11 / 21

迷いと答え

 決然と言い放つが、リュドヴィックの表情は硬いままだった。 「君の気持ちはわかった。……だが、店から出た後はどうするつもりなんだ?」  リュドヴィックのもっともな疑問に対し、アンリは口を閉ざした。正直、店を出るころには身体もズタボロだろうと思うのだ。特にやりたいこともないし、夢を語る程アンリは世間を知らない。それに、飛び込むには遅い年齢になっているだろう。どこへ行ったって門前払いされる。  だからアンリは、もしも多少の退職金をもらえたら、それと貯金を使い果たして生涯を閉じるつもりだった。  だがそんな投げやりな人生を送ろうを考えているなど、言えるはずがなかった。しかしリュドヴィックの探るような視線が痛い。適当な嘘を吐いても即座に見抜かれてしまうだろうと予想できた。だから、アンリは閉口するしかない。 「……今のは少し意地悪な質問だったね」  アンリの頑なな態度を見てか、リュドヴィックは自分の質問を取り消してくれた。ほっとして、アンリは口を開く。固く閉じていたせいか、切れた口端がぴりっと傷む。 「アンリ。私はこれからも君に会いに来るつもりでいる。君の決意が固いことは分かった。だが、私も譲れない」  アンリもそうだが、リュドヴィックもなかなか頑固だ。まあ、そうでなければ毎夜スカウトに来るはずもないか。呆れてしまうが、人のことは言えない。アンリとリュドヴィックは存外似た者同士なのかもしれなかった。 「それに君の怪我の具合も心配だからね。……ただ、明日からまた歌劇場で公演がはじまる。公演は夜だからもう仕事中に会いに行くことは出来なくなるだろう」 「仕事忙しいなら来なくていいのに……」 「私が会いたいんだ。だからこうして、明るい時間に会いたい。今までのように長い時間は留まれないが、君の顔が見たい。声が聴きたいんだ」  迷惑だ、とは思えなかった。むしろ、無理に時間を捻出してまで会いに来てくれることが嬉しいとさえ考えてしまい、そんな自分の気持ちに戸惑う。 「俺に時間外労働しろっての?」  なのに、口先は素直じゃない。嬉しいくせに、ひねくれた物言いをしてしまう。 「気を張らなくていい。君には、……そうだな。ここに居る、君の仲間たちのように接してもらいたい」  つまり、友達になりたいということだろうか。それもやぶさかではない。今だって、客として毎夜会っていた時だって、アンリはリュドヴィック相手には気を張らずにいられた気がする。  セドリック卿に対しても、時に孫のように、時に奥さんの思い出話を聞く聞き役としてのびのびと接していたが、あれだってアンリはきちんとセドリック卿の様子をつぶさに観察して、タイミングを誤らないよう気をつけていた。  別にセドリック卿は失敗したところで憤慨したりはしない。だが、悲しませてしまうのが辛かった。せっかく立ち直ったのに、またふさぎ込むようになっては可哀想だから。だからある意味誰よりも気を遣う客だったのだ。  だが、リュドヴィックに対しては違う。アンリはずっと剣突を食わせていたが、それがアンリの素なのだ。可愛げがなくて、生意気で……だけどリュドヴィックはそんなアンリを寛大に受け入れてくれた。だからアンリも、本当は……。 「俺は……」 「あんたに拒否権はないわよ。アンリ」  また口から天邪鬼な言葉が飛び出しそうになった時、思わぬ横やりが入った。いや、正しくは助け舟だろうか。 「ん。だいぶ腫れも治まって来たじゃない。さすが若い子は治りが早いわね。それとも薬がいいのかしら」  どうやらアンリの様子を見に来てくれたらしい。顔を覗き込んで安堵の笑みを浮かべた。 「拒否権はないって、どういうこと?」  アンリが問うと、母のように慈愛に満ちた笑みが一瞬で意地の悪い悪魔の笑顔に変わった。 「あんたのバカ高い治療費は、この子がここ数日あんたに貢いだお金でまかなったのよ。つまりあんたは彼に救われたようなものなの」 「え……?」 「命の恩人のためなら時間外労働なんて苦でもなんでもないわよねえ」  店主は笑顔だが、有無を言わせぬ圧があった。口答えすら許さないというような、けが人を容赦なく上から押さえつけるような威圧感。  だからアンリは頷くことしか出来なかった。 「いい子ね。そういうわけだから、明日から頑張りなさい」  そしてさりげなくリュドヴィックに辞去を促す。確かにそろそろ眠くなってきたところだ。薬で無理矢理誘発されているからか、眠気に抗うことが出来ない。 「アンリ。また来るよ」 「来なくていい」  気持ちとは正反対の言葉は、音にならなかった。  それからリュドヴィックは宣言通り毎日のように現れた。翌日にはアンリが起き上がれるようになったことを本人以上に喜び、三日後にすべての包帯がとれるとその翌日にはお祝いにと本を買ってくれた。 「なんで本?」 「実は今公演中の舞台の原作でね」 「なんだ。宣伝か」  アンリに文字が読めるのか確認しなかったところを見るに、予めエティエンヌあたりに相談していたのだろう。  妙な契約を勝手に結ばせないようにということで、仕込みの時期にエティエンヌが教えてくれたのだ。  もうすっかり身体は元気なのに、顔の腫れが引くまでは客前に出せないと言って強制的に休まされているから、暇でしょうがなかったのだ。これはちょうどいい暇つぶしになる。 「ありがと」  嬉しいが、出来ることならオペラで見たかったような気もする。リュドヴィックが素晴らしいテノールボイスで語る物語はきっと素晴らしいものだったろうに。

ともだちにシェアしよう!