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人魚姫

 ちなみにアンリに贈り物をしてくれるのはリュドヴィックだけではない。  セドリック卿も心が休まるようにとハーブティーのセットをくれたし、他の客たちもあれこれお見舞いをしてくれる。だけど、こうして実際に顔を合わせることが出来るのはリュドヴィックだけだ。  これは仕方がない。リュドヴィックはアンリのために治療費を負担してくれたのだから。アンリとしてもあくまでも義理を果たす為に、会うしかないのだ。  そう言い訳をしているが、実はこのところリュドヴィックが来るのが待ち遠しくてしょうがなかったりする。  そして待ちわびた時間がやって来ると、忙しい中来なくて良いと可愛いげのないことを言いながら、内心心がぽかぽかしてしまうのだった。 「なあ、これ、どんな話?」  表紙には上半分が人、下半分が魚の奇怪な生き物が描かれている。海の中なのだろう。彼女のまわりにはさんご礁や海藻、小魚なんかがいて、カラフルで楽しそうだ。  なのにも関わらず、彼女はまるで何かに焦がれるように頭上を見上げていた。 「人魚の少女が、人間に恋をするお話だよ」 「ふーん」  膝を立てて座り、腿を本立て代わりにして、適当にページをめくってみる。比較的簡単な文法で綴られているのを見るに、子供向けの童話のようだ。 「で、最後はどうなんの?」 「聞いてしまうのか?」 「だって、復帰までに最後まで読めないと仕事中気になっちゃうかもしれないし」 「なるほど」  納得して、リュドヴィックは人魚姫の話を掻い摘んで教えてくれる。結果的に、聞いておいてよかったと思った。人魚姫の結末は、あまり気持ちの良いものではなかった。結果的に彼女はつかの間の夢の代償に泡となって消えたのである。 「悲しすぎるな」  どうやら泡になった後に救いはあるようだが、彼女が恋した王子は本当の恩人を見抜けないばかりか中途半端に口説いた挙句他の女と結ばれている。 「俺なら王子刺し殺して契約解くけどな」 「ふふ」 「なっ、なんで笑うんだよ」  リュドヴィックがくすくす笑い出すので、アンリはぷんぷん腹を立てている自分が恥ずかしくなった。よくよく考えれば作り話なのだ。こないだのオペラといい、どうにもアンリは感情移入しすぎる性質らしい。それを馬鹿にされたようでむくれるが、どうやらリュドヴィックが笑った理由は別の部分だったようだ。 「そうかな。私はアンリも同じ選択をすると思うけど」 「ふん。俺はそんなに優しくないですから」 「自分が誘拐犯に疑われてしまう危険性も顧みず、私の両親を探してくれたのに?」  痛いところをつかれ、ぎくりと身体を硬直させた。 「あ、あれは……あんたがべそべそ泣くからだなっ。ていうか、あんた年上のくせに年下にあやされて恥ずかしくないのか?」 「いや、それに関しては本当に情けない限りだよ」 「ほんとに思ってる?」 「本当だよ」  いまいち信用できないが、なんだか妙に恥ずかしいのでこの話題はこれ以上膨らませたくない。 「まあいいけど」  開きっぱなしだった本を閉じて、埃を払ってからサイドテーブルの上に乗せた。アンリは身綺麗にするのは好き……というか仕事なので慣れているが、部屋の掃除はあんまり得意ではないのだ。 「でもそうだな。……私なら、人魚姫を別人と間違えたりはしないだろう。たとえ彼女が、清らかな声を失っていたとしても、私には分かるから」 「……え」  ふいに顎に指を添えられ、リュドヴィックの方を向かされる。美麗に微笑む秀麗な顔が近くにあって、アンリは胸が苦しくなった。 「海のような清らかな瞳。君はかつてもその純真な瞳で私を見つめていた。だから私には分かるんだよ。君が私の愛する人だと」 「……っ」  男娼が……本来は誘惑する側の人間が、この程度の事で動じてはいけない。逆に誑かして手玉に取るくらいの気概がなくてはならないのに、頭の中は真っ白になってしまった。  するのには慣れているのに、されるのには慣れていない。その経験の浅さがアンリの思考を止めてしまったのだ。  この先どうすればいいのか。なんと答えればよいのか。それすら思い浮かばず見惚れていると、ふいにリュドヴィックが離れていった。 「私たちの歌劇では、こういう展開になる」 「へ……?」  目を細める妙に色っぽい微笑から、人当たりの良い邪気のない笑顔に変わってリュドヴィックが離れていく。 「モチーフにはしているけれど、まるっきり同じ結末になるわけではないんだよ」 「な、なんだ。急に……びっくりするじゃん」 「はは。すまなかったね」  もう演技だと分かったのに、未だに心臓がうるさい。そんなに取り乱さなくたっていいだろうに。だが、暴れる心音とは裏腹に、すっと身体が冷えていく感覚がアンリを襲った。 (なんだ……演技か)  そんなふうに落胆してしまう自分に仰天する。 (あ、当たり前だろ。何考えてんだ……!)  リュドヴィックは小規模とはいえ歌劇団を束ねる座長で、裕福とはいえなくとも衣食住に困らず生活していけて、ついでに男娼に貢げるくらいの稼ぎのある人だ。  そんな一般人が男娼を本気で口説くはずもないというのに。 (それに、惚れられたって困るだけだしっ)  アンリは男娼、リュドヴィックはオペラ歌手。二人の住む世界はあまりにもかけ離れている。 (そうだ。だから、好きになっちゃだめだ……)  なかなか静かになってくれない心臓のあたりの服をぎゅっと握って、アンリは自分に言い聞かせるように何度も何度も心の中で叫んだ。

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