暖炉の付いた室内に入った時のような、ほっとする曲。
ずっと昔に、誰かがアンリの為に歌ってくれた気がする。今のアンリとよく似た顔貌の女性で、アンリの事を宝物のように慈しんでくれた。彼女の細く、頼りない指で髪を梳いてもらうのが好きだった。寒い日に、温かな体温で抱きしめられ、大好きな香りをめいっぱい吸い込むのが好きだった。
うらびれた建物の裏、人目を忍ぶように暮らしていた。ずっとずっと、大好きだった人。
「お、……かあ、さ……」
塞がらない心の虚空からか、それとも彼女が大事に産み育ててくれた身体を乱暴に扱っている後ろめたさからか、いつしか記憶の底に封じ込めてしまった唯一、最愛の家族。記憶の蓋を開いたことで、鮮明に思い出せるやせ細った顔で微笑む女性。
ぼやけた意識の中、母がいつもと変わらない微笑でアンリを見つめている。
『どうしたの? アンリ、怖い夢でも見たの?』
そうなんだ。酷い悪夢を見た。暴力を振るわれて、どれだけ謝ってもやめてもらえなくて、本当に殺されてしまうかと思ったんだ。とっても怖かったんだ。
目の前にある母の幻に、救いを求めるように手を伸ばす。その手を包み込むように握り込んだのは、母の細い指ではなかった。
無骨に骨張った男の手。だけど、不思議と心地よく、やはりアンリに懐かしい気持ちを抱かせた。
母の幻が消え、もう一つ、おぼろげな記憶がよみがえる。
手のひらに触れる節くれ立った手が、まだ柔らかい子供の手に変わったように思えたが、そちらの記憶ははっきりと見えないうちに消えてしまった。かわりにアンリの意識が浮上する。
「あ……?」
瞬きをすると、涙の粒が零れ落ちた。何度か瞬きをすると膜が消え、視界の霞が晴れる。そうして真っ先に飛び込んできたのは、心配そうに顔を覗き込んでくるリュドウィックの顔だった。
「……なんで?」
未だ寝起きで頭が働いていないため、疑問がそのまま口から滑り落ちた。
「昨晩訪ねた時に事情を聴いてね。心配していたんだ……。本当に酷い怪我だ。痛むだろう?」
「平気。痛み止め、飲んだから……」
戸惑うあまり素直に答えてしまった後で、そうじゃなくて、と訂正を入れた。
「なんで、来たの? 俺、あんたに酷いこと、したのに……」
「酷いことなどされた覚えがないのだけど……?」
難しい顔をして唸った挙句の結論だから、嘘ではないのだろう。アンリはもどかしい気持ちになりながらもっと具体的に伝えた。一昨日の夜に自分がしでかしてしまったことを。
(くっ……なんで、こんな恥ずかしいんだ……)
それがアンリの仕事で、年齢も体格も持久力も様々な男根を手練手管 で導いてきたはずなのに、リュドウィックにも同じことをしただけなのに。説明するために思い出すだけで頬が熱を持つ。
普段ははきはきとした物言いをするはずなのに、どういうわけかしどろもどろになって、目も合わせられない。今更純情ぶる自分に鳥肌が立つのに、どう頑張っても治りそうになかった。
「ああ。だってあれは君の仕事じゃないか」
ようやく説明が終わると、リュドウィックは合点がいったように微笑んだ後、今度は表情を引き締めた。眉根にかすかに皺をよせる様に、やっぱり怒っているのだろうかと落ち着かない気持ちになる。
「こちらこそ今まですまなかった。だが決して君に魅力を感じなかったというわけではない。私は君をスカウトすることばかりに気を取られていたんだ。……だが、結果的に私の自分本位な行動が、君の自尊心を傷つけていたのだね」
「……違う」
別に誰もが抱くために男娼を買うわけじゃない。それこそセドリック卿のようにかつての想い人に重ねて寂しさを紛らわす人もいる。というのは客のプライバシー保護違反に抵触するので言えないが……。
「俺はただ、今後も俺の気持ちは変わらないのに、あんたに無駄金を遣わせるのが嫌で……」
もう二度と近づかないように嫌われるような真似をしたのだと、正直に白状してしまっていた。深手を負っている所為か、未だ混乱が続いている所為か、頭を使う余裕が、今のアンリにはなかったのだ。
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