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思い出の歌
「ありがとう、アンリ」
「は? 礼を言われることなんて……」
「私の懐事情を気遣ってくれたんだよね?」
「……う。別にそれだけじゃないし」
確かにそれが理由で、今まさに自分の口で打ち明けたばかりだが、そもそも浪費させてしまう原因はアンリにあり、だけどアンリにはその原因を無くすことは出来ないから、強硬手段に出たまでだ。やはり全面的な被害者であるリュドヴィックに感謝される謂れはない。
「毎日来られて、迷惑だったし……」
ぼそぼそ、口を尖らせ独り言みたいに言い訳をする。
「すまない。そのくらい君を欲しているんだと分かってほしくて」
日ごろから泰然とした男ではあるが、この時はアンリの精神状態が妙な感じに不安定ということもあって、その余裕がちょっぴり癪に障った。
「ごひいきにしてくれる客だって、毎日は来ないもんだ。ルールだぞ。ルール」
だから、ちょっと手厳しいことも言ってみる。
「うん。ごめんね」
駄目だ。お手上げだ。アンリは途方に暮れた。
リュドヴィックは今、アンリに優しくしてもらえたと勝手に勘違いして浮かれている。こちらが冷や水を浴びせるような事を言っても全く効果がない。
諦めて、アンリはこの話題を切り上げた。気を取り直して、もう一つ、胸のはしっこにひっかかっていた疑問を口にする。
「なあ、さっきの歌……」
「歌?」
「勘違いなら、いいんだけどさ。歌ってなかった?」
それも、アンリにとってはとても懐かしい歌を。そう続けようとしたが、無理だった。なぜだか妙に心がそわそわするのだ。この年になって母を恋しがるところを他人に見せたくないからだろうか。
「ああ。歌っていたよ。うなされていたから、少しでも気分が良くなるようにと思って」
確かにオペラ歌手の歌なら効果はてきめんだろう。だがしかし……。
「安売りすんなよ。あんたにとっては大事な商品だろ?」
少なくともこんな古びた……もとい、趣のある木造建築の小部屋で男娼相手に無償で提供していい代物ではないはずだ。
「この歌は客相手に聞かせるつもりはないんだ」
「どういう意味だ? それ」
リュドヴィックは急に懐かしそうに目を細めて、アンリを見つめた。見覚えのある顔に既視感を憶える。この顔は、出会った時……いや、アンリに初めて会いに来た時の表情だ。
アンリが嘘をついていると白状するまえの……。
「この歌は私が幼少の頃、街中で迷子になった時に、孤児の男の子が聞かせてくれた歌なんだ」
「……え?」
刹那、アンリの脳裏に一瞬何かの記憶がよぎった。
「とても澄んだ歌声で、痩せ細った体から出ているとは思えないほど奥行きのある声量だった。私は今でも忘れられずにいる。あれ以上の美声にはきっと出会えないだろうと思っていた」
泣き止まない子供に、母から教わったタイトルも正しい音程も知らない歌を聞かせてやった。
そんな記憶の最後に紅葉のように小さな手で精一杯拍手をする幼子の姿が浮かぶ。
「だが、君に出会った。いや、再会したというべきか」
健康的ではあったが、慢性的な栄養不足だった当時のアンリより小さかった。
思い出はおぼろげで、顔もはっきりとは見えないけれど。
「だから、私にとって君の歌声は特別なんだ」
純真な微笑みに当時の面影が重なる。アンリはリュドヴィックが再会した日にしたかったであろう会話を今になって出来るようになった。そのために必要なパーツを取り戻した。
「あんな、ささいなこと。ほんとに覚えてたわけ?」
声が震える。
ただ覚えてくれていただけではない。大切に大切にしまっておいてくれたのだ。オペラ歌手で、プロの歌声も聞き慣れているだろう彼が、素人のアンリの歌声を憶えていてくれた。思い出補正がかかっていたとしても、褒めてもらえたことが素直に嬉しかった。
だってその曲はアンリにとって母の思い出の曲でもあるから。
「些細なことではないよ。君の歌声を知ったから、私は歌うことに興味を持てた。それまでは将来的に父から歌劇団を受け継ぐことになると聞かされてもピンとこなかったが、将来に向けて真剣に歌劇に向き合うことが出来るようになった」
両親の急逝のあと一時解散の危機に陥った歌劇団を再びひとまとめにした意欲すら、アンリからもらったというのだが、さすがにそれは誇張だろう。
「解散の危機を免れたのは、あんたが頑張ったからじゃん」
つい思ったことが口から零れ落ちてしまうと、リュドヴィックはそうだね。と答えた。ただ、心が伴っているかどうかは分からない。
どうやらリュドヴィックはアンリを過大評価しているようだ。義理堅いにしても限度がある。一回助けてやっただけの恩義をそんなに大切にされても困るのだ。なぜなら、アンリは。
「俺は単なる孤児上がりの男娼だよ」
これからも、変わらない。スカウトを断るつもりで言ったのだが、リュドヴィックは愕然とした顔になった。何をそんなに驚愕することがある。アンリが問う前に、リュドヴィックが口を開く。
「アンリ。君……こんなひどい目にあってまだ男娼を続けるつもりなのかい?」
その疑問は想定内だった。だからアンリも冷静に答えることが出来る。
「あんなの、春を売って食べてるやつらの間じゃ日常茶飯事だし。死なない限りは、生きるために稼ぐんじゃない? そんなに長く続けられる商売じゃないし」
とうが立って使い物にならなくなるまで店に出るつもりだ。生きるためでももちろんある。だが、何よりも……。
「死を待つばかりだった俺を拾って仕事を与えてくれた店主に報いるためにも、俺は男娼を続ける」
リュドヴィックがアンリに恩を感じてくれたように、寒い冬の日、雪のなかに倒れて半ば埋まっていたアンリを助けてくれたエティエンヌに、アンリは深く感謝しているのだ。
「あんたの気持ちはわかったけど、でもやっぱり俺は、あんたと一緒には行けない」
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